2014年度、東京ディズニーランドと東京ディズニーシーの合計来場者は、過去最高の3137万人を記録した。開業以来、右肩上がりの成功を収め続けているが、この「夢の王国」がオープンするまでの試行錯誤はあまり知られていない。
浦安の海でハゼ釣りをしていた時代
野口恒『「夢の王国」の光と影 東京ディズニーランドを創った男たち』は、1960年から20数年に及んだ東京ディズニーランド開業までのドラマを描いた作品。闇雲に生活の向上を目指し、まだまだ「余暇」を知らなかった時代には、アメリカのテーマパークを持ち込むこと自体への疑義も根強かった。
千葉県の浦安海岸に巨大な埋め立て地を作るためには、地元の漁業民との折衝が必要だった。東京ディズニーランドを日本に誘致しようと最初に起案した京成電鉄社長(後にオリエンタルランド社初代社長)は、子供の頃、浦安海岸にハゼ釣りに出かけていたという。東京から十数キロしか離れていないのに「陸の孤島」と呼ばれるほど、手つかずの自然が残されていた。そこへ持ち上がったのが巨大埋め立て計画だった。
「最後はやはりカネですよ」
埋め立ての交渉役を担った一人は、「きみは頭はあまりよくないが、酒は大変強いじゃないか。浦安の漁業協同組合(漁協)の連中や町会議員を赤提灯かどっかに連れてって、彼らに酒を飲ましてなんとか話をまとめてくれないか」と命じられる。浦安の漁民は、製紙工場から放たれた工業廃水や悪水で魚介類が死滅した時には、工場側の対応の悪さもあって、工場になぐり込みをかけた。105人の重軽傷者、8名の逮捕者が出る事態が起きていた。
漁民達を説得することが、埋め立て地にレジャー施設を作る上での最大の難所だった。当時のお金で月に80万円も酒代に使うなどして、説得を続ける。「最後はやはりカネですよ」と、なんとも生臭い交渉が続く。
富士山麓にディズニーランドを誘致できなかった理由
埋め立て地を確保することと、そこにディズニーランドを誘致することはもちろん別の話。当時、ディズニーランドを誘致する案は、主に2カ所から提出されていた。オリエンタルランドの浦安案と、三菱地所の富士山麓案だ。後者は、富士山の裾野にある300万坪の土地を用意していた。しかし、この風光明媚な環境の良さは、ディズニー側にはむしろ頷きにくい条件だった。富士山とその周辺は日本人にとっては神聖な場所であり、そこに「人口の楽園」を作ることは、自然のシンボルを真っ向から否定するような意味合いが生まれかねない。ディズニーはこれを避けたかった。
2つの誘致案を視察しにきたディズニー。オリエンタルランドはヘリコプターで首都上空から浦安まで視察してもらい、わざわざ低空飛行をして東京湾がいかにきれいかを見せた。その途中には、自分達に遊園地事業の経験があることを示す為に京成谷津遊園地を見せることも忘れなかった。こうした交渉を繰り返し、「陸の孤島」に最大のレジャー施設が誘致されることになる。
一度はJRも了承した「東京ディズニーランド前」駅
いざ決まってからも、ディズニーとオリエンタルランドとの交渉は難航する。入場料の10%というロイヤリティ・フィーをめぐる対立は、交渉打ち切りの事態にまで発展する。今から振り返れば、高いか低いかではなく、そもそもキャラクタービジネスについての考え方に大きなズレが生じていたのだろう。
オリエンタルランドはJRが舞浜駅を作る際に「東京ディズニーランド前」という駅名にしてくれるよう陳情し、JRもそれを了承した。しかし、ディズニーがそれを認めなかった。著者いわく「『東京ディズニーランド前』というJR駅の高架の下に、もしパチンコ屋、ポルノショップなどのギャンブルや風俗営業店ができたら、いったいどうするのか」という見解があったからだという。結果的にそういった猥雑な街作りにはなっていないが、イメージを保つという戦略を徹底的に求めてきた。
埋め立て地を作り大きな事業を持ってくるという野心と、自分達のブランドを守りながら海外で大きな展開を果たしたいという思惑が幾度となくぶつかり、ようやくオープンにこぎつける。完璧に統率された現在のディズニーランドからは想像できないが、「夢の王国」は、完成に至るまでいくつもの攻防を繰り広げていたのだ。
(文:武田砂鉄)
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【文献紹介】
「夢の王国」の光と影
著者:野口恒
出版社:CCCメディアハウス
数々の挫折と葛藤、失敗を乗り越えてとてつもない夢を実現させた、熱き男たちのドラマ。東京ディズニーランド誕生までの23年間を克明に描いた書き下しノンフィクション。