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2022/10/26 21:30

「結婚」てなんですか? その在り方を問う『愛という名の切り札』

結婚しない若者が増えているという。私の周囲にも、恋人同士でありながら、結婚しないでそれぞれの実家で暮らすカップルが多い。「どうして結婚しないの?」と、尋ねると、「どうしてって、ずっと好きでいる自信がないし、実家にいるほうが楽だし、結婚て損だし」という答えが返ってくる。まあ、そう言われればそうかもしれないが、昭和に生まれ、育ち、結婚し、子どもを産んだ私からすると、結婚というものがまったく異なるものになっていると思い知らされる。

 

結婚を営む二組の夫婦

愛という名の切り札』(谷川直子・著/朝日新聞出版・刊)は、異なる世代の夫婦を描くことによって、結婚の変化を描き出した小説だ。著者の谷川直子は、2012年に『おしかくさま』で文藝賞を受賞してから、次々と興味深い作品を発表してきた。この『愛という名の切り札』は7作目にあたるが、「結婚」をテーマとするのは、彼女にとって初めてのことで、生みの苦しみを感じながらの執筆だったのではないだろうか。結婚しない若者が増えているとはいえ、それでもやはり結婚している男女は多い。彼らは自分の結婚について、語り出したら止まらないウンチクをその身に隠しもっている。いわば膨大な数の「結婚評論家」たちを相手に切り込んでいくことになるのだから、勇気のいる挑戦であったことだろう。

 

しかし、谷川直子はやり遂げた。結婚という平凡なような、摩訶不思議なような、難しい題材を生き生きと描ききった。物語の中で、著者は二組の夫婦を登場させている。主人公である影山梓と影山一輝夫妻。そして、飯田百合子と飯田秀人夫妻だ。

 

この二組の夫婦は、世代も、職業も、置かれている立場も、愛に対する思いも、まったく異なる。当然、結婚生活も「これが同じ結婚という営みか」と、驚くほどそれぞれだ。そんな夫妻に、飯田家の一人娘や、百合子の姪など、若い世代も加わり、錯綜し、反発し、前進していく。当然のことながら、物語はこじれ、もつれ、不安感に満ちたものとなる。

 

時には「ちょっと大丈夫なの?」と、叫びたくなるほど、うねりながら物語は進んでいく。突如として起こる離婚話、弁護士を介しての調停、やめようと思ってもやめられないストーカーじみた行動などが、読者をさいなむかのように起こる。物語の途中、「結婚とは何か」についての問いかけが何度も繰り返されるが、その答えが出るのだか、出ないのだか、最後までわからない。それだけに、読者はいらだち、引きづられ、自分の結婚観ともあいまって、ごちゃごちゃな気分になる。そして迎える意外なエンディング……。

 

特殊な能力を持つ主人公

『愛という名の切り札』は小説であるが、実際に経験した者でなければわからないようなエピソードが盛り込まれている。実話だと確信する部分もある。だからこそ、心をむしられるような思いを登場人物達と共有することになるのだ。「私にもそういうときあったな」と、うなずくような、ぐちゃぐちゃな共感、これがこの物語の核となる。

 

もっとも、物語の主役となる影山夫婦は、どこにでもいる夫婦とはいえない。少なくとも私とは縁がない人種である。一輝は新進気鋭の作曲家であり、梓は特殊な耳を持つとされる音楽評論家だ。二人はどこにでもある職業でもなければ、どこにでもいるカップルでもない。それでいながら、結婚生活で起こることは、似たり寄ったりだ。

 

二人が出会ったとき、一輝は東京藝大を出て、世に打って出たばかりの作曲家だった。32歳になる彼は、「コンクリートの海」という交響曲を作曲し、新人としてコンサートにのぞんだばかり。一方、梓はまだ大学生で、たまたま出かけたコンサートでその曲を聞き、心をわしづかみにされる。彼女は、3年もの間、ただただその曲を思い続け、一輝を慕い続ける。そして、とうとう彼にインタビューすることに成功する。学生の頃から、音楽雑誌でアルバイトをしていたので、編集長に頼み込んでのおしかけ取材が可能となったのだ。

 

梓にしてみると、待ちに待った恋の始まりだったが、一輝にとっては、驚きの出会いとなった。「コンクリートの海」はCDにもなっておらず、たった一度の演奏だったからだ。それは、梓が持つ特殊な才能ゆえだった。彼女には、気に入った音楽なら一度聴いたら忘れない能力があった。当然、「コンクリートの海」も、耳に刻み込まれていた。

 

それだけではない。彼女にはもうひとつ、秀でた力があった。それは好きな音楽を文章として表現できることだ。「コンクリートの海」も、彼女にかかると、「朝が生まれるのよ。世の果てでね」から始まり、「すべての音がやがて夜明けに集約していくの」で、結ばれるまで、流れるような文章で表現される。この能力があったからこそ、梓は夫に愛され、信頼され、やがて、疎まれるようになる。二人の関係が変化していく様は、悲しくて心がさいなまれる。

 

『愛という名の切り札』は、既に結婚している人も、これから結婚しようと思っている人も、離婚しようかと迷っている人にも、読んでいただきたい小説である。結婚に破れた人には、重い内容が心の傷にしみて痛いかもしれない。しかし、その痛みこそが結婚の真実の姿なのかもしれない。結婚から学ぶことはあまりにも多い。多すぎて、疲れる。これが結婚して42年が経つ私の実感である。

 

【書籍紹介】

愛という名の切り札

著者:谷川直子
発行:朝日新聞出版

それがあたりまえだと結婚した主婦の百合子。心変わりを理由に離婚を迫られるライターの梓。結婚にメリットなしと非婚を選ぶ娘の香奈。制度にとらわれず事実婚で愛を貫く若い理比人。結婚、離婚、非婚、事実婚を問いかける本格小説。

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