認知症をテーマにした小説、エッセイ、映画はとても多い。そして今、認知症になってしまった本人の立場から描かれた作品が映画でも本でも話題になっている。
映画『ファーザー』でアカデミー賞主演男優賞を獲得したアンソニー・ホプキンス。彼は認知症が進行する父親の役を見事に演じ、当事者の不安や苦悩、そしてその時々で見えている世界を私たちに伝えてくれた。
本では、『全員悪人』(村井理子・著/CCCメディアハウス・刊)。認知症になってしまった村井さんの義母と家族のドラマなのだが、全編が当事者の視点で描かれているユニークな作品で、エッセイというより小説を読んでいるような感覚なのだ。
老いるとは複雑でやるせない
唯一、著者の村井さんの言葉で書かれているのが「あとがき」で、家族の様子が変わったことに気づいたのは3年ほど前だったそうだ。義母の感情の起伏が激しくなり、些細な問題を起こすことが増えていった。意図が分からない、怒りの矛先が見えない、口論は増える……。村井さんは嫁として、変化を遂げてしまった家族と対話をし、二日と開けずに顔を見るようになった。
様々な人の手を借りて支援を続けているが、それは順調とは言いがたいと打ち明けている。けれども村井さんは忍耐強く義理のお母様に寄り添ってきた結果、老いる者の孤独や不安が手に取るように分かるようになったという。
高齢者が抱く、変化への恐れや苦しみ、孤立、それに伴う焦燥感、そんな複雑な感情のすべてが、その表情から見て取れる。普通に出来ていたことが、出来なくなってしまう悲しさ。プライドを踏みにじられたと思い、募る他者への怒り。老いるとは、想像していたよりもずっと複雑でやるせなく、絶望的な状況だ。
(『全員悪人』あとがきから引用)
村井さんは、そんな彼らの一番の味方であり続けたいと思っているそうだ。それは人生の先達に対する敬意に近い感情だとも記している。
知らない女が毎日家にやってくる
物語はこんな一文ではじまる。認知症が進んでいく高齢者の世話を家族だけではみられなくなったとき、ケアマネージャーやヘルパーなどの手を借りなくてはならない。介護のプロたちは、誠意を持ってお年寄りたちに接し、出来なくなってしまった家事などもこなしてくれる。ありがたいことだが、認知症になってしまった本人には別の感情が渦巻くようだ。
女が来ると居場所がない。邪魔にされているのだから、仕方がない。用がないと、能力がないとそれとなく言われているのだから。知らない女に家に入り込まれ、今までずっと大切に使い、きれいに磨き上げてきたキッチンを牛耳られるなんて、屈辱以外の何ものでもない。私は失格の烙印を押された主婦になった。
(『全員悪人』から引用)
村井さんがお義母さんを観察していて、支援してくれている人々に対し、きっとこんな風に感じているに違いないと、認知症当事者の気持ちを代弁している。本書は途中の解説などはなく、すべて本人の混乱したままの胸の内を打ち明けるように進んでいく。
お父さんがロボットに?
悲しいことだが認知が進んでいくと家族のことも分からなくなっていく。村井さんのお義母さんは長年連れ添った伴侶さえも、ときどきロボットに見えていたようだ。病気で入院が長引いたお義父さんが家に帰ってきたのに、それは偽者のロボットだと思い込んでしまったのだ。お義母さんは本物そっくりのロボットを「パパゴン」と呼んでいたとある。
ある日、偽者のくせに先に風呂に入り、しかも長湯をしていることに腹を立て息子に電話をする。
「今、お父さんに似た人がお風呂に入っているんやけれど、お父さんやないように思う」と私がそれとなく言うと、息子は「えっ?」と言って、驚いた様子だった。(中略)
「それやったらかあさん、今からもういっぺん風呂に行って、そのパパゴンとかいう偽者の顔を見てきたらええやん。左の目の上に傷があったら、それは間違いなく親父やから」(中略)
確かに傷がある。なんて完璧なロボットだろう。敵ながらあっぱれとは、こういうときに使う言葉なのだろう。
(『全員悪人』から引用)
さらに、家に頻繁に泥棒が入ると思い込んだり、ケアマネやデイサービスの職員がお父さんと浮気をしていると思い込んでしまったり、認知症当事者はどんどん自分を追い込んでいく。そして、ある夜、悪いのはすべてロボットのせいだとテレビのリモコンでパパゴンの額を叩いてしまう。が、その瞬間に、なんとパパゴンは本物のお父さんに変わっていて、ハッと気がついたのだそうだ。これらは作り話ではなく村井家で実際に起こった出来事で、すべて認知症という病気がさせていることなのだ。
白衣の人も悪人に
村井さんのお義母さんは、華道の先生だった。最近、生徒さんが来なくなったのはコロナが原因と思っている。主婦としても、お花の先生としても完璧に生きてきた本人には、認知症は受け入れがたい事実だ。病院に行ったときのエピソードがこんな風に綴られている。
「(前略)今から、お母さんには本当のことを、正直に言いますね。最近、お母さんの様子が変わってしまったと、家族のみなさんが心配しておられます。いろいろなことを忘れたり、家族のことがわからなくなったり、お父さんに対して腹を立てたりしたみたいですね。覚えていらっしゃいますか?」と白衣の人が聞いてきた。
はっ? それは私の話ですか? それともお父さんのこと?
(『全員悪人』から引用)
夫であるお父さんのことは軽い認知症らしいとは思っているが、まさか自分のこととは信じない。白衣の人は一時的な入院を勧めるが、悪いところはひとつもないのにと当人は傷つき、涙が頬を伝う。そして入院するくらいなら、故郷へ帰るとまで言い出し拒否する。
誰が戻ってくるもんか。こんな場所には一秒でも長くはいたくはないと、丸い椅子から勢いよく立って、出口に急いだ。あほか、舐めたらいかんぜよ!
(『全員悪人』から引用)
村井さんならではの軽快なリズムの文章で、ときにはクスッと笑える箇所もあるが、実際に認知症の人と接し、対応していくことはどれほど大変だろうとも思う。家族としては忍耐の繰り返しに違いない。
地域包括支援センターの職員が村井さんにこう言ったそうだ。
「認知症はね、大好きな人を攻撃してしまう病なんですよ。すべて病がさせることなのです」と。
今現在、家族に認知症患者がいて悩んでいる人も、これからに不安を抱いている人も、この病気をよく知り、当事者の気持ちを理解するためにも読んでおきたい一冊だ。
【書籍紹介】
全員悪人
著者:村井理子
発行:CCCメディアハウス
『兄の終い』のエッセイストが書く、認知症をめぐる家族のドラマ。
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