「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルーって、なにこれ? どういう意味?(笑)」
私がリビングのテーブルの上に置きっぱなしにしていた一冊を見て、小3の息子がクスッと笑いながら楽しげに話しかけてきた。彼の8年間の人生の中では、人種をカラーで表現されることがあることなどまだ知る由もない。
純粋に、自分のことを黄色で白でちょっと青って、どういうこと? なんか色が次々登場して面白いね、という意味合いで質問をしてきたのだ。
「うーん、じつはママもまだ読み始めたばっかりだから、よく意味がわかんないんだ。読み終わったら、どういう意味だったか話すね」
ここ数か月、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ・著/新潮社・刊)の評判をあちこちで耳にする。みな口を揃えて「絶対に読んだほうがいい!」と言うので、あまりに前評判高すぎると「ほんまかいな…」とナナメに捉えてしまうひねくれ者の私だったが、ひとまず購入してみた。そして、読み始めた矢先の息子からの質問だった。
事実は小説より奇なり。英国で暮らす「ぼく」と「母ちゃん」のリアリティ
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、保育士であり、ライター・コラムニストであるブレイディみかこさんが描く、ノンフィクション。福岡出身・英国在住のパンクな「母ちゃん(ブレイディみかこさん)」とその息子、英国人と日本人を親に持ち、「元底辺中学校」に通う11歳の「ぼく」の物語だ。
市の学校ランキング1位という公立のカトリック校に通っていた優等生でいい子の「ぼく」は、中学生になり一転、生徒の9割以上が白人の英国人という公立の中学校に通い始める。学校の呼び名は、「元底辺中学校」。
ここで「ぼく」は、じつにさまざまな多様性と出会う。人種。民族。移民問題。貧富の差。階級。ジェンダー。さらに英国の今を物語るかのような、EU離脱派と残留派。高齢者と若年層。
「ぼく」の友人には、人種差別丸出しの美少年(後に、その差別的視点や罵る言動は、彼の親の影響だということがわかり、グサリとこちらの胸を刺す)もいれば、「夏休みはずっとお腹が空いていた」と語る、家が貧しい故に万引きを繰り返す小柄な少年、自分のジェンダーに悩むサッカー少年、生徒会長を務める中国人の少年など、人種も貧富もごちゃまぜだ。
「ぼく」自身も、英語しか話せないため、日本に帰れば度々「ガイジン」と好奇の目で見られ、一方東洋人の見た目から中学校では「チンク(中国人に対する蔑称。同じ東洋人である日本人にも用いられることがある)」と言われるなど、レイシスト(差別的な言動をする人)から口撃される。
さぞや生き辛い学校生活かと思いきや、「ぼく」や周りの子どもたちは、壁にぶち当たりながらも、時にひょいっと、時に必死でよじ登り、時に一度地面に落ちながらもまた立ち上がり、大人たちの常識のナナメ遥か上からその壁を飛び越えていく。
「誰かの靴を履いてみること」シンパシーとエンパシーの違い
「ぼく」の学校のシティズンシップ・エデュケーション(政治教育・公民教育・市民教育などの意)の試験で、「エンパシーとはなにか」という問題が出た。「ぼく」が書いた答えは、「自分で誰かの靴を履いてみること」だったそうだ。
エンパシー(empathy)とは共感・感情移入・自己移入などと訳されている言葉で、自分とは違う立場の人々や違った意見を持つ人々の気持ちを想像してみることが、いま世界中で起こっているさまざまなトラブルや混乱を乗り越えていける。そう、「ぼく」は先生から学んだ。
これと混同されがちなのがシンパシー(sympathy)で、「誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと、またはそれらの行為や理解」。つまり、かわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人に対して抱く、自分で努力しなくても自然に湧き出る感情のことだ。
一方エンパシーは、自分とは違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのか想像する力のことだと、みかこ氏は述べる。
まさに、「誰かの靴を履いてみること」そのものだ。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』では、要所要所でエンパシーについて考えさせられる。とても奥深く、でも「ぼく」の考えや行動は、じつに素直。いま、世界中の人に必要なのはエンパシーなのかもしれない。
最後の章で、「ぼく」の気持ちはブルーから何色に変わっているか?
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というタイトルは、「ぼく」がノートに落書きしていた言葉だ。このころの「ぼく」は、「ブルー=怒り」の感情をあらわすと思っており、先生から「悲しみや気持ちがふさぎ込んでいること」だと教えられた、ちょうどそのとき。
「ぼく」が日本人の「母ちゃん」と英国人の父との間に生まれたことで、レイシズムみたいな人種差別めいた扱いを受け、怒りを感じていたのか、はたまた悲しみを感じていたのかは定かではない。けれども、「母ちゃん」はその落書きを見て、「胸の奥で何かがことりと音をたてて倒れたような気がした」という。
私には、「母ちゃん」と「ぼく」の関係性がじつに羨ましい。「ぼく」の感覚も、「母ちゃん」の返しも、寄り添い方も、本当に素敵だ。親子一緒にたくさんの出来事を乗り越えたその先に、「ぼく」はブルーからどんなカラーの気持ちに変わったのか。その答えは、ぜひ本書を読んで確認してみてほしい。
さて、冒頭で息子から聞かれた質問の答えを、そろそろ伝えるときだろう。
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」とはどういう意味なのか。何から話そうか。一言では言い表せないから、まずは息子とたくさん話しをしよう、「ぼく」と「母ちゃん」のように。そしてもう少し大きくなったら、この本を勧めよう。私が教えることなく、「誰かの靴を履いてみること」という選択肢が、彼の中で自然に生まれるように。
【書籍紹介】
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
著者:ブレイディみかこ
発行:新潮社
大人の凝り固まった常識を、子どもたちは軽々と飛び越えていく。優等生の「ぼく」が通う元・底辺中学は、毎日が事件の連続。人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり。世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子とパンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。落涙必至の等身大ノンフィクション。