線香花火に似た明るさと絶望を感じる小説、それが『エアーズ家の没落』(サラ・ウォーターズ・著、中村有希・訳/東京創元社・刊)です。
線香花火は、火をつけたとき、ぽっと小さな灯りがつき、次第に賑やかな火花が散り、輝きを増しながら燃え上がったかと思うと、あっけなく、黒い燃えかすとなって消えてしまいます。そして、あとには深い闇が残るだけです。
華麗なる一族の運命は?
『エアーズ家の没落』は、イギリスの上流階級の一家が味わう恐怖の物語です。タイトルに示されるとおり、家名はエアーズ。かつては華麗なる一族として名を馳せた存在です。
物語の舞台はハンドレッズ領主館。ここでは、200年もの間、豪奢な暮らしが繰り広げられていました。エアーズ家は代々、周囲の憧れの的でした。ところが、第二次世界大戦後に起こった激しい社会変動が一族を没落へおいやります。エアーズ家だけに限ったことではなく、他の領主や貴族たちも陥った窮地です。
変化を受け止め、いち早く邸宅を手放し、新しい生活を始めた家もあります。何とか屋敷を維持しようと、アメリカから大金持ちの花嫁を迎え、持参金で建て直す貴族たちもいました。
けれども、エアーズ家の人々は館に閉じこもり、かつての佳き日々を振り返っているだけです。こうなると、もがきながら没落していくしかありません。
膨大な手間を必要とする邸宅
イギリスには今も、かつての荘園領主の邸宅が残っています。ホテルになっているところもあり、その美しさに魅了される方も数多いことでしょう。持ち主でさえすべての部屋に入ったことはないと言うほど、邸宅は広大です。
憧れはしますが、広大な屋敷を優雅な状態で保つのは至難の業です。運営には多くの人手と莫大なお金が必要となります。
暖炉に火をおこし、薪をくべ、年がら年中、家中を掃いたり拭いたりしなければなりません。
何代にもわたって受け継いできた銀の食器を磨きあげ、ワインを管理し、朝昼晩ときちんとした食事を用意し、着替えも必要となります。
それだけではありません。園遊会さながらのパーティが頻繁に行われ、その時には、臨時の使用人を増やさなくてはなりません。そう、要するに、邸宅とは大変な金食い虫なのです。
館の召使い
エアーズ家は今や荘園領主の立場を失い、収入の道をほぼ絶たれています。追い打ちをかけるように、多額の税金を要求され、邸宅を維持する余裕がありません。ライフスタイルに変化が起き、多くの使用人に囲まれての暮らしなど、特別中の特別な人しか許されなくなっているからです。
それでも、エアーズ家は、ハンドレッズ領主館を手放しません。アメリカから裕福な花嫁を迎える努力もしません。したくてもできない理由があるのです。
そもそも、将来を考える余裕などなく、今日をどうやって持たせようかと気をもみながら、館にしがみついています。こうなると、住んでいるというより、館にかしずいていると言った方がいいかもしれません。
エアーズ家の人々
エアーズ家は3人家族です。かつての領主夫人であるアンジェラ、現在は領主を継いでいる長男のロデリック、そして、ロデリックの姉キャロライン。この3人の個性的なことと言ったら、優雅なモンスターと呼びたくなるほどです。
貧困生活を送りながらも、一家は昔からの習慣を変えることができません。メイドのいない生活など考えられないと、無理をして、住み込みのメイドを雇っています。ベティという名の若いメイドは、本当は工場で働きたいと願いながらも、父親の命令にはさからえず、嫌々、働いているのでした。
メイドが怖がるそのわけは?
ある日、ベティは腹痛を起こします。そこに呼ばれたのが、『エアーズ家の没落』の語り手となるファラデー医師です。
ファラデーは貧しい家の生まれながら、努力を重ね、見事、医師になった人物です。それだけに仕事熱心で、貧しい人を診察するのも嫌がりません。彼の父は息子を医師にするため身を粉にして働き、それが原因で亡くなっています。母もメイドとして働き続け、過労のためか、長生きできませんでした。
そんな両親が、もし、息子が領主館に請われて往診にいくと知ったら、さぞや鼻が高かったでしょう。たとえ、患者がエアーズ家の人ではなく、メイドだったとしても……。
複雑な思いを抱え、領主館に出向いたファラデーは、ベティの病気が仮病であると見抜きます。
彼女はさぼりたいわけではありません。怖いのです。ただし、エアーズ家の人が怖いのではありません。館が怖いのです。死ぬほど、怖いのです。
理由は「いたずら鬼の召使い」が暴れているから……。本物の召使いがこわがる「いたずら鬼の召使い」だなんて。あまりにも皮肉ではありませんか!それでも、ベティは言い張ります。「何かが潜んでいる、間違いなく、何かがいる」と。
何かがいる、確かにいる
ハンドレッズ領主館で暮らしたら、ベティでなくても怖くてたまらず、早く外へ出たいと思うようになるでしょう。建物はまだ重厚で豪奢です。莫大な財産の持ち主であったエアーズ家が、代々おしみなく金を使い調度品を整えてきました。
けれども、今や瀕死の状態。壁紙はめくれ、食器や家具なども、めぼしいものはほとんど売り払われています。あとに残るは廃屋のような空間だけ……。唯一、かつての優雅さが生き残っているとしたら、それはエアーズ夫人の身のこなしや、お茶の習慣などでしょう。
ぼろぼろの館に、優雅なライフスタイルだけが続いているのですから、この奇妙なアンバランスに息苦しくなってきます。汚部屋の真ん中に優雅にたたずみ、作法通りに美しくお茶の時間を過ごす家族の風景は、時代に乗り遅れながら、それに気づかない人の持つ「ズレ」があります。
邸宅の残酷さ
ベティの往診をきっかけに、ファラデー医師はエアーズ一家と仲よくなります。もちろん、そこには、はっきりとした身分差があります。けれども、ファラデーは気にしません。彼は自分のような階級のものが、エアーズ家のお茶や食事に招かれることがどんなに名誉なことか知っていました。
メイドの息子として育ったファラデーは、領主階級に属する人々にどう接したらよいのか心得ています。だからこそ、気むずかしいエアーズ家の人々に気に入られ、受け入れられ、頼られるようになったのでしょう。
エアーズ家側からいうと、頼らざるを得ないのです。次々と惨劇が起こり、その後始末に、ファラデーはどうしても必要な存在となっていました。
エアーズ家の3人は次々と起こる厄災によって、さらにバランスを崩し、精神を病み始めます。そして、最後には、没落という言葉では手ぬるいほどの転落を味わうのです。いったい誰が、何のために……。それは物語の中で謎解きしていただきたいと思います。
気の遠くなるような手間が費やされてきた古い館は、朽ち果てていくときも、多くの人の血と汗を貪欲に欲しがるものなのかもしれません。
線香花火のように、朽ちる寸前の明るさと続く闇を感じさせる物語、それが『エアーズ家の没落』です。
【書籍紹介】
エアーズ家の没落
著者:サラ・ウォーターズ(著)、中村有希(訳)
発行:東京創元社
この地方で、かつて隆盛を極めたエアーズ家は、第二次世界大戦終了後まもない今日では斜陽を迎え、広壮なハンドレッズ領主館に逼塞していた。かねてからエアーズ家に憧憬を抱いていたファラデー医師は、ある日メイドの往診を頼まれたのを契機に、一家の知遇を得る。物腰優雅な老婦人、多感な青年であるその息子、そして令嬢のキャロラインと過ごす穏やかな時間。その一方で、館のあちらこちらで起こる異変が、少しずつ、彼らの心をむしばみつつあった……。悠揚迫らぬ筆致と周到な計算をもって描かれる、たくらみに満ちたウォーターズの傑作。ブッカー賞最終候補作。
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