〜〜鉄道痛快列伝その1: 阪急電鉄創始者・小林一三の生涯〜〜
歴史を語る時に“たられば”はない。だが、もし日露戦争後の恐慌がなかったら、今の阪急電鉄は生まれなかったかも知れない。元銀行マンだった小林一三(こばやしいちぞう)という人物がちょうどその場に居合わせたことが大きかった。
不況下で無職となっていた小林一三。そんな時に巡りあった新鉄道会社の立ち上げの話に、失敗を恐れずにぶつかっていった。新型コロナウィルス騒ぎで世界的な不況の波が訪れている今、彼の生き方が参考になるかも知れない。鉄道痛快列伝の1回目として阪急電鉄の創始者、小林一三の生涯を追ってみた。
【小林一三の生涯①】けっして恵まれた生い立ちではなかった
大阪のターミナル駅といえばJR大阪駅と、隣接する阪急電鉄の大阪梅田駅が代表格といって良いだろう。大阪梅田駅からは、神戸方面、京都方面、宝塚方面へ向かう電車が引っ切りなしに発車している。
現在、一日に約50万人が利用すると言われる大阪梅田駅。西日本の大手私鉄の駅の中で最大の乗降客数を誇る。こうした阪急電鉄の礎を創り出したのが小林一三である。一三抜きにして阪急電鉄を語ることはできないと言って良いだろう。
その生涯は、これまでテレビドラマや演劇で紹介されてきたこともあり、ご存知の方も多いかと思う。本稿ではなるべく鉄道に絡むエピソードを中心に一三の人となりに触れてみたい。まずは生い立ちから。
小林一三は1873(明治6)年1月3日、山梨県北巨摩郡河原部村(かわらべむら/現・韮崎市)の商家「布屋」分家の長男として生まれた。母は一三を生んだその夏に22歳の若さで亡くなった。父は婿だったこともあり、一三らを残して実家に戻っている。決して恵まれた幼少期と言えない。その後、一三は本家の大叔父夫妻に引き取られ、実子と同じように厳しく育てられた。
1888(明治21)年、15歳の時に上京して慶応義塾へ入学。福沢諭吉から直接、教えを受ける。経済を学んでいたものの、本人は小説家を志していたとされる。文章を書くことに好きだったため、卒業を前に新聞社を志望したが、願いは叶わず。1892(明治25)年、20歳の時に三井銀行(現在の三井住友銀行)に入社した。翌年に大阪支店勤務となり、ここで大阪の経済人との接点が生まれた。
後に一三は執筆好きが高じ、多くの文章を残しているが、自らの人生を振り返った『逸翁自叙伝(いつおうじじょでん)』では、「銀行の仕事は少しも面白くない」と言い切っている。
同自叙伝には、結婚までの経緯について触れている。後世の者が見ると、ちょっとびっくりさせられる内容だが、気取らず、ユーモラスな一三の人柄が垣間見れておもしろい。少し触れておこう。
まず見合いを勧められ、東京へ。候補の2人のうち1人に会い、結婚を決め、そのまま大阪へ連れて帰った。結婚の報告を会社に提出したものの、一方で長く付き合う愛人がいた。結婚後に愛人と有馬温泉で数日間を過ごす。そうした事実を知った妻は東京へ帰ってしまう。
体裁の悪さもあり、妻に戻ってもらうように連絡を取りつつも、結局、長い付き合いの愛人がその後の幸(こう)夫人となった。夫人とは15歳からの付きあいで18歳の時に結婚したとされる。自叙伝で隠し立てすることなく書き留めた人柄を好印象に思う反面、現代人が見るとちょっとそれは……である。とはいえ、「銀行内における私の素行(そこう)は、極端に非難されて」いた。さすがに銀行では良く思われなかったようだ。その後、幸夫人とは長年つれそい、3男2女の子どもに恵まれた。
【小林一三の生涯②】岩下清周に誘われ銀行を辞め大阪へ。しかし……
10年以上にわたり銀行員として勤めていたものの、一三はそれを一生の仕事と考えていなかった。いつかは生涯を賭けることができる仕事を、と思っていた。鬱々とした思いを抱くそんな時に、大阪支店長として岩下清周(いわしたきよちか)が赴任してきた。この岩下との出会いがその後の人生を大きく変えた。
剛毅で親分肌の岩下は、支店長として赴任したものの、三井銀行では浮いた存在となっていた。幹部と上手くいかずに、辞めてしまう。そして岩下は北浜銀行という新しい銀行を立ち上げた。その後、北浜銀行は豊田自動車などの有望な新規事業への投資を惜しみなく行っていった。
そうした活動を羨ましく思いつつも、東京勤めを続けていた一三だったが、岩下から大阪で証券会社を設立するから支配人にならないかという誘いに乗り、会社を辞めて家族そろって大阪へ向かった。34歳のことだった。
ところが、日露戦争で特需に沸いた日本経済は、急激に冷え込み始めていた。戦争に勝利したものの、賠償金を得られなかったこともあり恐慌に陥る。「明治四十年恐慌」とも呼ばれる恐慌である。一三がちょうど大阪へ降り立った日に、株の暴落が始まっていた。
頼りにしていた岩下に会うこともまま成ならずで、自叙伝で「生まれて始めて無職に落ちぶれる心細さ」と語っている。
その後、やや落ち着きを取り戻したころ、当時、北浜銀行頭取だった岩下からお呼びがかかる。阪鶴鉄道(はんかくてつどう)の監査役に「小林をと決まったから」ということだった。
阪鶴鉄道という鉄道会社は大阪から福知山、舞鶴を結ぶ鉄道線で、その時には国有化されることが決まっていた。いわば残務処理のためのお誘いで、後に一三は「御同情によって監査役に新任されたのである」と語っている。とはいえ一三が鉄道事業に関わるようになった最初の出来事であった。
【小林一三の生涯③】阪急の前身、箕面有馬電気軌道という会社は?
阪鶴鉄道の重役らは、国有化された買収費用に加えて投資家からの資金で、箕面有馬電気軌道(みのおありまでんききどう)という新しい鉄道会社の計画を進めようとしていた。すでに認可申請、出願許可を受けていた。ところが、おりからの不況である。計画は頓挫しかけていた。
この箕面有馬電気軌道こそ、その後の阪急電鉄の箕面線、宝塚線となる路線を敷設した会社であり、現在の阪急電鉄のルーツにあたる。
一三は阪鶴鉄道の清算業務を続けるとともに、箕面有馬電気軌道の線路が敷かれる予定の大阪〜池田を何往復か歩いた。そこで住宅経営などを同時に行えば新路線に勝算ありと考えるようになる。
そして岩下に「私はこの仕事をやって見たいと思います」と掛け合った。対して岩下は「自分一生の仕事として責任を持ってやって見せるという決心が必要だ……大丈夫かい」?と問いかけられる。
もともと、一三は大阪へ証券会社の支配人になるべくやってきた。ところが、阪鶴鉄道の残務処理をするうちに、鉄道事業の将来性を見い出していた。恐慌により証券マンになる夢は叶わなかったが、それが逆に一三にとっては幸いしたのである。一三という人間がやる気を見せたことにより、初めて新線計画が動き始めることになった。
【小林一三の生涯④】ミミズ電車と揶揄された箕面有馬電気軌道
箕面有馬電気軌道に関わりを持つようになったものの、この新会社は一筋縄ではいかないことが予想された。
大阪の周辺には神戸、京都、奈良、和歌山といった都市がある。こうした都市と都市を結ぶ路線ならば、ある程度の乗客が見込める。ところが、当時の箕面や、宝塚は住んでいる人が少なく、農地や未開拓の土地がほとんどだった。そうしたところに鉄道を敷いて果たして勝算があるのか。
開業前、箕面有馬電気軌道は「ミミズ電車」と揶揄(やゆ)されたほどである。人が住まない、それこそミミズが住むようなところに電車を通そうというのだから、「ミミズ電車」と言われることも無理からぬところだった。
普通の人ならば勝算はなしと早々に諦めただろう。ところが一三は違った。設立委員会では、最終的に全責任を取り、発起人の面々には金銭的な迷惑はかけずに、株式引受人になるとまで宣言した。当時、一三は職に就いたばかりである。しかも会社設立の追加発起人でしかなかった。大金を持つわけがない。周囲も新しく加わった一三に不安を持ったとしても不思議ない。一方で一三は失敗した時は、その時だと思っていたのだろう。
恐慌の最中、明治40年秋に創立総会が開かれ、一三は専務取締役となった。一方で、同社は路線開業後に阪神電気鉄道に売り渡される、などと囁かれ続けていた。創設時の社長には大スポンサーで、人望もある岩下清周を担ぎ出したいところだった(後に岩下が初代社長となる)が、危うい“正体”の会社のスタートだったこともあり、軌道に乗るまで社長不在のまま建設計画が進められた。
箕面有馬電気軌道の発起人の中には、速水太郎(はやみたろう)も名を連ねていた。速水太郎は鉄道敷設のエンジニアであり、箕面有馬電気軌道の工事を取りまとめるとともに、当時の大阪電気軌道(後の近畿日本鉄道)の生駒トンネルの工事も指導している。
生駒トンネルは日本初の標準軌の線路を利用した複線トンネルで、監督官庁の鉄道省すら、当時の国内の技術では難しい、と難色をしめした工事だった。工事は大林組が行っている。大林組はこうした公共工事を多く引き受けたことにより、技術力を高めていった。
速水太郎とともに箕面有馬電気軌道の建設も大林組が行った。一三も、速水太郎と大林組創業者、大林芳五郎の力が大きかったと自叙伝で触れている。
ちなみに、後に箕面有馬電気軌道の初代社長となった岩下清周は、この生駒トンネルでも私財を投じて建設を後押しした。岩下は、ほかに阪神電気鉄道取締役、西成鉄道(現在のJR桜島線)社長、武蔵電気鉄道(東急の前身の一つ)取締役、東京横浜電鉄(東急の前身の一つ)取締役、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)第2代社長と、東西の鉄道会社の社長や取締役を務めた。岩下のような“俊英”がいたからこそ、日本の鉄道網の整備が活発に進んだわけである。
ちなみに一三は、箕面有馬電気軌道建設のため、東京へ資金の工面に赴き、甲州閥の1人、根津嘉一郎(当時は東武鉄道社長)らに会い、資金の提供を呼びかけている。
【小林一三の生涯⑤】好成績をあげた一方で死亡事故を起こす
一三が関わり始めて、わずか3年後の1910(明治43)年3月10日。現在の宝塚本線にあたる梅田駅〜宝塚駅間と、箕面線の石橋駅〜箕面駅間を同時に開業させた。一三37歳の時だった。
同時期に関西では競合他社の路線が建設されていた。例えば、京阪電気鉄道の天満橋駅〜五条駅(現・清水五条駅)間が1910年4月15日に開業している。兵庫電気軌道(現・山陽電気鉄道)が同年3月15日に兵庫駅〜須磨駅(現・山陽須磨駅)間を開業、神戸市電(当時は神戸電気鉄道)が同年4月5日に春日野停留場〜兵庫駅前停留場間を開業、といった具合である。
一三はこれら他社の新設路線よりもわずかでも早く開業を、と意気込んだ。早く開業することで、少しでも話題性を高めようとしたのである。
また一三は得意の文章力で、「最も有望なる電車」という288ページにも及ぶパンフレットを1万部も印刷して配布している。そのパンフレットには、今では当たり前となったQ&A方式を取り入れ、読者に分かりやすく伝える手法を取っている。さて無事に開業したものの……。
1910(明治43)年3月19日版、大阪朝日新聞の記事には開業8日間の様子を次のように記している。
「今日迄(まで)の成績は良好なりと云ふ(う)を得べし、然(しか)れども八日間の事故に至っては電車の衝突二件、三名を殺し数名を傷つけたるが如(ごと)き甚(はなは)だ感心出来ずとの評高し。」としている。
開業時の成績は良かったけれども、さっそく事故が起きていたことが分かる。とはいえ、当時の鉄道に事故はつきもので珍しくはなかった。人の命が、今よりはずっと軽んじられていた時代でもあった。
【小林一三の生涯⑥】住宅、大学、レジャー施設で乗客を増やす
一三が始めた鉄道事業のすごいところは、線路をただ敷くだけでなしに、さまざまな事業を一緒に行い、沿線に付加価値をプラスしていったことだろう。鉄道会社として今ならば当たり前のことを路線工事とともに進めていた。
まずは分譲住宅の販売だ。鉄道が敷かれる前は、沿線は未開発の地ということもあり、想像以上に土地代が安かった。そこで沿線の土地を買い占めていった。その土地を宅地化、分譲住宅を多く建てて販売した。初めて割賦販売(かっぷはんばい)も取り入れた。住宅ローンを組んで、買い求めやすくしたのである。当時、現れ始めた月給制のサラリーマンを強く意識したのである。
箕面有馬電気軌道が開業した時に、住宅開発とともに一三が力を入れたのがレジャー施設の経営だった。その代表的な例が宝塚新温泉だった。
宝塚新温泉は新路線が生まれたほぼ1年後の1911(明治44)年5月1日に開業した。館内には温泉施設のほか、国内初の室内プール、食堂、演舞場などが設けられた。この温泉施設は1日に何千人もの利用者が訪れて大繁盛、川をはさんだ宝塚の旧温泉地区まで賑わった。ところが、室内プールだけは上手くいかなかった。水着着用ながら男女共用で使うプールが時代を先取りしすぎていたことと、暖房設備、また水を温めるシステムがなかったためだった。
不人気のため閉鎖した温水プールの利用法を一三は模索する。館内を劇場に改装し、そこで何らかの余興サービスができないかと考えた。そうして生まれたのが宝塚少女歌劇養成会(後に宝塚少女歌劇団に改称)だった。現在の宝塚歌劇団のルーツである。こちらはその後の人気は、あえて触れるまでもないだろう。1914(大正3)年4月1日に初演、すでに100年以上の歳月がたつものの、色あせることなくその歴史が引き継がれている。
百貨店の開業も大きかった。後に神戸線を開業させたちょうど同じ年、1920(大正8)年11月1日に阪急梅田ビルに白木屋を誘致した。その後じっくりノウハウを学び、1929(昭和4)年4月15日に阪急百貨店を開業した。朝夕の通勤・通学客とは異なる時間帯に、買い物客に電車に乗ってもらおうという試みだった。鉄道会社が経営する日本初のターミナル・デパートでもあった。もちろんこの阪急百貨店は大繁盛した。
さらに沿線には大学を誘致している。関西学院大学や神戸女学院大学といった大学が阪急沿線の駅近くにキャンパスを新設した。通勤客は郊外から梅田へ通う。一方、逆方向の電車は空いている。そうした空いた電車に学生に乗ってもらおうと大学を誘致したのだった。
こうしたいくつかの例は今でこそ、多くの鉄道会社に応用されている。またこうした試みが「上品な阪急」というイメージを造り上げた。一三は「ミミズ電車」だったからこそ、いかに乗ってもらうか、発想の転換を図ったわけである。
さて、箕面有馬電気軌道の路線開業以来、一三は順風満帆な生涯を送ったのだろうか。いや、むしろそれからが大変だった。
まずは社長となった岩下清周が、融資事件への関与が疑われ、罪に問われ経済界から追われてしまった。会社へ資金援助を続けてきた北浜銀行も破綻してしまった。北浜銀行の支援がなくなり、箕面有馬電気軌道の株が暴落した。
一三は社内で孤立無援となる。一三は実務責任者だったが、いかんせん資本力を持たなかった。こうした時に箕面有馬電気軌道を我が手に納めようという勢力が台頭してきた。苦境に立たされた一三は資金集めに奔走、結局は三井銀行当時の同僚であり、また親友だった九州電灯専務、田中徳次郎(長男・精一は後の中部電力第4代社長を務める)により救われた。つらい時こそ持つべきは友ということなのだろう。
【小林一三の生涯⑦】 “ガラアキ”を売りにした開業時の神戸本線
その後、箕面有馬電気軌道は阪神間に新線の新設を計画する。ちょうど第一次世界大戦の好景気に湧いていたころで、業績もあがっている最中だった。ところが、ここでも難題が持ち上がる。阪神間を結ぶ路線はすでに灘循環電気軌道という会社により「灘巡環線」という線路敷設を出願、特許を得ていた。
ただし、灘循環電気軌道も北浜銀行が取引銀行だったために、計画は頓挫していた。そのため一三は、この灘巡環線の特許を買収しようとした。しかし、阪神電気鉄道もこの路線の権利を同じように得ようとしていたのだ。
その後、阪神電気鉄道から「灘巡環の特許譲渡に関する株主総会無効確認の訴訟」が大阪地方裁判所へ出された。同訴訟は、その後に一審、二審、そして大審院(最上級審の裁判が審議された)で係争され、結局、箕面有馬電気軌道の権利が有効と判断された。裁判に3年もの歳月がかかり、神戸線の工事計画は遅れることになった。
さらに悪いことは続くもので、1917(大正6)年10月1日に、新淀川と神崎川(かんざきがわ)の堤防が決壊した。そのために十三駅〜三国駅間の線路が被災、15日間にわたり電車の運行がストップした。
そうした多くの障害を乗り越えて1920(大正9)年7月16日に神戸線(現在の神戸本線)が開業した。下記の路線案内は、神戸線開業後のものである。
神戸線開業前の1918(大正7)年、箕面有馬電気軌道は阪神急行電鉄と名前を改めた。神戸線の開通で会社の業績は大きく飛躍した。ちなみに創業当初の社名に入っている「有馬」へは路線を延ばすことできなかった。その後、有馬温泉へは神戸電鉄の路線が1928(昭和3)年に到達している。
神戸線開業時に一三が書いたのが次の広告文だ。「新しく開通した大阪(神戸)ゆき急行電車、奇麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素的によい涼しい電車」。「ガラアキ」とはかなり自虐的だが、インパクトはあったことだろう。
このように会社が成長していたものの、たびたび阪神電気鉄道との合併話が進められていたことも事実だった。岩下清周と阪神との間で話が進められていたこともあった。一三が合併草案を携え、交渉の場に臨んだことすらあった。結局、その時は「阪神が阪急を合併する」のか「阪急が阪神を合併する」のか、ということが問題となりご破算となっている。
およそ一世紀後の2006年に阪神電気鉄道は阪急電鉄の子会社となり、阪急阪神ホールディングスとして一つにまとまっている。もし小林一三が生きていたとしたら、現代の合併劇を見てどのような感想を漏らしただろうか、興味深いところである。
【小林一三の生涯⑧】無報酬で東京の田園調布の開発にも関わる
一三の功績は自社のみにとどまらなかった。実は、東京の代表的な住宅地の開発にも手を貸していた。王子製紙、帝国ホテルほか、日本を代表する企業の創設に携わった渋沢栄一。渋沢が理想郷として、晩年に手がけたのが東京の田園調布だった。
ところが、当時の田園調布は鉄道もなく、不便で都心に通いづらい場所だった。街造りのノウハウもなかった。そこで渋沢栄一は、一三に協力を仰いだ。一三は名も出さず、また無報酬で協力した。とはいえ大阪を地盤にした一三は、この事業に頻繁に関わることが難しかった。そこで元鉄道院の官僚だった五島慶太(ごとうけいた)を見いだして同事業に引き入れた。
五島は田園調布の街造りと目黒蒲田電鉄(東急の前身)の路線づくりに邁進した。その後、田園調布は発展し、また大東急を造り上げた五島慶太の辣腕ぶりは、誰もが知るとおりである。一三の人を見る目は、非常に長けていたと言えるのではないだろうか。
【小林一三の生涯⑨】京都線は開業時、京阪電気鉄道の路線だった
一三は1934(昭和9)年まで阪神急行電鉄の社長を務めたあとに、会長に就任、1936年まで務めた。その後は、日本初の電力会社・東京電灯の社長や、昭和肥料(現・昭和電工)の設立に関わり、また政界にも身を投じた。1940(昭和15)年夏には第2次近衛内閣の商工大臣も務めている。終戦後に誕生した幣原(しではら)内閣では国務大臣となったものの、戦争を招いた内閣の商工大臣を務めていたとして公職追放された。
1951(昭和26)年に追放解除され、その後は東宝や新宿コマ・スタジアム、梅田コマ・スタジアムの社長を務めている。1957(昭和32)年1月25日に急性心臓性喘息で死亡した。84歳だった。
阪急電鉄のもう1本の幹線がある。十三駅と京都河原町駅を結ぶ京都本線である。阪急の一路線として組み込まれたころには、すでに経営から身を引いていたために一三との縁は薄いが、この京都本線がどのように阪急電鉄の路線となったのかも触れておこう。
京都本線は現在の京阪電気鉄道の子会社、新京阪鉄道(一部は北大阪電気鉄道が担当)の手により路線が敷かれた。当時、京阪電気鉄道が運行する京阪本線が、路面電車用の軌道線だったため、カーブが多くスピードが出せないという問題があった。平行して走る国鉄の路線に負けない「新京都線」をと淀川の北側、東海道線とほぼ平行して新線が設けられた。
当時の新京都線は十三駅・天神橋駅(現・天神橋六丁目駅)と京都西院駅(現・西院駅)間に敷かれた路線で1928(昭和3)年11月12日に全通している。その後に京阪電気鉄道の路線となっていた。ところが、京阪電気鉄道は太平洋戦争中の1943(昭和18)年10月1日、国の交通統制という政策の元、阪神急行電鉄と合併することになる。その時に会社名は京阪神急行電鉄と改められた。
終戦後は1949(昭和24)年に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分離独立した。その時に、京都線をどうするかが役員会で取り沙汰された。
将来の沿線の発展のためにも阪急に組み込んだ方が良いのでは、といった意見が多く出された。そうして京都本線は阪急の路線として残されるとともに、1956(昭和31)年には梅田駅まで路線が延長されている。
ちなみに阪急電鉄の神戸本線・宝塚本線と、京都本線では走る電車が異なる。京都本線では京都本線用の電車が走っている。京都本線の電車は、神戸本線・宝塚本線を走ることができない。車体の幅が神戸本線・宝塚本線よりも、京都本線の方が50mm〜大きいのためである。車体幅が広い京都本線の電車が神戸本線・宝塚本線を走ると、車体が駅施設などに触れてしまう。施設や車体を作り替えればそうした差は生じないのだが、今さらということもあるのだろう、変更されることはなかった。
どうしてこのような違いが生じたのだろう。これは路線を敷設した時に、基づいた法律が異なったからによる。神戸本線・宝塚本線は軌道法に基づき生まれた。京都本線は地方鉄道法に基づいて造られた。カーブやホームなどの条件が法律により異なる。そのため現在も車両幅が異なるなどの相違点が残されているのである。
ちなみに京阪神地区では軌道法の基づいて造られた私鉄の路線が多い。これは新線の計画を国に提出した時に、当時の国が運行していた国営路線のライバルとなるような鉄道線に難色を示したためとされる。対して路面電車に適用される軌道法は規制が緩かったのである。歴史を振り返ると、いろいろと異なる鉄道の一面が見えてきておもしろい。
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