本・書籍
2022/12/6 21:30

ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーの妊娠・中絶を巡る衝撃的なオートフィクション『嫉妬/事件』

今年2022年、ノーベル文学賞を受賞したフランス人作家、アニー・エルノーの『事件』を原作とした映画『あのこと』が公開になった。

 

1960年代、中絶が違法だったフランスで妊娠してしまった大学生の葛藤を描いた作品で、ヴェネチア国際映画祭で金獅子を受賞している。今でこそフランスはフェミニズムの国となっているが、中絶が合法化されたのは1975年のこと。それ以前は多くの女性たちが望まない妊娠で苦悩し、闇中絶に頼るしか選択肢がなかった。そして、それらをひと昔前のことといえない状況なのがアメリカで、なんと現在13の州が中絶を禁止しているのだ。多くのアメリカの女性たちは、今、切実な思いでエルノーの本を手にして読んでいるという。

 

嫉妬/事件』(アニー・エルノー・著、堀茂樹、菊地よしみ・訳/早川書房・刊)の原著は、『事件』が2000年、『嫉妬』が2002年と別々に単行本として刊行された。この二作を収録し、ハヤカワepi文庫として発行されたのが本書だ。

オートフィクションとは?

アニー・エルノーはフランスを代表するオートフィクションの旗手だ。オートフィクションとは、フィクションでもノンフィクションでもない。『嫉妬』の訳者である堀茂樹氏はあとがきでこう記している。

 

一九八四年の初版の『場所』以降のA・エルノーのすべての主要作品と同様(中略)、著者自身が引き受ける一人称の「私」の名において記述された自伝的「文章」「テクスト」である。

(『嫉妬/事件』訳者あとがきから引用)

 

『嫉妬』では、若い恋人を他の熟年女性に奪われた熟年女性の「わたし」が語り手に、そして『事件』での「わたし」は20代前半で体験した堕胎という事件を振り返り、その一部始終を淡々と語っているのだ。

 

フランスでは中絶は犯罪だった

『事件』の本文中には、1948年版の新ラルース百科事典にある中絶に関する法律が記されているので引用しておこう。

 

法律 以下の者は懲役および罰金を科される。(一)何らかの中絶処置をほどこした者。(ニ)その種の処置を指示もしくは幇助した、医師、助産婦、薬剤師、およびその責任者。(三)みずからの身体に中絶処置をほどこした女性、もしくはそれに同意した女性。(四)中絶を教唆、避妊を奨励した者。

(『嫉妬/事件』から引用)

 

とはいえ、子を産めば人生が狂い変わってしまう若い女性たちはなんらかの方法を見つけていた。自ら膣に編み棒を突っ込み、命を危険にさらす女性もいたし、大金の施術料と引き換えに闇で中絶を行う者も大勢いたのだ。

 

中絶をする決心は固く

1963年の10月、「わたし」はルーアンで生理がやってくるのを1週間以上待っていた。しかし、いくら待てども生理はこない。そこで「わたし」は11月になって婦人科のN医師の診察を受けた。

 

婦人科医は、あなたが妊娠しているのは確実だと言い、妊娠証明書を送ると伝えてきた。証明書は翌日届いた。<マドモアゼル・アニー・デュシェーヌの分娩予定日 一九六四年七月八日>。わたしは夏を、太陽を目に想い浮かべた。そうして、妊娠証明書を引き裂いた。(中略)一週間後、ケネディ大統領がダラスで暗殺された。でも、それは、もはやわたしの興味を引く出来事ではなかった。

(『嫉妬/事件』から引用)

 

最初はひとりでやろうと心に決め、編み棒を性器に差し込んでみた。しかし激しい痛みを感じるばかりで、ひとりでは出来ないと悟り、そして泣いた。その後、絶望する中、知り合いがパリで闇で堕胎をしてくれるマダムP・Rを教えてくれた。マダムP・Rはある私立病院に勤めている年配の準看護婦だった。彼女は病院から膣鏡を持ち出せる水曜日にだけ、自宅で処置をしてくれるという。方法は膣鏡を使って子宮頸部にゾンデを挿入する。そうしてあとは流産するのを待つだけ。「わたし」はお金を借り、迷うことなく列車に乗って、ルーアンからパリへ向かったのだった。そのあたりはかなり詳細に書かれている。

 

大学の寮のトイレで出産

出産のシーンも克明に淡々と書かれている。大学の寮のトイレに駆け込み、力いっぱい何度も息む。

 

榴弾の炸裂のようにあれが飛び出してきて、羊水がほとばしり、ドアまで広がっていった。性器から、ちっちゃな胎児が赤っぽい臍の緒の先に垂れ下がっているのが見えた。

(『嫉妬/事件』から引用)

 

そして友人のOが臍の緒を切る。そして、「わたし」もOも3か月の胎児の生と死が同時に起こった瞬間、生贄の場面に涙を流すのだ。

 

書くことで罪悪感を消し去った

時を経て、この出来事を文章にしたことについてエルノーはこう記している。

 

わたしにとって人間経験の総体のように思えることを、こうして言葉にし終えたわけである。生と死の経験、時間の、道徳とタブーの、法律の、経験、この体を通して始めから終わりまで生きた経験を。(中略)さまざまなことがこの身に起こったのは、それを説明するためなのだということ。それと、わたしの人生の真の目的は、おそらくこういうことでしかないからだ。わたしの体、感覚、思考を、書く行為によって ━言い換えれば、一般的に理解できるものによって ━ほかの人たちの頭と人生のなかに完全に溶け込む、わたしの存在にするということ。

(『嫉妬/事件』から引用)

 

すべての女性が自由意志で産むか産まないかを選択できる権利の重要性を、『事件』は私たちに切々と伝えてくれているのだ。

 

『事件』があまりに衝撃的なのでそればかり書いてしまったが、本書の『嫉妬』に関してもエルノーは嫉妬に囚われた想像界を克明に見事に表現している。

 

ノーベル賞受賞作家の話題作2篇が収録された本書、バッグやコートのポケットに入れて持ち歩ける文庫なので、すき間時間の読書におすすめだ。

 

【書籍紹介】

嫉妬/事件

著者:アニー・エルノー
発行:早川書房

別れた男が他の女と暮らすと知り、私はそのことしか考えられなくなる。どこに住むどんな女なのか、あらゆる手段を使って狂ったように特定しようとしたがー。妄執に取り憑かれた自己を冷徹に描く「嫉妬」。1963年、中絶が違法だった時代のフランスで、妊娠してしまったものの、赤ん坊を堕ろして学業を続けたい大学生の苦悩と葛藤、闇で行われていた危険な堕胎の実態を克明に描く「事件」を合わせて収録。

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