おもしろローカル線の旅33 〜〜JR久留里線(千葉県)〜〜
JR久留里線は千葉県・房総半島の木更津駅と上総亀山駅(かずさかめやまえき)を結ぶ。終点の上総亀山駅の先は、もう線路はない。いわゆる行き止まり路線であり、鉄道ファンが言うところの典型的な「盲腸線」だ。
たぶん地元に住む人以外はあまり知らない路線といっていいだろう。筆者もその1人だった。まああまり期待しないで、などと思いつつ訪ねたら。あれ〜! 失礼しました。それこそ予想外の“発見”の多さに驚かされたのである。
【久留里線で発見①】陸軍の鉄道連隊が造った元県営鉄道線
今回は直接、始発駅の木更津駅へは行かず、ちょっと寄り道。千葉駅で降りる。なぜ千葉駅なのか。それは久留里線の起源と大きな関わりがあったからだ。
起源に触れる前に、まずは久留里線の概要を見ていこう
路線と距離 | JR久留里線・木更津駅〜上総亀山駅間32.2km |
開業 | 1912(大正元年)年12月28日、千葉県営鉄道久留里線の木更津駅〜久留里駅間が開業、1936(昭和11)年に上総亀山駅まで延伸 |
駅数 | 14駅(起終点を含む) |
久留里線は、千葉県営鉄道として開業した。県内の道路の整備が遅れていたこともあり、県の主導により鉄道整備が急がれたのだった。他に東武野田線(東武アーバンパークライン)も千葉県営鉄道として開業している。
さらに興味深いのは、久留里線が、陸軍の鉄道連隊によって造られた路線だったということだ。千葉駅の北東にある千葉公園。約16haという広大な敷地に陸軍の鉄道連隊第一連隊の演習場があった。
千葉公園の中には今も演習用のトンネルや架橋演習用の橋脚跡が残っている。とはいえ公園を訪れる人たちの中に、この公園が太平洋戦争の前まで陸軍の施設だったことを知る人はほとんどいないだろう。
当時、占領地などでの輸送は鉄道が主体で、鉄道により多くの物資を運んだ。戦車などの軍事物資も鉄道により運ばれた。新たに占領した土地でいかに早く鉄道を敷設して整備するかが重要なポイントだった。そんな鉄道の敷設・輸送のための人材を育てるために、1908(明治41)年に千葉町(現・千葉市)に鉄道連隊が設けられた(前年に生まれた連隊が千葉県津田沼町から移転した)。
鉄道連隊は現在の千葉公園内にある演習地で訓練を積む以外に、県内外の線路の敷設や整備を行った。久留里線の新設工事も訓練の場として使われたわけだ。千葉県では、久留里線、野田線、小湊鐵道線、東京では西武鉄道(現・西武鉄道とは異なる)新宿線などが、鉄道連隊により線路の敷設が行われている。
当時の千葉県としても好都合だった。用地を買収し、路線の建設を連隊にお願いすれば、人件費・作業費なしで線路の敷設をしてもらえたのだった。平和な時代となった今、広々とした千葉公園や、久留里線などの多くの路線がかつて戦争を推し進めるための演習の場だったとは想像しにくい。
【久留里線で発見②】何のために久留里線が造られたのか?
鉄道連隊が敷設に関わり県営鉄道として生まれた久留里線。とはいえ、どのような目的で設けられたのだろう。久留里線は1923(大正12)年の9月に国鉄久留里線となった。その後の1936(昭和11)年には現在の終点駅、上総亀山駅まで延ばされている。
久留里線の沿線には久留里という小さな城下町がある。街と呼べるのは久留里のみだ。あとは木更津の住宅地と、農村が広がる沿線だ。あえて上総亀山駅を終点にしなくても、と思う。
路線を造った理由、そして答えは別に存在した路線名にヒントがある。外房線の大原駅を起点とした路線が内陸部の上総中野駅まで延びている。現在はいすみ鉄道が運営するこの路線。国鉄時代は木原線と呼ばれた。木原線の「原」は大原駅の「原」で、さて「木」は何を意味するのか? 木原線の「木」は木更津駅の「木」だったのだ。つまり久留里線は大原駅から延びる木原線と結びつけ、房総半島を縦断する路線にしたいという意図が昭和初頭の国鉄にはあった。
一方、元国鉄木原線の終点駅、上総中野駅へは、内房線の五井駅が始発となる小湊鐵道の路線が1928(昭和3)年にすでに路線を延ばしている。一方の国鉄木原線は1934(昭和9)年に上総中野駅まで開業して、同駅で小湊鐵道線との接続を果たした。小湊鐵道経由となったが、ひとまず房総半島を縦断する路線は誕生した。
地図で見ると現在は国道465号が久留里線の上総亀山駅と、いすみ鉄道の上総中野駅を結んでいる。この間は地図を見る限り、山また山であることが分かる。さすがに当時の国鉄も採算が取れないと考えたのだろう。新線計画は打ち切りとなった。計画が打ち切りになったことで、久留里線はその後、盲腸線としての宿命を背負ったのである。