新型コロナウイルス感染症の拡大で、世界で最も関心が高まり、売れた本が、ノーベル文学賞作家アルベール・カミュの『ペスト』(カミュ・著、宮崎嶺雄・訳/新潮社・刊)だ。文庫版の本書は2月以降から増刷を重ね、6月末には160万部を超えたそうだ。欧米でも同様にベストセラーになっているという。病気、戦争、天災など人間は様々な不条理に襲われ、そして不条理は人間性を蝕んでいく。カミュが描いたテーマは常に不条理だった。
『ペスト』は、感染症に襲われ封鎖された街で人々はどう振る舞い、どう変わっていくのかが克明に描かれている。1947年に出版された本だが、古さはまったく感じない。今、私たちが置かれた状況と照らし合わせてぜひ読んでおきたい一冊だ。
カミュの故郷が物語の舞台
カミュはかつてフランス領だったアルジェリアで生まれ、育った。本書は彼の故郷を舞台に描かれている。実際の出来事ではなく、架空の小説だが、ドキュメンタリー風に描かれている。
アルジェリアのオラン市で、主人公の医師リウーが、春のある朝、鼠の死体を見つけるところから物語ははじまる。やがて原因不明の熱病患者が次々と現れ、その症状からリウーはこれはペストだと確信する。リウーは市民の半数が死滅する危険があるからただちに対処すべきだと市当局に訴えるが、その対応は遅れる。このあたりは現在私たちを苦しめている感染症への対応が日本だけでなく各国とも後手後手に回ったことと重なって映る。
不条理に遭遇する登場人物たち
主な登場人物を記しておこう。
・リウー/主人公の医師。本文の描写によるとその肖像は、年齢は35歳くらい。中背で、がっしりした肩つきで、長方形の顔。短く刈り込んだ黒い髪。厚い唇はいつも固く結ばれている。皮膚は日に焼け、ちょっとシチリアの農夫という風貌。
・タルー/旅行者でリウーの友人。年齢は30歳くらいの小柄な男。ペストに対応する保険隊を結成する、道徳的な人物。本文では「タルーの手帳」による記録が多く登場する。それは不条理と闘う苦行者の手記とも言える。
・グラン/市役所に勤める、やせた風貌の50歳前後の口下手な男。保険隊の仕切り役として献身的に働く。小説を書くのが趣味でつつましい暮らしをしている。
・カステル/老医師。ペストの感染初期から危機感を持ち、血清の製造に全力を注ぐ。
・ランベール/新聞記者。パリから取材でオラン市を訪れていて、ホテルで都市封鎖に遭い、なんとか脱出しようと試みる。
・パヌルー/市民から尊敬されているキリスト教イエズス会の司祭。説教で人々の心を鎮めようと努める。また保険隊にも加わり活動をする。
・コタール/犯罪者。ペストの蔓延で捕まるリスクがなくなり、心が軽くなっていく。
ペストの蔓延で変わる人、変わらない人
本書でおもしろいのは、ペストの蔓延で変わる人、変わらない人がくっきりと二つに分かれていることだ。変わらないのが、リウー、タルー、グラン、カステルだ。本書の訳者はこう解説している。
すべて共同社会の連帯性に目覚めた「不条理人」である。彼らの撓まぬ態度は、「不条理」の絶望に立脚した人間が、共同の理想と希望のためにいかに力強く闘うかを語ろうとしている。
(『ペスト』から引用)
これに対し、著しく変わってしまうのが、ランベール、パヌルー、コタールだ。新聞記者のランベールはパリに恋人を残している身であり、この国には無関係の人間だと主張し、なんとか脱出しようと東奔西走する。しかし出国は叶わない。そんな中、リウーも病気療養の妻と遠く離れて暮らしていることを知り、保険隊で働くようになる。司祭パヌルーは、祈祷に集まった人々にはじめはこう説いていた。
今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべき時が来たのであります。心正しき者はそれを恐れることはありません。しかし邪なる人々は恐れ戦くべき理由があるのであります。
(『ペスト』から引用)
しかし、その後、無垢な子どもがペストにかかり苦しみながら死んでいく場に立ち会ったことで、神の意思がわからなくなっていってしまう。そして自らもペストに感染すると、治療を拒否する。災いは天罰ではない、カミュはこの登場人物を通してそう伝えたかったのだろう。
封鎖が長引くと未来が見えなくなる
新型コロナウイルス拡大に伴う欧米のロックダウンは2~3か月間で解除となり、現在は経済の建て直しにシフトした状態だ。
しかし、この物語のオラン市の封鎖はとても長い。春に市の門が閉じられ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、クリスマスを迎えてもペストの勢いは収まらない。
当局は寒冷な日々が、この進行を停止させることを期待していたが、しかもペストは季節の初めごろのきびしい気候を、一向にひるむ様子もなく、くぐり抜けて行った。またさらに待たねばならなかった。しかし、人間は、あまりに待っていると、もう待たなくなるものであるし、全市中のものは全く未来というもののない生活をしていたのである。
(『ペスト』から引用)
ペスト菌は消滅しない
それでも物語ではオラン市のペストはやがて終息していき、多くの犠牲は出たものの、人々は普通の生活を取り戻していく。しかし、医師であるリウーは街中から立ち上がる喜悦の叫びを聞きながら、それが脅かされる日がまた来ることを憂う。
ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家の家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。
(『ペスト』から引用)
今、私たちはウィルスと共に生きていかなければならない現状にある。そのなかでどう振舞っていけばいいのか、そのヒントが本書にはたくさん詰まっている。
【書籍紹介】
ペスト
著者:カミュ(著)、宮崎嶺雄(訳)
発行:新潮社
アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。