上野の国立西洋美術館で開催されている「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」に行ってきた。コロナ禍による自粛生活で、しばらく名画は画集など本で楽しむだけの日々が続いていたので、ひさしぶりに本物を鑑賞でき、感動し、また心が洗われた。とはいえ、私は美術に造詣が深いわけではなく、絵画をいつも素人の目で観ているだけ。「この色が好き」とか、「このモデルの表情が好き」とか、「この風景がいい」というようなシンプルな感想しか述べられないレベルなのだ。
そんな私に巨匠たちが描いた名画の知られざる真実を教えてくれる一冊があった。『名画は嘘をつく』(木村泰司・著/大和書房・刊)がそれ。さっそくページを開いてみよう。
絵画鑑賞は恋愛に似ている
前書きで著者の西洋美術史家の木村氏はこう記している。
この本では、それぞれの作品に描かれている「嘘」を読み解いてみました。その結果、表面的な世界とは違う「現実」が、皆さんの前に露になっています。絵画鑑賞は恋愛とよく似ています。一目惚れだけでは長続きしません。その人物の内面を知ることによって、愛情も深くなったり冷めたりもします。
(『名画は嘘をつく』から引用)
では、章立てから見ていこう。
第1章 タイトルの嘘 ~題名からは想像もできない絵の世界
第2章 モデルの嘘 ~モデルは真実を語らない
第3章 景観の嘘 ~名画家の頭の中の景色
第4章 王室の嘘 ~尽き果てぬ虚栄心と自尊心
第5章 設定の嘘 ~史実とは異なる「絵筆のアレンジ」
第6章 見栄の嘘 ~栄光の輝きは飾り物か
第7章 画家の嘘 ~巨匠にまつわる逸話は本当なのか
第8章 天界の嘘 ~試行錯誤を重ねた「神々の具現化」
第9章 見方の嘘 ~鑑賞者や批評家の思い違い
第10章 ジャンルの嘘 ~肖像画? 風景画? 静物画?
レオナルド・ダ・ヴィンチ、レンブラント、フェルメール、ドラクロワ、マネ、モネ、ミレー、セザンヌ、ゴッホ、ピカソなどなど、誰もが知っている名画の秘密が本書で明らかになる。では、ほんの一部だけ、紹介してみよう。
実は仮面夫婦だったセザンヌ夫妻
「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」の順路の一番目に飾られていたのが《セザンヌ夫人の肖像》だった。セザンヌが夫人をモデルに何枚も肖像画を描いたのは有名な話。きっと愛妻家だったのだろうなと鑑賞者は思いがちだが、どうやらそれは妄想らしい。
完全に仮面夫婦だった二人でしたが、なぜセザンヌは夫人をモデルにしたのでしょうかというと、モデルが少しでも動いたら激怒したセザンヌの相手を務めることができるほど、忍耐力があり、我慢強い女性だったからです。
(『名画は嘘をつく』から引用)
そう言われてこの絵を観ると、セザンヌ夫人は無表情だし、あまり幸せそうな表情ではない。セザンヌが絵画で追求したものは造形性で、形態と構図を重んじていたので、主題性に人々の注目が集まるのを好まなかったのだそうだ。また、長時間にわたって対象を理解しようとし、制作にも時間をかけたので、静物画では腐りにくいリンゴ、風景画では動かない山を好んで描いた。描かれている人物や風景に対し、セザンヌが何を思っていたのかなどという郷愁を、彼は鑑賞者にまったく求めていなかった、と木村氏は解説している。
《モナリザ》の美しさはモデルへの称賛ではない
世界で最も美しい肖像画として有名な《モナリザ》。が、モデルであるフィレンツェの裕福な商人の夫人、リザ・デル・ジョコンドの美しさが称えられているわけではのだそうだ。
レオナルドは、スフマートというボカシの技法を生み出しました。彼は「自然のものに輪郭などない」と考えていたからです。それは当時、驚愕すべき技法でした。(中略)そのスフマートの技法が完璧に美しいことが、《モナリザ》の美しさなのです。
(『名画は嘘をつく』から引用)
当時、フィレンツェではデッサンを重視していたので、輪郭線のないこの絵画は革新的だったのだ。
実はタイトルを変えた《アヴィニョンの娘たち》
ピカソの代表作であり、キュービズムの原点となった《アヴィニョンの娘たち》。しかし、この絵は童謡のようにアヴィニョンの橋の上で踊る娘たちを描いたものではない。しかも地名も違うというのだから驚きだ。ピカソがこの絵で描いたのはバルセロナの売春街にあるアビニョ通りで働く売春婦たちだったのだ。
1916年に最初に展示した際のタイトルは《アヴィニョンの売春宿》でした。しかし、あまりにもスキャンダラスなタイトルだったため、キュビズムの支持者だった美術評論家アンドレ・サルモンの助言によって、現在のタイトルとなりました。
(『名画は嘘をつく』から引用)
そもそも地名をを変えたのは童謡『アヴィニョンの橋』が世界的に有名で知られた場所だったからのようだ。ちなみにピカソ自身は新タイトルがまったく気に入っていなかったそうだが、サルモンによって改題されたタイトルが美術史でも定着することになったのだという。
《真珠の首飾りの少女》は肖像画ではない
フェルメールの作品で最も人気の高い《真珠の首飾りの少女》。モデルとなった女性とフェルメールをテーマにした映画まで制作され、私ももちろん観た。しかし、実は最初からモデルなどいなかったのだそうだ。
これは肖像画ではなく「トローニー」と呼ばれるものだからです。トローニーは、歴史画など大作を描くために描かれた、いわばキャラクター研究のためのものでした。絵画の投機ブームに沸いた17世紀のオランダ社会で、トローニーまでもが絵画市場で流通するようになったのです。
(『名画は嘘をつく』から引用)
肖像画ならモデルに似せる必要があるが、トローニーは目的自体が違うので誰かに似せて描く必要はまったくなかったわけだ。つまり、この少女が誰だったのかを詮索すること自体が無意味なのだそうだ。
この他にも知っているあの絵、この絵の嘘が暴かれていく本書、美術ファンも、そうでない人もじゅうぶんに楽しめるのでおすすめだ。
【書籍紹介】
名画は嘘をつく
著者:木村泰司
発行:大和書房
「夜警」「モナリザ」「最後の審判」「ラス・メニーナス」「叫び」など、西洋絵画に秘められた嘘を解き明かす斜め上からの芸術鑑賞!