こんにちは、書評家の卯月 鮎です。もうかなり前ですが、レストランでの出来事。「お水のほう、お持ちします」「メニューのほう、お下げします」「お会計のほう、こちらになります」……。当時はまだ「のほう」という言い方が珍しかったこともあって、「なんだかほうほうとフクロウみたいだなあ」と思った記憶があります。まあ、最近では私もつい「原稿料のほう、おいくらでしょうか」とメールで書いてしまっているのですが(笑)。言葉に対する感覚も変わるものです。
ついつい使ってしまう「させていただく」の謎
今回紹介する『「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ』(椎名 美智・著/角川新書)は、90年代から使用が増加し、現在爆発的に広まっている「させていただく」を読み解く新書。著者の椎名美智さんは、歴史語用論、コミュニケーション論を研究する言語学者で法政大学教授です。
昨年刊行された学術書『「させていただく」の語用論』(ひつじ書房)はネットニュースでも取り上げられ大きな反響を呼びました。本書はより一般向けに、身近な例を挙げながら「させていただく」の謎に迫っていきます。
現代社会にマッチした敬語とは?
冒頭にはSMAPとV6の解散劇で発表された文言が例に挙げられています。SMAPが解散したときにマスコミに送られたファックスには「解散させていただくことになりました」とありました。そしてV6のホームページには「僕たちV6は、2021年11月1日をもちまして、解散します」と書かれています。読み比べてみると「させていただく」がさまざまなニュアンスを加えていることがわかります。
第1章「新しい敬語表現――街中の言語学的観察」には、さらに多くの使用例が並んでいます。美術館の「館内での飲食は禁止させていただいております」。駅の切符売り場の「発売を終了させていただきます」。お菓子の老舗店の「おかげさまで320年を迎えさせていただきました」。SNSで見かける「マスクを寄付させていただきました」。
私は普段それほど気にしていませんでしたが、特に相手への許可が必要ない行為にも「させていただく」を使うのは変かもしれません。誰に敬意を払っているのかもちょっと不明ですね。みなさんは「させていただく」にどのような印象を持っていますか?
なるほどと思ったのは、第2章「ブームの到来――「させていただく」の勢力図」の「上下関係とは別タイプの敬語」の節。長らく敬語は上下関係を表す際に使われてきました。ですが、現代社会において人間関係は平等とされています。そのような状況では従来の上下関係で使われていたものとは異なるタイプの敬語が必要になってくる、と椎名さん。
また、「敬意漸減の法則」も納得です。敬語に含まれている敬意は、使われるうちに少しずつすり減っていく現象が起きるのだそう。たとえば「貴様」は、江戸時代には目上の人を呼ぶ言葉でしたが、やがて同輩を呼ぶようになり、今ではののしる言葉になっている……。スーパーの売れ残りの値引きシールのようですね(笑)。こうした検証から「させていただく」が現在あらゆる場面で便利に使われている背景が見えてきます。
芸能人のコメントや日常的なビジネス会話も引用され、言語学に興味がない人でもカジュアルに読み進められます。「最近の言葉は乱れている!」と主張するわけではなく、700人の意識調査などのデータを踏まえ、学問として“なぜその言葉が使われているのか”に焦点がしっかり当たっていて読後の満足度も大きかったです。
世の中は常に動いていて、それに伴って言葉の意味や使われ方も変わっていく。言葉は社会を映す鏡です。
【書籍紹介】
「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ
著者:椎名 美智
発行:KADOKAWA
「させていただく」は正しい敬語? 意識調査とコーパス調査で違和感の正体が明らかに。現代人は相手を敬うためでなく、自分を丁寧に見せるために使っていた。明治期、戦後、SNS時代、社会環境が変わるときには新しい敬語表現が生まれる。言語学者が身近な例でわかりやすく解説!
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【プロフィール】
卯月 鮎
書評家、ゲームコラムニスト。「S-Fマガジン」でファンタジー時評を連載中。文庫本の巻末解説なども手がける。ファンタジーを中心にSF、ミステリー、ノンフィクションなどジャンルを問わない本好き。