毎日Twitterで読んだ本の短評をあげ続け、読書量は年間1000冊を超える、新進の歴史小説家・谷津矢車さん。今回のテーマは「身体」です。新型コロナウイルスによる外出自粛がつづくなか、読書で「身体」について考えてみるのはいかがでしょう?
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ここのところ、筋力トレーニングが日課になりつつある。
十代のころ、競技バドミントンを嗜んでいた関係でかなりトレーニングを積んでいた時期もあったものの、現役時代にはほとんど筋肉がつかなかった。てっきりマッチョボディは自分の手には届かないのだと諦めかけていたのだが、三十三にして自重トレーニングを始めたところうっすらとシックスパックが見えてくるくらいにはなってきた。「継続は力なり」なのか、それとも二十代と三十代の間には何か身体上の変化があるのか……。この辺り、有識者のご意見を待ちたいところである。
と、なにやらわたしのトレーニング、筋肉自慢となってしまったが、小説家というザ・精神労働の仕事に従事していても、身体を自らの意識と切り離すことはできない。
この原稿を書いているのは四月の二十三日なのだが、何となく肌寒く、手がかじかんでタイプミスを繰り返しており、今若干イライラしている(笑)。この通り、身体性は精神にも深い影響を及ぼすものなのである。
今回の前振り、ややあちらこちらにふらふらしている気がなきにしもあらずであるが、今回の書評テーマは「身体」である。
彼らはなぜ「走る」のか?
まずご紹介するのは漫画から。『ひゃくえむ。 (全5巻)』 (魚豊・著/講談社・刊)である。本書は陸上の100m走をモチーフとしたスポーツ漫画であるが、本作で描かれる光景はまさに灰色の地平である。生まれつき足が速かったことから陸上の世界に進んだトガシ、今の己を取り巻く環境から飛び出すために走ることを覚えた小宮、この二人の陸上人生を追った本作では、始終、登場人物たちが走ることの意味を問い続ける。0.01秒でも速く。残酷なまでにシンプルで峻厳な世界に生きるアスリートたちの、悩み、苦しみ、七転八倒が描かれている。
自らを痛めつけるように走るスプリンターたちを前に、途中まで読まれた方はこう思うかもしれない。
「なぜこんなになってまでこの人たちは走るのだろう」
本書においてその答えはスプリンターの数だけ用意されている。だが、主人公であるトガシ、そして小宮が五体でもって到達した最後の答えを、ぜひ受け止めていただきたい。灰色の雲が割れ、一条の光が差し込んだような、どこか清々しさすら残るラストである。
身体としての「衣服」
人間は身体を有している。だが、裸で歩くわけにはいかない。人間の肌は暑さ寒さに弱く、また毛に覆われていないために物理的衝撃に弱い。おそらくそういった事情から、人は動物の毛皮を纏うなどして、衣服の概念を会得したのだろう。そして衣服の発見から数千~数万年、人類は衣服作りを産業化してきたのだが――。
次にご紹介するのはこちら、『誰がアパレルを殺すのか』(杉原淳一、染原睦美・著/日経BP・刊)である。
現代社会において服は外部環境の脅威から身を守るという意義が薄くなり、自己表現の道具として、あるいはトレンドへの興味の発露として用いられるようになった。さらに戦後、大量生産大量消費のビジネスモデルを導入する形でアパレル業界は大いに発展した。だが現在、そのモデルが崩れつつあり、アパレル産業は苦境に立たされている――。これが本書の趣旨である。
だが、果たしてこれは、アパレル業界だけの問題だろうか。
大量生産大量消費ビジネスモデルは、日本中、様々な業界において導入された。もしかして、あなたが今籍を置いている業界においてもこのビジネスモデルの負の遺産に苦しめられてはいないだろうか。
本書はただ現状の苦境を述べるだけではなく、アパレル業界で勃興した新たなビジネスモデルについても筆を割いている。新たな時代への対応が求められる、多くの業界の皆さんに読んでいただきたい本である。それこそ、新たな時代に挑もうというあなたの身体を鎧う「服」となること請け合いである。
身体で時代と対峙する“フィジカル歴史小説”
次に紹介するのは歴史小説から。『室町無頼 (上・下)』(垣根涼介・著/新潮社・刊) である。応仁の乱前夜、棒使いの少年才蔵が骨皮道賢(実在の人物)に見いだされるところから始まる歴史ロマン大作である。
なぜ「身体」がテーマの選書で本書が? と疑う向きもあるだろうが、実は本書、とてつもなくフィジカルに溢れた小説なのである。
中盤、色々あって主人公の才蔵は棒術の修業に明け暮れることになるのだが、ここでの描写はまさしく武侠もののそれであり、もっと言えば少年漫画の修業シーンを彷彿とさせる。誤解を与えかねないレベルまで希釈すれば「考えるな、感じろ」の世界である。
時はまさに応仁の乱前夜。ある種の古びた秩序の中で人々が喘いでいた時代である。そんな中、自らの身体を鍛え上げ、業を練ることでその時代と対峙している。そうして眺めてみると、本書において主人公才蔵の身体性はかなり重要な地位を占めていることに気づく。
本書の面白さはこの身体性の扱いのみにあるわけではない。ぜひ手に取って、ほかの楽しみを見つけていただきたい。
すべては「眼」からはじまった
次は科学書から。『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』(アンドリュー・パーカー ・著 渡辺政隆 、今西康子 (翻訳)/草思社・刊)である。
皆さんは、「カンブリア爆発」という言葉を御存じだろうか。地質年代の一つとして知られるカンブリア紀とその前では、あまりに化石の検出状況が異なる。先カンブリア時代の生き物たち(たとえばバージェス動物群など)と、カンブリア紀以降の生物との間には大きく違いがある上、カンブリア紀には後の多細胞生物に繋がってゆく大型動物が多種類誕生したのである。生物ファンの間ではよく知られるアノマロカリスやオパビニアなどもカンブリア紀の出身者である。
化石を見た限りでは、カンブリア紀に何かあったのではと疑わせる爆発的な生物多様性が検出できるのである(なぜこんな屈折した言い方をしているかというと、実は遺伝子学的な見地からは、カンブリア紀の一億年程度前から既に遺伝子そのものの変異が認められるからである)。
本書はそのカンブリア爆発の原因を「眼の誕生」に求め、突如として多様性が爆発した状況を説明している。具体的な説明は本書に譲るが、かなりスリリングな推論が展開されている。「眼」という身体のパーツが生物の多様性をもたらした――。身体は、進化のスイッチにすらなりえるほどに重要なファクターなのだ。
「どもる」こと、「しゃべる」こと
最後はこちら。『どもる体』(伊藤亜紗・著/医学書院・刊)である。
皆さんはどもり(吃音)にどういう印象をお持ちだろうか。かくいうわたしも吃音者で、疲れていたり、緊張したりすると途端に同じ音を繰り返してしまったり、ある言葉が頭には思い浮かんでいるのに口から飛び出てこなかったりする。今のわたしは誰かと対面することなく進めることのできる仕事なので気楽に過ごしているが、かつては結構コンプレックスであったりしたものである。ところが、その苦しみはあまり他人に共有されることはない。
本書は「どもる」こと、翻って「しゃべる」ことを医学的、身体論的に紹介した本である。「しゃべる」行為も実は身体的な行いである。息を吸って吐き、その合間に声帯を震わせ、口や舌を動かして音色や音調を操作するという、かなり高度なことをやっている。本書は自分の身体性を超えて発現する「どもり」を通じて、自身の身体に対する不可知性を照射しているのである。
身体は自らの意識と不可分のものである。自らの意識を運び、思いを体現する器でありながら、時に思いとは裏腹の動きを取り、意識にまで影響を及ぼす。わたしたちは精神的な存在であると同時に、肉体的な存在であることを引き受けなければならない。ざっくばらんに言ってしまえば、腹が減ったら飯を食べねばならないし、腰が痛くなったらどんなに仕事が忙しくともストレッチしたくなるものなのである。
そんなわけで、わたしは自らの身体的な欲求に従い、今日も筋トレに励むわけである……。
【プロフィール】
谷津矢車(やつ・やぐるま)
1986年東京都生まれ。2012年「蒲生の記」で歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝狩野永徳』でデビュー。2018年『おもちゃ絵芳藤』にて歴史時代作家クラブ賞作品賞受賞。最新作は「桔梗の旗」(潮出版社)。
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