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2020/4/30 21:45

19世紀、1台のカメラがひとりの女性の人生を変えた——『写真家 ジュリア・マーガレット・キャメロン』

ひとつの贈り物が、人間の運命を根底から覆すときがあります。贈り物をされる前と後では、世界が変わってしまうのです。

 

ジュリア・マーガレット・キャメロンという名の女性にも、同じ事が起こりました。『写真家 ジュリア・マーガレット・キャメロン』(川端有子・著/玉川大学出版部・刊)から、彼女の人生がいかに大きく変わったかを紹介していきます。

 

人生を変える贈り物

時は、1863年の暮れ。ところは、イギリスの南に位置するワイト島。ダイヤモンドのような形をしたこの島で「それ」は起こりました。

 

ジュリーという名の娘が、愛する母、ジュリア・マーガレット・キャメロンに箱形カメラをプレゼントしたのです。贈り物に添えた手紙には、ジュリーの思いがこもっています。

 

「お母さまへ。写真を撮ってみたらどうかしら。寂しさをわすれて楽しくすごせるかもしれません」

(『写真家 ジュリア・マーガレット・キャメロン』より抜粋)

 

ジュリーは気づいていたのです。母はまだ48歳だというのに、生気を失っていることを……。子育てを終えた後、生きがいを見失っているようです。

 

大好きな母が、情熱的で社交的な母が、一日中ふさぎ込んで暮らしているなんて、娘にとって耐えられないことだったのでしょう。なんとか励ましたいと思うものの、ジュリーにも家庭があり、何かと忙しい毎日です。悩んだ末に考えたのが母にカメラを贈ることでした。

 

箱形カメラが起こした奇跡

娘の愛情がこもった大きな箱形のカメラは、ジュリアを救ってくれました。憂鬱な気分は吹き飛んでしまい、これまで子ども達に注いでいた情熱を写真に向けるようになったのです。

 

元々、素地はあったのでしょう。子どものころから、ジュリアは芸術的な環境に包まれて育ってきましたから。何かを表現したいという欲求は写真を撮影することで、満たされていきました。

 

一旦、夢中になると「これが天職だったのだ」と言いたくなるほど、ジュリアは撮影と現像作業に打ち込むようになります。

 

それは「奥様の趣味」を超え、猛烈さを増し、周囲の人を巻き込んでいきます。メイドたちも手伝いにかり出され、食事が大幅に遅れてしまうほどでした。

 

夫や子ども達、そして友人たちも、そんなジュリアにあたたかな目を向けます。それまでの人生を他人のために捧げてきたのだから、「もう自由に羽ばたいていいのだよ」と、応援してくれたのです。

 

とはいえ、当時のカメラは扱いが難しいものでした。40の手習いよろしく始めた彼女が、そう簡単に使いこなせる代物ではなかったはずです。

 

カメラの箱をどこに設置すべきか、焦点をどこにあてるのか、モデルの選び方はどうあるべきか等など、手探りの状態が続きます。

 

コロディオン湿板方式

ジュリアに贈られたカメラは、縦が約23センチ、横が約28センチほどの大きさでした。「コロディオン湿版方式」と呼ばれるもので、1851年に発明され、広く使われるようになっていました。

 

作業はまず、ガラス版にコロディオンを塗りつけることから始まります。コロディオンとは「硝化綿をアルコールとエタノールの混合溶液で溶解させたシロップ状の粘性の液体」ですが、この溶液が乾燥しないうちに、ガラス板をカメラの中に設置し、撮影しなくてはなりません。

 

当然、モデルには準備万端の状態で、スタジオで待っていてもらいます。撮影が終了しても大急ぎの作業が続きます。ガラス版を素早く取り出し、感光材となる硝酸銀溶液に浸してネガを作ったあと、印画紙に定着させていきます。その際、残っている薬品をきれいに洗い流さなければなりません。硝酸銀は毒物なのです。こうした煩雑な作業をひとつひとつ流れるように次々と行う必要があります。

 

母から写真家への転身

しかし、ジュリアの撮影も最初は失敗続きでした。

 

最初に撮った写真はガラス版のスライドにうっかり手をこすりつけたら消えてしまい、ひどくおどろかされた

(『写真家 ジュリア・マーガレット・キャメロン』より抜粋)

 

けれども、ジュリアはあきらめませんでした。子育てをしながら学んだ忍耐とスフレを作るときのような素早さが役にたったのかもしれません。

 

翌年の1月には、村娘・アニーをモデルに撮影した作品に「アニー わたしの最初の成功」というタイトルをつけて完成させています。この写真を仕上げるには、7時間が必要だったといいます。

 

それだけに、ジュリアはうれしくてたまらず、家中を駆け回りました。そして、できた作品を額に入れると、アニーのお父さんに早速プレゼントしました。まるで子どもや孫が生まれたときのような興奮ぶりです。

 

こうして、彼女はカメラによって「空の巣症候群」と言うべき憂鬱を脱することができたのです。

 

ジュリアは母親として、自分の子ども6人に加え、養子や友達の遺児など10人近くを愛情をこめて育て上げたといいます。写真は子育てに似て、待ったなしの判断が必要となりますから、ジュリアには適していたのかもしれません。

 

美しいものを生み出したいという彼女の欲望はとどまるところを知らず、生活すべてが写真を中心に回り始めました。何事も猛烈な人だったのでしょう。

 

作品を博物館へ!

周囲の人は、ジュリアの写真制作をたんなる趣味と思っていたかもしれません。カメラを贈った娘のジュリーでさえ、母親がここまで夢中になるとは思ってもみなかったでしょう。

 

けれども、ジュリアは自分の写真を絵画と並ぶ芸術と考え、高く評価されることを望んでいました。望むだけでは終わらないのが、ジュリアの特徴です。彼女は次の行動に打って出ます。

 

著名な詩人にほめられた言葉を引用し、サウス・ケンジントン博物館(いまのヴィクトリア&アルバート博物館)の館長ヘンリー・コウルに手紙とアルバムを送り、博物館におさめてほしいと申し出た。

(『写真家 ジュリア・マーガレット・キャメロン』より抜粋)

 

驚くべき積極さです。自分の作品に自信がなければできない行いでしょう。まして、時はヴィクトリア朝。女性が職業につくのも、財産をもつことも、投票権さえ許されなかった時代です。そんな時に、「私の作品を博物館におさめてください」と、依頼する手紙を書くなんて。強気の姿勢に、驚きます。

 

さらに驚くのは、この手紙が送られたのが、1865年だということです。写真を始めてまだ1年しか経っていません。

 

もっと驚くのは、館長ヘンリー・コウルがこの申し出を受け、美術館におさめたことでした。なんとジュリアは欲しいものを手に入れたのです。

 

自分を売り込む才覚

ジュリアがアッパーミドル階級に属し、有名な知り合いが多かったのも理由のひとつかもしれません。妹のセアラ・プリンセップがロンドンで主宰していたサロンで、多くの文化人と知り合ったことも助けとなったはずです。

 

だからといって、誰でもできることではありません。自分で自分をプロモーションする強さに、彼女の才能があったのでしょう。

 

『写真家 ジュリア・マーガレット・キャメロン』の著者川端有子は、英語圏の児童文学とイギリス文化の専門家で、日本女子大学の教授をつとめています。

 

著者は、研究者らしい正確さで、豊富な史料や写真を通し、ヴィクトリア朝時代を生き抜いた一人の女性の生きざまを活写しました。カメラが変えた一人の女性の人生、是非、堪能していただきたいと思います。

 

【書籍紹介】

写真家 ジュリア・マーガレット・キャメロン

著者:川端有子
発行:玉川大学出版部

48歳にして初めて手にしたカメラで、今なお色褪せることのない写真を撮り続けたジュリア・マーガレット・キャメロン。女性が職業につくことも望めない19世紀ヴィクトリア朝下の英国で、写真術の発明から間もない中、絵画をカメラで表現する独特な手法で芸術家として立ち上がった一人の女性の軌跡を豊富な図版を交えてたどる。

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