昭和23年(1948年)創業、今年で70年を迎えた「はとバス」。平和と観光の時代を先取りし、以来、紆余曲折がありながらも、首都圏の観光バスの代名詞とまで言わしめるほどの地位を築きましたが、その歴史とはどんなものだったのでしょうか。はとバス広報室・峰岸智美さんに話を聞きました。
復興もままならない、戦後すぐに創業されたはとバス
――まず、驚いたのは今から70年前、昭和23年(1948年)に観光バス会社を始められたということです。当時はまだ戦後間もなく厳しい時代ですから、観光のニーズはまださほど多くなかったのではないでしょうか。
峰岸智美さん(以下:峰岸) そうですね。確かにクルマ自体が少ない時代で、運転手もいないですし、燃料もままならない時代でしたので、決してスムーズな創業ではなかったようです。
ただ、弊社の創業者・山本龍男という人物が、「観光で日本を立て直すことができないか」「観光バスというものを東京に走らせたい」ということを目指して会社をおこしました。
――それまでは観光バスは日本にあったのでしょうか?
峰岸 戦前に、東京乗合自動車の「東京ユーラン乗合自動車」というものがありました。定期路線のバスに、観光をセットとした乗り合いのものですが、戦時中になくなったようです。
その後、東京乗合自動車を統合した東京地下鉄道出身の山本が、都内観光バス事業の再興を目指し、弊社を創業しました。ですから、影響は受けているようですが、はとバスの創業は、この時代では大胆な試みだったことは間違いないです。
利用者122万人オーバーとなった1964年!
――創業時のはとバスの利用者は、どんな方が多かったのですか?
峰岸 当初はアメリカ人と富裕層の利用者が多かったようです。初年度に利用された方は860人。そこから数年間は、少しずつ増えていき、年間で3~4万人でしたが、1964年の東京オリンピックの年、弊社として最大となる122万人が利用してくださった記録があります。
――これはいまだに超えられいないんですか?
峰岸 はい。現在の東京観光のご利用人数はが約92万人ですので、いまだに超えられていません。東京オリンピックの際は、選手の輸送などを行ったほか、一般向けに、オリンピック閉会後、施設を見学するコースなども実施し、この評判が良かったようです。このコースだけで1日に30便出ていました。