おもしろローカル線の旅40 〜〜JR左沢線(山形県)〜〜
左の沢と書いて「あてらざわ」と読む。すぐに読めた方はかなりの鉄道通と言って良いかも知れない。路線名そのものが難読地名というJR左沢線。山形駅(路線の正式な起点は北山形駅)と左沢駅を結ぶローカル線である。
この左沢線、車窓から見える景色が変化に富む。さらに調べてみるとなかなか興味深い見どころや史跡、不思議な事がらが浮かび上がってきた。沿線で注目した10の秘密を解く旅に出かけてみよう。
【左沢線の秘密①】なぜ左沢まで路線が敷かれたのだろう?
全線が単線、非電化の左沢線。地図をみていただくとわかるように、左沢線は山形県の県庁所在地、山形市の中心から西へ向かい、最上川をわたり、さらに最上川沿いにある左沢駅へ向かう。その先に路線はない。いわゆる“盲腸線”である。
左沢という町(町名でいえば大江町)も、現在は大きな産業を持つ町ではない。どうして左沢に向けて路線が造られたのだろう?
その理由を見ていく前に路線の概要に触れておこう。
路線と距離 | 左沢線/北山形駅〜左沢駅24.3km |
開業 | 1921(大正10)年7月20日、山形駅〜羽前長崎駅間が開業、1922(大正11)年4月23日、左沢駅まで延伸 |
駅数 | 11駅(起終点を含む) |
左沢線は当初、左沢軽便線として誕生した。1910(明治43)年に法整備された軽便鉄道法という法律を元にして生まれた。この軽便鉄道法とは、幹線を作る時のように厳しい条件を設けずに地方路線の延長促進を図るという政府の願いから生まれた法律で、その後わずか9年で法律が廃止されている。
いわば緩い制約下の中で路線の敷設を進めようというものだった。
歴史を振り返ると、山形は県内を流れる最上川の舟運が盛んに利用されていた。四季を通して水量が豊富な最上川はこの舟運に向いており、河口にあたる酒田、中流域の新庄、山形、さらに上流の米沢と米や産品などの輸送に最上川が使われた。舟運を通じて遠く上方、そして江戸へ物資の輸送を行った。左沢はその中流域にあった重要な拠点で、当時は舟運で栄えた町だった。
ところが1903(明治36)年に奥羽本線が新庄駅まで開通、さらに1914(大正3)年に陸羽西線が開通した。鉄道網の整備で舟運は急速に下火になっていく。とはいえ、当時はまだ繁栄の余韻を残していた左沢を目指す路線が計画されたのだった。
最上川沿いにはそうした町が複数あり、左沢駅まで線路が敷かれた後に、次は最上川沿いを荒砥(あらと)まで延ばす計画があった。しかし、この計画は実を結ぶことなかった。ちなみに米沢側の赤湯駅から荒砥駅までは現在、山形鉄道(旧国鉄長井線)が走っている。
【左沢線の秘密②】両運転台付き気動車が6両編成で走る“偉観”
左沢線の起点は北山形駅となっているが、列車はすべて山形駅から発車する。よって同原稿でも山形駅から旅を始めることにしよう。
山形駅7時3分発の“始発列車”に乗り込もうと6番線ホームで列車を待った。するとホームに寒河江駅発の上り列車が4両で滑り込んできた。6番線ホームは行き止まり式ホームで、線路止め近くに先頭車が到着する。
ホームに到着した4両に加えて、さらに前に2両が増結された。なんと6両と、ローカル線の列車編成としては、長い編成になった。
左沢線の気動車キハ101系は、1両でも運転可能な前後両方に運転台あるスタイル。そうした車両が最大6両も連結され走る姿は、まさに“偉観”と言ってよいかも知れない。
こうした長い編成で走る姿は左沢線のいわば名物となっていて、沿線でカメラを構える姿が良く見かけられる。さて6両編成で発車した列車は、どこまでどのように走るのだろう?