本・書籍
2022/9/22 21:30

その主張は正しいのか? それとも行き過ぎなのか?『ポリコレ過剰社会』

“ルッキズム”という言葉をあちこちで見るようになった。最大公約数的な定義をするなら、“外見至上主義”ということになるらしい。この人は外見がこうだからこうにちがいない。そういうロジックだ。

 

ルッキズムとは

Wikipediaには、次のように書かれている。

 

ルッキズムとは、外見に基づく差別または偏見。主に人間が視覚により、外見でその価値をつけることである。外見至上主義、外見を重視する価値観との意味でも使われる。「容姿の良い人物を高く評価する」「容姿が魅力的でないと判断した人間を雑に扱う」など、外見に基づく蔑視を意味する場合もある。

 

1970年代に生まれた言葉だが、頻繁に見聞きするようになったのはごく最近であるように感じられる。なぜか。筆者なりに考えてみた。背景には、いわゆるポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)という概念の圧倒的な浸透があるのではないだろうか。こう言おう。アンチ・ポリコレ的なボキャブラリーを代表する言葉として、ルッキズムが目立っているような気がしてならない。

 

ラジカルとロジカルのバランス

ちょっと考えるだけでも、ルッキズムという概念が正しいわけがない。でも、正しいわけがない論拠はどこにあるのか? そのあたりをラジカルにかつロジカルに解き明かしてくれるのが『ポリコレ過剰社会』(小浜逸郎・著/扶桑社・刊)という一冊。まずはラジカルな部分から紹介していこう。まえがきの冒頭に次のような文章がある。

 

今から22年前、『「弱者」とは誰か』(PHP新書)という本を出した。この本のテーマは、ずばり「差別」である。といっても、差別はよくないからなるべくなくしましょうといった単純な主張をしたのではない。むしろ一部の被差別者が集団的に「正義」を振りかざして、マジョリティに息苦しさを与えている風潮を取り上げて、それに批判を加えたものだった。

『ポリコレ過剰社会』より引用

 

攻めの姿勢を感じるものいいだ。ロジカルな部分にも触れておこう。

 

言い方を変えれば、「平等」とか「人権」とかいった語彙以外に社会的価値判断を下す言葉がないかのように、単純化された概念を人々の心に浸透させ、あらゆるところにこの尺度を持ち込んで、人を非難し、中傷し、裁断する粗雑な流れが蔓延している。

『ポリコレ過剰社会』より引用

 

意味を映像にして思い浮かべることができるような文章だ。『ポリコレ過剰社会』という本は、こうしたラジカルとロジカルが織りなす絶妙なバランスの上に成り立っている。

 

ポップカルチャー史を俯瞰する役割

章立てを見てみよう。

 

第1章 ポリコレ現象はなぜ広まるのか
第2章 非常識なポリコレ現象の数々
第3章 女性差別は本当か
第4章 性差の変わらぬ構造
第5章 LGBTは最先端の問題か
第6章 攻撃的なバリアフリー運動はかえって不利
第7章 ポリコレ過剰社会の心理的要因
第8章 ポリコレは真の政治課題の邪魔

 

どのタイトルからも、実際に起きた出来事を具体的な形で思い浮かべることができる。この本は、ポリコレという言葉をフィルターにしたここ10年ほどの日本のポップカルチャー史という位置づけもできるのではないだろうか。

 

極端な実例

ポリティカル・コレクトネスという言葉に完全に対応するニュアンスの日本語はないのかもしれない。「政治的正しさ」という説明的な訳語も、いまいちしっくりこない。それでも日本ではポリコレという略語が浸透している。

 

ポリコレとは何か。要するに、あらゆる差別を一掃しようとする政治思想のことである。絶対的平等主義といってもよい。

『ポリコレ過剰社会』より引用

 

こういう概念が的確に言語化され、具体的な例が挙げられながら論が進められていく。以下に示すのは、アメリカで実際に起きたポリコレ行き過ぎ案件だ。

 

・「背の低い人」をshortではなく、vertically challengedと呼ぶことが提唱される。「垂直方向に問題含みの」とでもいう意味か。アメリカ版「言葉狩り」である。

・「差別を受けたら知らせてください」という制度が悪用される。「授業で私が手を挙げたのに、教授は隣の学生を当てた。差別ではないか」といった匿名の投稿が寄せられる。

・一部では、HeとSheの使い分けそのものが差別だとされ、Ve、Xe、Zeなどわけのわからない人称代名詞が使用されている。

『ポリコレ過剰社会』より引用

 

お汁粉作りと力仕事

日本国内にもこんな実例がある。

 

「東京新聞」2021年4月3日付の記事にはこうある。《女性保護者は「お汁粉作り隊」に、男性保護者は力仕事をする「おやじお助け隊」にご参加ください—。小学校を通じて地域行事への参加を呼び掛ける文書を受け取った保護者から「教育現場では今も性別による役割分担の押しつけがある」という声が本紙に届けられた。学校側は当時「(押しつける)意図はなかった」としながらも文書を訂正。ジェンダー(社会的性差)平等が求められる今、この保護者は「多くの差別は無意識に行われる」と語った。》

『ポリコレ過剰社会』より引用

 

この保護者は男性の大学准教授であるという。ものごとがこういう方向で進むのなら、そして大多数の人たちがこれを正しいと思うのなら、それはそれで受け容れるしかないだろう。何より、お汁粉作りと力仕事というお題で真正面からジェンダー論や差別観をかなりの熱量で語る人がいる事実を片時も忘れるべきではない。

 

【書籍紹介】

ポリコレ過剰社会

著者:小浜逸郎
刊行:扶桑社

批評家が捉えた社会の歪み!悪化する反差別の全体主義。有無を言わさぬ「正義」が社会を覆っている。そして、一度「差別主義」「排外主義」のレッテルを貼られると、それを覆すのは容易ではない。だが、差別と言われていることは本当にそうなのか?『「弱者」とはだれか』の刊行から20余年。ごく普通の生活感覚を手掛かりに「差別問題」の本質を問う。

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