師弟百景
第3回 茅葺き職人/師=中野 誠 弟子=湯田詔奎(のりふみ)
コロナ禍によりリモートワークが推奨されている昨今。そんな世の流れと対極にあるのが、職人仕事であり、その師弟関係です。「好きなことを極める」「就職せずに生きるには」といった要素に魅力を感じて職人を志向する若いひとが増えてきている現在、「師弟関係」というものもまた、「親方の背中を見て覚えろ」から「理論も教える。科学的に仕事を学べ」の形へと、時代に即して多様に変化してきています。
本企画では、血縁以外にも門戸を広げている職人仕事の師匠と弟子のそんな“リアル”な関係を、ノンフィクションライターの井上理津子氏が取材し描き出していきます。3回目は、師匠は惜しみなく言葉で教え、弟子も物怖じせずに質問していく、そんな現代の師弟関係を築いている茅葺き職人を取り上げます。
(執筆:井上理津子/撮影:大道雪代)
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朝礼から始まる現場
ここは、京都市の北方約90キロの綾部市。子どもが一筆書きしたような里山が点在し、「日本昔ばなし」を彷彿とする景色の中に、この日の“現場”があった。茅葺き屋根の民家だ。屋根の葺き替えが進行中で、梯子が軒上までのび、足場を組んだ下の地面に茅の束がかたまりになって積まれている。7時半に着いたが、茅からひなたの匂いがやんわりと漂う。
8時、親方の中野誠さん(54)がワンボックスカーで到着した。先んじて屋根の上で作業をしていた若者たちが降りてきて庭先に会する。「勝手に手伝いに押しかけて来とる」という村人を交え、4人で朝礼が始まった。
「先人の知恵と技に感謝し、技術を習得、さらに磨き、次世代へ引き継ぎます」
に始まる美山茅葺株式会社の経営理念が最初に斉唱され、場の空気が一気に引き締まる。社会人としての行動指針等が掲載された冊子を輪読の上、「今日の心がけ」として「日々の業務の点検をしましょう」と唱和。そして進行状況の細かな確認へと続き、すごくきちんとしている、という印象をまず受ける。
「このタイプの朝礼をするようになって、何かが変わりました。私たちは皆、先人に守られ、応援されて生きている、働いている。今日も一所懸命にやろう、みたいな感覚ですね」
朝礼を終えた中野さんがそう言って笑顔を見せた。そして、
「あ、茅って植物の名前のように思われがちですが、ススキやヨシ、小麦ワラなど屋根を葺く植物の総称なんですよ」とも。
−−そうなんですか。意外でした。では、今日お使いになっているのは?
「静岡・御殿場と熊本・阿蘇のススキです。水分と養分が抜けて完全に乾燥ができている名産地なんですね。ススキなのは地域性があるので」
−−地域性、ですか?
「たとえば琵琶湖方面だとヨシというふうに。私の地元の美山町北村もこの辺りも、元々は自前のススキが使われていましたし、日本中の他の土地同様に集落の助け合いで20〜30年ごとに屋根の葺き替えがされていたんですが、農業離れや人口減少で、わりに早くに職人への外注に移行したようです。私がこの仕事にパチッとスイッチが入ったときはもう、村に『最後の職人』と言われた3人がぎりぎり残っておられるだけになっていました」
イギリスで衝撃を受け「最後の職人」に弟子入り
中野さんが生まれ育った京都府美山町(現南丹市)北村地区は約40軒の茅葺き屋根の家が今も並ぶ「かやぶきの里」だ。曰く「パチッとスイッチが入った」のはいつか。
「22歳のとき。イギリスで、なんです」
父が左官の親方だったため、子ども心に職人仕事に憧れたが、時代の流れに押されて父は廃業。勤め人になることを家族に期待され、経理を学んで農協に就職した。しかし、成功哲学で知られる「マーフィーの法則」や自然農法に傾倒するなど農協職員におさまりきれなかったなか、イギリスへ研修旅行に行く機会を得た。そのときだそう。
「コッツウォルズ地方で、茅葺き屋根の家が連なる風景を目にして、外国にも茅葺きがあるのかと衝撃を受けたんです。ホームステイ先で話のネタに、我が村の茅葺き屋根集落の写真を見せたら、『君はこんなに素晴らしいところに住んでいるのか』と絶賛された。しかもイギリスでは職人が若者の憧れの職業だと言うじゃないですか」
帰国後、中野さんは農協を辞めて、村の「最後の茅葺き職人たち」に弟子入りした。周囲にことごとく反対されたばかりか、当の職人にまで「なくなる仕事や。やめとけ」と言われたにもかかわらず。中野さん23歳、残っていた3人のなかで最も若い親方63歳。「おじいちゃんと孫」ほどの年齢差だったという。
「1年弱、道具揃えとか掃除とか『下手間』でした。親方に『あれ取ってくれ』と言われると、なぜ今のタイミングなのか考える。材料の配置にも意味がある。『“三手先”を見ろ』と言われました。『俺の背中を見て覚えろ』の徒弟制度そのものでしたねー」
古い屋根の茅を落とし、横に太い竹、縦に垂木竹を取り付けて縄で括った上にワラを載せて屋根の下地を作る。長さを揃えた茅を束にして、軒先や屋根の淵に置き、下から葺き上げる。何層にも重ねていき、最後に刈り込む−−。どの工程にも親方からの口での伝授はなく、必死で背中を見るも「分からない」と心で呟く日々が続き、「3年経って『ああこういうことだったのか』とやっと分かった」そうだ。5年で年季が明け、6年目はお礼奉公し、30歳で独立。
「茅葺き屋根の家は究極のエコ住宅なんですよ。茅は一本一本がストローのような形状で、筒の中に空気が入っているから、冬は暖かく、夏は涼しく、しかもカーボンニュートラル。私自身の家も茅葺きの古民家を買って葺き替えました」
中野さんは、茅葺き屋根の家にぞっこんなのである。独立後、個人事業主としての10年を経て、2007年には「後進に技術を伝えていかなければ」と会社組織に。現在12人の職人集団である美山茅葺には、近郊の民家ばかりか全国から文化財の屋根の葺き替え依頼がひきも切らない。
「ならしながらいい位置に持ってくるー」「はいっ」
この民家は築100年ほど。妻飾りに家紋がしつらえられ、住まう一家を風雨から守ってきた風格が漂っている。梯子をこわごわ上がって、弟子の一人、湯田詔奎さん(25)が「軒付け」という葺く作業をするところを覗かせてもらう。
斜め後ろから見ていると、足場に積まれたススキの束の山から一束ずつ取って屋根に置いていく動きがスムーズすぎて、最初のうちさほどの作業ではないように見えたが、いやいや。やがて、一束を置くたびにすばやく手をススキの奥に入れて何やら作業をしていると見てとれるようになる。
「下の竹にコレを縛って……」
と湯田さん。コレとは一束を束ねている縄のことだ。つまり、手探りで下地の竹を探し当て、ススキの束を固定させる。表面側は隣の束とやはり縄で繋げ、ぎゅっと二重に固結びにする。しかも一本ずつ違うススキの“顔”を均質に見えるようにしていかなければならないのだ。
−−その一束の大きさは?
「『2尺じめ』と言って、円周2尺……約60センチですね」
−−単位が尺なのですね?
「ええ。昔のままのほうが感覚的に馴染みいいのだと思います」
この日は3週間ほどの作業期間の半ば。屋根4面で3000〜3500束を要すとか。長い道のりだ。いつの間にか足場に上がってきていた中野さんが、眼光鋭く湯田さんを見て口を開く。
「まっすぐに見えるようになー」
「あ、はい」
「(縄を止めるとき)均しながらいい位置に持ってくるー」
「はいっ」
「がちゃがちゃ触らんと、手数少なくなー」
「はい」
ここには、「俺の背中を見て覚えろ」ではない師弟の姿があった。
「僕は惜しみなく言葉で教えます。背中を見て、自分で理解していくほうが深く分かるようになるでしょうが、時間がないんです。弟子入りは15歳が理想なのに、このごろは高校卒業どころか大学院卒や社会人経験者まで来るから。『やりたい』と目を輝かす子たちを僕は断らず、丁寧に教えるんです」(中野さん)
分からないことは聞く。スマホで写真を撮る
湯田さんは7年目。熊本県立球磨工業高校・伝統建築コースの出身だ。大工だった祖父の影響で元は大工志望だったが、博物館の展示などで見た茅葺き屋根の建物を「どうやってできているんだ」と関心を持ったのをきっかけに、この世界に入った。
インターネットで「茅葺き」「職人」、それに行きたかった「関西」。3つのワードで検索し、トップに出てきたのが中野さん率いる美山茅葺だった。高校3年の夏休みにインターンシップで初めて来社。その際の現場、神奈川県伊勢原市の日向薬師で、「2週間、掃除の手伝いをさせてもらった」ときの印象がこう。
「屋根のでっかさに、シンプルにびっくりしました」
「びっくり」は「感動」と同義だろう。曰く「ガチガチに緊張していた」ため、インターシップ時の親方との職務上のやりとりは記憶にないが、終わりがけの「4月から(美山茅葺へ)来るやろ?」「はい」のやりとりだけはしっかり覚えている。
「よそ見せずに(美山茅葺へ)来ました」
入社後の初現場は埼玉県秩父市のやはり文化財。いきなりひと月半の出張だったそうだが、どんな仕事から?
「掃除とか(先輩職人に)材料を渡すとか“下回り”です」
いつ、どこを掃除するか。誰に何を渡すか。中野さんの修業の第一歩と同じだが、真っ向から異なるのは、時機を見て「分からないことを聞きまくった」こと。
「(渡すのは)3尺ですか2尺ですか」
「(ここの掃除は)今してもいいですか、邪魔になりますか」……。
「三手先を見る」ができるようになるための階段。先輩職人たちは応えてくれ、強く叱られたことが一度もないという。中野さんがつくり上げてきた美山茅葺の社風である。
そうした「下回り」1年を経て、いよいよ「葺き」など実作業に入ると、湯田さんは教えられたことをスマホで写真を撮りまくり、毎日その画像を見て復習した。いや、過去のことではなく、それは今も続いているという。
「新人のとき、軒付けは屋根の真ん中からスタートするんですが、重要なのは屋根の角。なので、角のポジションを任せてもらえるようになったとき、『面白い』のスイッチが入りました」
湯田さんはそう振り返るも、「この仕事、数値化できないところが多いんです。とにかく現場の感覚ありき。僕はまだ一人前じゃないです」と謙虚に語った後、軒付け作業に戻った。
屋根の右角から中野さんが、左角から湯田さんが葺いていく。あ、スピードに差が出てきた。中野さんのほうが圧倒的に早いが、湯田さんから、真剣勝負をかけている気迫が伝わってくる。
師弟の姿が、ススキ野原広がる里風景の中にある。「先人に守られ、応援され……」と朝礼後に中野さんが言った言葉を反芻した。
<師弟プロフィール>
●中野 誠/なかの・まこと(右)/ 1968年、京都府美山町(現南丹市)北村生まれ。重要伝統的建造物群保存地区の「かやぶきの里」で育ち、農協勤務を経て23歳のとき地元の「最後の茅葺き職人」に弟子入り。1998年、30歳で独立。現在、美山茅葺株式会社代表取締役会長。
●湯田詔奎/ゆだ・のりふみ(左) 1997年、熊本県生まれ。大工を目指して熊本県立球磨工業高校建築科伝統建築コース在学中に、博物館の展示で目にした茅葺きの家に魅せられる。卒業後、美山茅葺株式会社に入社し7年。
<一問一答>
――趣味は?
中野「スキー」
湯田「釣り」
―好きな言葉は?
中野「信念」
湯田「……これといってないです」
――好きな食べ物は?
中野「米」
湯田「焼肉、バーベキュー」
―至近の休日、何をした?
中野「刃物の手入れ」
湯田「稲刈り」
―好きな色は?
中野「青、濃紺」
湯田「青」
<執筆者プロフィール>
井上理津子(いのうえ・りつこ)
奈良市生まれ。ノンフィクションライター。タウン紙勤務を経て、フリーに。町と人、また両者が織りなす文化を主たるテーマとし、『絶滅危惧個人商店』『さいごの色街 飛田』『葬送の仕事師たち』『いまどきの納骨堂』など著書多数。