最近の若者は駄目なのか?
ところで、最近日本の若者は政治にも外国の情勢にも平和にも興味を持とうとせず、ゲームばかりしていて本も読まないと多くの人が言う。海外旅行をして見聞を広めたいと願う人も減る一方で、授業にも反応しないと嘆く先生も多い。
私は人に何かを教えたことがないのでよくわからないが、そうなのだろうか? と、いぶかしく思う。一見したところは無気力に見えても、日本の若者は馬鹿じゃない。いい物を判別する力を持っている。
少なくとも、私が若いときよりはずっと物知りだし賢い。私がよくわからないパソコンのことや、音楽のことを聞くと、熱心に教えてくれる。自慢じゃないが、そして、本当に自慢などしている場合ではないが、若い頃の私は何も考えていなかった。年上の人に何かを教えたりもしなかった。ぼーーっと起きて、学校に行き、あぁ、何とかしなくちゃなあと思っているうちに、一日が終わった。
心優しき友だちは「アッコは、あぁ見えていろいろ考えているんだよ」とかばってくれたが、半ば昼寝しているかのように漂っていて本当に何も考えていなかったのである。
トライし、挫折したカント
そんな私だが、大学の頃、突如、哲学書を読んでみようと思いたちカントにトライしたことはある。しかし、その難解さに驚きすぐにギブアップして放り出した。内容が難しい以前の問題として、何がなんだかさっぱりわからなかった。これは果たして日本語だろうかと思った。翻訳が悪いというより、日本語になりにくい考え方が記してあるのではないかと感じた。だからといって原著で読む能力も気力もない。
振り返ってみれば、哲学書を読む訓練をしていなかったからかもしれない。そもそも、カントは1724年生まれであり、つまり294年前の人だ。こうなると、歴史の彼方におぼろげに存在するという感じだ。
故郷も東プロシアの首都ケーニヒスベルグで、ここは複雑な事情からもう存在せず、現在ではロシア領カリーニングラードにあたる。今やなくなってしまった町に、300年近く前に生まれた人の言葉にそれでなくてもぼーーっとしている私が反応するのは、やはり無理だったのだ。カントに私を導いてくれる水先案内人が必要だったのに、探そうともしなかった。
カントの几帳面ながら数奇な生涯
今回、カントの年譜を読み、やはりそこには人を惹きつける何かがあると確信した。年譜を読むのが大好きな私にとって、それは舌なめずりしたくなるような内容だ。
カントは1724年に革具職人の息子として生まれ、生涯を通じて東プロシアを出ずに暮らした。出不精だったのか、旅が嫌いだったのか、住んでいる町に満足していて外に出る必要を感じなかったのか。それとも、当時の人は生まれた町で育ち、生き、死んでいくものだったのか。それはよくわからないが、とにかく限られた地域の中で几帳面に生き、学ぶ。それがカントの暮らしだった。
当時、男は父親の職業を継ぐのが普通の生き方だった。しかし、カントは革具職人にはならず勉学の道を選び、31才頃から家庭教師で生計を立て、王立図書館の司書となった。やがて、46才でケーニヒスベルグ大学の講師となって、論理学や数学を教えたあと哲学教授となったという。
彼は哲学で生計を立てた最初の人なのである。そして、57才で『純粋理性批判』を著し、79才で「これでよい」という最期の言葉を残して息を引き取るまで、ただひたすらものを考え続けた。