『君のいた時間 大人の流儀Special』(伊集院静・著/講談社・刊)は、累計228万部の国民的ベストセラー『大人の流儀』シリーズの最新刊。伊集院氏と彼の愛犬ノボとの出逢い、共に過ごしたかけがえのない日々、そして別離までを綴った珠玉のエッセイだ。家族の一員だったペットとの別れはとても辛い、私自身も愛犬を見送って5年も経ったが、今でも時々ふっと思い出しては目頭が熱くなってしまうのだ。本書は、そんなペットロスに苦しむ人に向けて書かれたものだ。
ペットのことを書くのは辛い作業
伊集院氏を以ってしても愛犬のことを書くのはかなり辛い作業だったようだ。たとえば前書きだけでも十回以上書き直したという。
あれほど好きだった犬のことをスラスラ書けるわけがない。担当者にも尋ねたが、犬のことを書いて欲しいという人は、まず犬も猫も飼っていないし、飼った経験がない。書きはじめたが、まったくうまくいかない。−−ほらみろ、日々、共に暮らし、無言で自分に愛情を示してくれていた存在をた易く書けるはずがない。書ける者がいたら、詐欺師である。
(『君のいた時間』から引用)
筆が進まず、腹が立ち、出版社の申し出を受けたことを後悔し、そして何度も投げ出したくなったと記している。それでも自身を奮い立たせ書き上げたのは、奥様のひと言があったからだそうだ。
「どれだけあの子たちが、けなげで、頑張って生きたか、あなたの筆で書いて下さい」そう言われて応えようがなかった。
(『君のいた時間』から引用)
伊集院氏によくなついていたノボ、そして兄貴犬のアイスとも看取ったのは奥様で、「息を引き取りました」と両手に愛犬を抱えて報告に来たのだという。その胸中はいかばかりだったのであろう? その彼女が本を書き上げることを望んでいたのだ。
東北一のバカ犬、ノボのこと
伊集院氏が「東北一のバカ犬」と愛情を込めて呼ぶ犬は、ペットショップで最後まで売れ残っていたブサイクなミニチュアダックスだった。伊集院家には、すでに同種のアイスと名付けた犬がいたが、奥様がその一匹にかまい過ぎるので、いつか来る別れを心配し、もう一匹を飼うよう命じたのだそうだ。
最後まで売れ残っている犬が一匹いると言われた。「それがいい。そいつを連れて来なさい」それがノボで、今や東北一のバカ犬である。この犬がある時から異様に私になつきはじめた。何のことはない家人に内緒で何度か餌をやったためだ。
(『君のいた時間』から引用)
犬の本名はノボル、正岡子規の幼名から取ったのだという。ちなみに子規に似ているところはひとつのことに夢中になると、そればっかりやり続けるところ、だそうだ。
ノボが彼らの元にやってきて6か月目にはパラボウィルスに感染し、大量の血を吐き、一時は医師からはほぼダメと言われたものの、自力で生き延びたという過去もある。さらりと文章にしているが、飼い主としてどれほど心配したことだろう。
ミニチュアダックスたちとのかけがえのない時間
アイスとノボ、そして彼らの家のお手伝いさんの飼い犬で同種のラルクもいた。3匹はいつも一緒に散歩をし、幸せな日々を送っていた。大病を克服したノボも、以後は元気でさまざまなダメぶりを発揮しつつ、家族を笑顔にしていた様子が読んでいると伝わってくる。
が、しかし犬が飼い主と過ごせる時間はあまりにも短い。彼らは人間の6倍のスピードで老いていってしまうのだから。やがてアイスが先に天に召されていった。奥様のあまりの悲しみに伊集院氏はもう一匹飼ったらどうかと提案したが、彼女は決して首をたてに振らなかったという。
その理由が、夜半ロウソクの灯りの中で揺れているアイスの写真でわかる。家人は今でも、早朝、アイスの夢を見て涙目で目覚めるらしい。どんな家にも、どんな暮らしにも、かけがえのない時間というものがある。今は記憶の中にしか存在しないように思えても、それは生あるものが懸命に生きていた証である。
(『君のいた時間』から引用)
そうしてラルクも旅立ち、老犬となったノボ一匹が残った。
悲しみは、ふいにやって来る
やんちゃだったノボも年をとり、ちょっとした段差を登れなくなったり、昼も夜も寝ている時間が増える。老犬とはそういうものだ。そして、ノボも天命をまっとうする日が来た。17歳半だったそうだ。子犬の時に致死率95%の病を克服し、さらには東日本大震災をも生き抜いたのだから、長生きしたといえる。伊集院氏は冷たくなってしまったノボと一晩いっしょに寝たそうだ。
どんなに愛犬が長生きしたとはいえ、いなくなってしまった悲しみはふいにやって来るものだ。
不思議なことだが、悲しみ、もしくは悲しみの記憶は、ふいに、その当人に近づき、背後から全身を抱擁するかのようにやって来る。この一文が意味するものが、何のことかよくわからない、とおっしゃる人はしあわせな人である。
(『君のいた時間』から引用)
悲しみを癒してくれるのは時間の経過でしかないが、それでも、いつまでも悲しみを忘れられない人のほうが多い。伊集院氏は、人間とはそういう生きものであり、人生とは悲しみと、必ず遭遇するものである、と結んでいる。
現在、伊集院家には、アルボという美しい猫がいる。アイス、ラルク、ノボから一文字ずつとって名付けたのだそうだ。
いやはやアルボの美人なこと……。
(『君のいた時間』から引用)
家族の一員として、新たなペットを迎えること。それが悲しみを乗り越え、笑顔を取り戻す唯一の方法なのかもしれない。
新しい年を迎え、今年こそ犬や猫を飼おうと思っている人、現在、愛犬や愛猫と暮らしている人、そして愛した犬や猫を見送った悲しみから立ち直れない人……など、ペットを愛するすべての人に読んでほしい一冊だ。
【書籍紹介】
君のいた時間 大人の流儀Special
著者:伊集院静
発行:講談社
愛するペットを失ったすべての人へ送る珠玉のエッセイ集。
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