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2021/7/9 17:00

日暮里で唯一の駄菓子問屋の店主と玉袋筋太郎が「駄菓子文化」について語り尽くす!

〜玉袋筋太郎の万事往来
第11回 「大屋商店」店主・大屋律子

 

全日本スナック連盟会長を務める“玉ちゃん”こと玉袋筋太郎が、新旧の日本文化の担い手に話を聞きに行く連載企画。第11回目のゲストは、昭和22年創業の駄菓子問屋「大屋商店」店主の大屋律子さん。かつては160軒ものお店が並んでいたという日暮里の駄菓子問屋街で、たった一軒だけ生き残った同店。今も現役でお店に立つ大屋さんを相手に、玉ちゃんが子ども時代の思い出話に花を咲かせる。

 

(構成・撮影:丸山剛史/執筆:猪口貴裕)

 

ばあちゃんが高田馬場で駄菓子店をやっていた

玉袋 いやー、女将さん。久々に日暮里に来て驚いちゃった。再開発でこんなになっちゃったんだ。俺も駄菓子屋には縁があってね、死んだばあちゃんが高田馬場で駄菓子屋をやってたんですよ。

 

大屋 あれー。そうなの。

 

玉袋 山手線で1本だし、こっちまで絶対に仕入れに来てたと思うよ。「小池屋」っていうお店だったんだけどさ。

 

大屋 今、うちに仕入れに来る駄菓子屋は3代目も見えているけど、先代の写真を持ってきてくれるの。それを見ると、知ってるお客さんだったりしてね。もしかしたら小池屋さんも知ってるかもしれない。

 

玉袋 俺のばあちゃんも戦争で旦那さんをとられちゃったからさ。戦災未亡人で、そのときに一人で駄菓子屋を始めて、俺のおふくろやおじさんを育てたんだ。その歴史があるから、自分もあるんだなと思って。だから駄菓子屋は切っても切れない縁なんだ。ばあちゃんがいて、おふくろがいて、俺がいるんだから、駄菓子は血液に流れているね。

 

大屋 いつまで小池屋さんはやってたの?

 

玉袋 もう50年以上も前だよ。ばあちゃんは明治生まれだったからね。

 

大屋 駄菓子屋の最盛期だね。当時はひっきりなしにお客さんが来るから朝の4時起きで、帰りは夜の9時が当たり前。今はコンビニ、スーパーと、どこでも駄菓子が売ってるでしょう。でも昔は駄菓子屋だけだったからね。

 

玉袋 なんで日暮里に駄菓子の問屋さんが増えたんですか?

 

大屋 戦後、焼け野原になった日暮里で何かしなきゃいけない。それで飴とか煎餅、五家宝を売り始めたのが最初。焼け野原になった場所に菓子問屋街ができたの。

 

玉袋 上野のアメヤ横丁もそんな感じだもんね。

 

大屋 そうそう。日暮里も一緒。もともと、うちも長屋にあってね。

 

玉袋 俺は新宿育ちだけど、子どものときはよく近所の駄菓子屋に行ってたんだ。そこで駄菓子屋のババアに引っ叩かれながら大人になるための社交術を学ぶというね。

 

大屋 駄菓子屋に来てた子は、とにかく頭がいい!

 

玉袋 ハハハハハハ。

 

大屋 計算するじゃん。50円だったら片手。100円だったら両手。それでも足りない場合は足の指を使って計算してたんだから。今はみんな計算機でしょう。

 

――それにしても、すごい品揃えですね。

 

 

大屋 でも今は、ずいぶん製造元も辞めましたよ。

 

玉袋 そうだよね。梅ジャムの会社もなくなったでしょう。

 

大屋 前は梅ジャムを作るところは2軒あって。1軒は機械が壊れ年齢的にも続けられないとのことで廃業されました。もう1軒は今もやっているから、仕入れはできるけどね。

 

玉袋 懐かしいね。駄菓子屋には、ちゃんとルールもあったけど、ズルをやるガキもいるんだ。俺はガキのころ、ズルしたりはしなかったの。でも仲間でやっちゃう奴がいるわけ。ところが、そいつは1個上のいじめっ子に「やってこい」って言われてたんだよ。それが本当に嫌でさ。

 

大屋 そこで行かないとぶっ飛ばされるしね。

 

玉袋 そうそう。それが辛くてね。たかだか10円だよ。自分のばあちゃんが駄菓子屋やってたから、それと重なるんだよ。あの10円ほど、いまだに心に刺さってるものもないよ。考えてみたら、1個5円とか10円の商品を扱って、メシを食わせるってすごいことだよ。

 

大屋 消費税もないし、賞味期限もないから、やってけたんだろうね。私たちの時代なんて飴玉1個1円よ。今は10円。でも先日、10円のメーカーが1軒辞めたね。まだ残っている創業110年ぐらいのメーカーが、10円の飴を作り続けていてテレビで取り上げられたの。それがインターネットなんかで広まったんだろうね。もう注文が山のように来た。昔は仕入れなんて、風呂敷を背負って来てたもんだけどね。

 

玉袋 そうそう、風呂敷なのよ。ばあちゃんも風呂敷背負ってた。

 

大屋 品物を持たせるために、ちっちゃい子どもを連れてきてね。

 

玉袋 俺のばあちゃんは足が悪かったから、風呂敷背負ってピョコピョコ歩いてた。思い出すな~。

 

大屋 それで子どもを大学まで出した人がいっぱいいたからね。まだ物価が安い時代だからやれたんだよ。

 

なんちゃって駄菓子店と町内会のお祭りは一緒

玉袋 ここに来るお客さんはどんな人が多いんですか?

 

大屋 駄菓子屋の2代目、3代目が仕入れに来るね。一般の人も箱買いで来るよ。今コロナでどこにも行けないから孫に駄菓子を送ったりね。外国に送る方もいるんですよ。仕事で海外に行ってる人が、日本の駄菓子が懐かしくて送ってもらうんだろうね。

 

玉袋 子どものころに食ってたいかや「さくら大根」なんて当時と味が変わってないんだよね。そういや「ベビースターラーメン」でお湯を入れてくれる駄菓子屋があってさ。そのおやじが汚ねえんだよ。ベビースターを55円で売ってて、どうして端数が出るかというと、それに5円足して60円払うとお湯を入れてくれるの。ひどいもんだよ。

 

大屋 そうそう。お湯代をとった店もあったね。

 

玉袋 近所に「青い鳥」って駄菓子屋があってさ、ちっちゃいときに通ってたんだけど、自分が年を取って大人になると、当時威張っていた駄菓子屋のおやじが普通に接してくるんだ。逆に「おじさんダメだよ。もっと強く言ってよ」って言いたくなったね。ただ『こち亀(こちら葛飾区亀有公園前派出所)』にも書いてたけど、駄菓子屋とおばちゃんは1セットなんだよ。おじさんじゃねえんだよな。

 

大屋 昔は女の人の仕事も少なかったから、生活を成り立たせるために駄菓子屋をやったの。だから今も90歳過ぎのお得意さんに感謝されるよ。数年前に小菅刑務所の近くにある駄菓子屋をやってたおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったんだけど、その息子が学生時代は自転車に乗って仕入れに来てね。駄菓子だけじゃなく、夏は昆虫網や虫かご、冬は凧を仕入れていくの。

 

玉袋 凧あげね。

 

大屋 今は、なかなか凧もあげられないよ。場所によっては怒られるんだから。

 

玉袋 あとはベーゴマね。

 

大屋 今の子はベーゴマなんて回せない。80歳を過ぎたおばあちゃんが、孫のために買いに来るけどね。

 

玉袋 ベーゴマの工場もほとんどないからね。

 

大屋 ないない。川口に1軒だけ。ろう石は知ってる?

 

玉袋 あったね。今の子は知らないよ! 今は道端に子供たちの落書きすらないもんね。けんけんぱもやってないしさ。昔は小学校の近くに必ず駄菓子屋が1軒あって、隣の小学校の駄菓子屋に行くと、そこの勢力とケンカになったりするんだよね。あれがまた面白いんだ。

 

大屋 昔は町中に駄菓子屋が5、6軒あったからね。

 

玉袋 俺はなんちゃって駄菓子屋が嫌いでさ。大量の駄菓子を並べて駄菓子屋風にやってるところがあるじゃん。要はレトロ酒場みたいなさ。そうじゃねえんだよ。やっぱり昔ながらの駄菓子屋がいいんだけど、いまや絶滅危惧種だよ。

 

大屋 この辺だって昔は駄菓子問屋が160軒ぐらいあったんだからさ。それが再開発もあって、みんな辞めてなくなって、うち1軒だけ。

 

玉袋 ここはビルの2階に入ってるけど、なんでこんなビルが建っちゃったの?

 

大屋 舎人ライナーを走らせるために再開発したの。私の記憶では舎人ライナーの話が45年前ぐらいから出ていたけど、設計した人が何人も亡くなって、ようやく2009年に開業したんだもん。ずいぶん時間がかかったよ。

 

玉袋 でも女将さん、大当たりだよ。よく、こんな立派な場所に入れたね。

 

大屋 私もうれしかった。

 

玉袋 女将さんは昭和何年生まれなの?

 

大屋 昭和16年。中卒だよ。

 

玉袋 俺のおふくろも中卒。女将さんは、ちょうど80歳ぐらいか。元気だね。

 

大屋 元気と言ったって、今は杖をついて歩いてるんだから。毎日、今も谷中から歩いて通ってるの。墓場のあたりを通ってね。

 

玉袋 墓場か(笑)。でも商売をやってないとボーっとしちゃうしさ、毎日お金のやり取りをしているといい感じに呆けないわな。

 

大屋 コロナ時代がきて大変だけど頑張らなきゃね。

 

玉袋 本当だよ。学校が終わって「駄菓子屋集合!」って家にランドセルを放り投げて、駄菓子屋に行く気持ちはいまだに変わってなくてさ。夕方、もつ焼き屋に行こうってなるのと一緒。俺にとっちゃ、駄菓子屋と居酒屋は一緒だよ。早く学校終わんないかな、早く仕事終わんないかなって、ソワソワしちゃってさ。今日だって仕事が終わった後のことを考えているんだから。こうして駄菓子を見てると思うのは、駄菓子屋は飲兵衛を作る学校だよね。

 

――確かに、いかをはじめとして酒のつまみにピッタリなお菓子が溢れてますからね。

 

大屋 だから大人買いで、おたくみたいな飲兵衛が箱で買いに来るの。

 

玉袋 たまんないね。こういうのを食べて下地を作っているから、体も強くなるよね。駄菓子屋で栄養を摂ってたんだから、こういうので仕込まれたと思うよ。俺もいろいろ食べたけどさ、結局一番好きなのはいか系。やっぱ飲兵衛なんだよ。「ソースいか」の串に刺さってないバージョンがあって大好きだったんだけど、その箱に子どもたちが勝手に手を入れるからベトベトだったね。

 

大屋 ソースいかも、けっこう前になくなったな。いまだに欲しいって買いに来る人がいるから、ここに売ってるいかの駄菓子を箱で買って、ソースに漬けとけって言うの。

 

玉袋 この串に刺さった「よっちゃんいか」を5、6本買って、新宿御苑でザリガニを釣ってたね。これの何がいいって串を抜くと穴があるから、ここにタコ糸を通すと、すごく釣りやすいの。よっちゃんいかの本社は山梨なんだよね。海がねえのに、よっちゃんいか。これは甲州商人のやり方だね。あと、「ぽんするめ」ってのが一番好きだったな。あれはうまかった。

 

大屋 いかが獲れなくなって、どんどん原料が高騰して、辞めたメーカーも多いんだよね。

 

玉袋 お、「紋次郎いか」。これも昔からあるよね。

 

大屋 それは名古屋のメーカーだね。

 

玉袋 昔はこうして並んでいるケースに、勝手に手を入れて、おばちゃんに20円渡して食ってたんだから、今じゃ考えられないよ。

 

大屋 昔は乾燥してパリパリになっても売れてたからね。

 

玉袋 「チーズあられ」も好きだったな。昔は小さい袋が20円で売ってたんだけど、でっかい袋も売ってて、それを買って家で食っているときの満足感ったらなかったね。

 

――子どものころ、駄菓子店で食べる定番の順番ってありましたか?

 

玉袋 ガキのころはお麩から入って、いか食べて、変な色のジュースを飲んでた。手がベタベタになってね。ちんちんいじった手で食べたり飲んだりしてるんだもん。そりゃ体も強くなるし、免疫もつくよ。「フィリックスガム」もよく買ったな。過去に3連続で当たったことがあって、いまだに自慢だよ。くじもいいんだ。今はあまりないでしょう。こんなのに一喜一憂してたのも、いい教育だったのかもね。

 

大屋 カタヌキもあるよ。

 

玉袋 カタヌキと言えば縁日だよね。初日に買って、その場では掘らないんだ。家に持って帰って、湿らせて掘ってから、翌日に行って「はい、500円!」って言ってね。駄菓子屋には、かんしゃく玉、爆竹、2B弾と、ちょっと不良っぽいのも売ってて、それも楽しいんだよな。縁日と言えば香具師さんだけど、今は香具師さんも厳しいじゃない。さっきの話に戻るけど、なんちゃって駄菓子屋と町内会のお祭りって一緒だと思うんだ。町内会のお祭りは商店街のおじさんたちが出店をやってるけど、そこには全く面白味がない。やっぱり香具師じゃないとね。駄菓子屋もおばちゃんがいないと成立しないし、この文化は残っていってほしいね。

 

 

玉袋筋太郎

生年月日:1967年6月22日
出身地:東京都
1987年に「浅草キッド」として水道橋博士とコンビを結成。
以来、テレビ、ラジオなどのメディアや著書の執筆など幅広く活躍中

一般社団法人全日本スナック連盟会長
スナック玉ちゃん赤坂店オーナー(港区赤坂4-2-3 ディアシティ赤坂地下1階 )

<出演・連載>

TBSラジオ「たまむすび」
TOKYO MX「バラいろダンディ」
BS-TBS「町中華で飲ろうぜ」
CS「玉袋筋太郎のレトロパチンコ☆DX」
夕刊フジ「スナック酔虎伝」
KAMINOGE「プロレス変態座談会」