エンタメ
2021/8/23 18:30

玉袋筋太郎が直撃!「ポレポレ東中野」代表・大槻貴宏に聞く「ミニシアターで稼ぐということ」

〜玉袋筋太郎の万事往来
第12回 「ポレポレ東中野」代表・大槻貴宏

 

全日本スナック連盟会長を務める“玉ちゃん”こと玉袋筋太郎が、新旧の日本文化の担い手に話を聞きに行く連載企画。第12回目のゲストは、ドキュメンタリー映画を中心に他とは一線を画したプログラムで数々の話題作を提供するミニシアター「ポレポレ東中野」代表の大槻貴宏さん。玉ちゃんがシネコン全盛時代にミニシアターが生き残るための術を直撃する!

 

(構成・撮影:丸山剛史/執筆:猪口貴裕)

通産省からの助成金500万円が出発点

玉袋 大槻さんは東中野という小さな街から小石を投げて、それが大きな波紋になっていくような映画を次々と世に送り出していますが、まず東中野という場所がいいですよね。

 

大槻 いいですよね。

 

玉袋 最高ですよ! 新宿から2駅なんだから。

 

大槻 最悪、新宿まで歩けますからね。

 

玉袋 どういうきっかけで、ここを任されたんですか? 前は「BOX東中野」という館名でしたよね。

 

大槻 そうそう。「BOX東中野」が2003年4月に閉館することになったと。ただ映画館の跡地って他に利用のしようがないんですよね。ここのビルのオーナーがマネジメントをやってくれる人がいないか探していたんです。僕は下北沢で「下北沢トリウッド」というミニシアターをやっていたのもあって、共通の知人から「こういうのあるけど」って紹介されました。それでオーナーとお話をして、下北沢トリウッドを続けながらというのを条件に、2003年5月から一緒に始めました。

 

玉袋 映画館のマネジメントって主にどういう業務なんですか?

 

大槻 何を上映するのか、人をどういう風に配置するか、あとは資金繰りなども含めた経営ですね。

 

玉袋 そもそも、どういう流れで大槻さんは映画の世界に入って来たんですか?

 

大槻 玉袋さんと僕は同じ年なんですよ。

 

玉袋 昭和42年生まれ?

 

大槻 そうです。僕は早生まれなので、学年は1個先輩ですね。大学を卒業して、あのころはバブルじゃないですか。大学を出たら、どこの会社でも入れるような時代だったので、このまま就職しても面白くないと考えたんです。何か好きなことでお金を稼げればいいなと思って、アメリカの大学に留学して、そこで映画のプロデュースを学びました。卒業後、帰国したんですけど、食い扶持はないので専門学校で講師などをしながら、下北沢でゼロから映画館を作ったんです。

 

玉袋 「作った」って簡単に言うけどすごいですよね! 金はどうやって引っ張ってきたんですか?

 

大槻 気になるでしょう?

 

玉袋 親父の家を抵当に入れたとか?

 

大槻 違います(笑)。

 

玉袋 映画ってロマンがあるけど、俳優さんが映画を作ったりすると、すごい借財を背負っちゃったりするじゃないですか。ガッツ(石松)さんしかり、小林 旭さんしかり。

 

大槻 さだまさしさんとかね。

 

玉袋 さだまさしさんなんて一番の借財だよ。そのお金をどうしたんですか?

 

大槻 当時31、32歳だったんですけど、その年齢で貯金なんてないじゃないですか。でも、あのときは国でベンチャー企業を支援していたんです。まずは通産省(現・経済産業省)から助成金を500万円受けることが出来ました。でもそれで足りる訳がないので、「通産省からの500万円」という評価で銀行さんを口説いて3000万円を借りました。

 

玉袋 人生の大博打ですよね。

 

大槻 そうです。ただ妻が「面白いからやろう」って言ってくれて、あのときに、あれだけの金額を借りられたのが後の力になっていますね。助成金を受ける前に銀行を回ったんですけど、あの当時で、今でも同じだと思いますが映画館を作るなんて夢みたいなものですから、そこにはお金を出せないって話ですよ。最初は銀行の人も「若手の映画製作者のために場所を作るなんて、すごくいいことをしようとしてますよね。でも、そういう素晴らしいことは自分のお金でしてください」って言われたんです。

 

玉袋 ちょっと待ってよって話だ。

 

大槻 もう力が抜けちゃって。

 

玉袋 そこまで上げといてハシゴを外されちゃったんだね。

 

大槻 そこで逆にスイッチが入ったんですよ。そう言われるまでは自分の中でも「いいことをしたい」って甘えた気持ちがあったんです。

 

玉袋 実際いいことですよ。まだソロバンを弾いている感じがしないもん。

 

大槻 しないでしょう? スナックも書くと思いますけど、事業計画書なんてどう書いていいか分からないじゃないですか。実際、映画館をやる意味なんてあるのかってなっちゃったんですけど、そこで考え方を変えなきゃいけないなと。ちゃんと映画館でビジネスをしようと意識を変えたんです。

 

――それまではビジネスが二の次だったということですか?

 

大槻 映画館を作ることはいいことだ、が先にあったんですよね。今、若い人に向けて講師をすることもあるんですけど、そういう場所で学生さんとかに、映画館を作る際に「スポンサーを見つけたんですか」って聞かれるんです。でも、世の中にお金を出すだけのスポンサーなんていないんですよ。お金を出す人は口を出す。僕自身もそうですから。誰かが「映画を作りたい」と言ってきた場合、プロデュースをすることもありますけど、それは口を出します。作り手にお任せする奇特なスポンサーはいないですよ。なのでビジネス的なことも計算して、下北沢トリウッドを始めたのが1999年です。

 

玉袋 お! 2000年代問題だ。世紀末だしアンゴルモアの大王が降りてくる前にやっちまえと。

 

大槻 そうそう(笑)。それで下北沢トリウッドを始めて、2003年にポレポレ東中野を始めて。大変ですけど、今も両方やっているので、この生活が日常になりました。

 

――アメリカ留学のときに学んだことで、映画館でも活きていることはあるんですか?

 

大槻 アメリカの大学では映画のプロデュースを学んでいたので、脚本から演出、美術まで一通り学びました。一つのことに集中しなくていいけど、とにかく全てをかじりなさいと。そうしないと全体が見えてこないんです。最低限のことを知っておかないと、プロデューサーとしてお話ができないんですよね。そこは映画館を経営する上でも参考になったかな。

 

玉袋 ずっと映画は好きだったんですか?

 

大槻 そうですね。自主映画も作っていて、高校時代は「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」で上映されたりもしました。

 

――そのまま監督を目指そうと思わなかったんですか?

 

大槻 映画の作り手と聞くと監督を思い浮かべる人が多いと思うんですけど、プロデューサーも作り手なんですよね。同じように映画館も作り手、やっぱり演出が必要なんです。この時期に、この特集を組もうとか、この映画をやろうとか、わりと考えてやっていますので、それが評価してもらえたときはうれしいです。

 

ちっちゃい劇場には熱気と匂いがある

玉袋 俺も映画は好きで、本当にシネコンって素晴らしいと思うんです。でも俺はシネコン派ではないんですよ。どのシネコンで映画を観ても、作品の記憶は残るんだけど、街の記憶や匂いが入ってこない。それじゃあ物足りない。昔の映画館はロビーに関連グッズとか書籍がいろいろ売っていたけど、シネコンはそういうのが置いてなくて、ポップコーンを優先して売っている訳よ。これは映画館じゃないなと思っちゃって。映画を観に行くこと自体が祭りじゃない。観ることも祭りだし、帰るまでも祭り。そういう意味でも、シネコンには何かが足りないんだよね。ちっちゃい劇場には匂いがあって、かける作品からも匂ってくるんですよね。ぐーっと人が集まったときの、熱気もすごかった。昔、俺が通っていた「浅草東宝」でやってた毎月末のクレイジーキャッツ5本立てとか最高だったよ。

 

大槻 僕も「浅草東宝」に行ってましたよ。おにぎりとみそ汁が売ってるんですよね。

 

玉袋 あそこの熱狂度はシネコンと違う訳よ。そういう記憶をポレポレさんは掘り返してくれているなって感じます。

 

大槻 仰る通り、シネコンは観るという環境においてベストです。それは疑いようもない。じゃあ僕たちはどうするか、ですよね。東中野っていい場所じゃないですか。で、お客さんに聞くと「東中野なんて来たことがなかった」って人が多いんですよ。「映画目的じゃなきゃ東中野に来ないよね」と言ってもらえて、別に街のために役に立っているとは思わないんだけど、そういう言葉はうれしいですし、そういう存在にしたいです。東中野には、いろいろゴハンを食べるところとか、飲む場所がありますからね。

 

玉袋 ラブホもありますよ。あそこは昼休憩が安いんだ。14時から20時まで6000円だから穴場。あそこは有名人が行っても気付かれない(笑)。

 

大槻 東中野に映画を観に来るのは“ついで”じゃないんですよね。渋谷や新宿は、買い物やゴハンのついでに寄ろうとか、いい意味でついでができるじゃないですか。

 

玉袋 わざわざ足を伸ばすってことですよね。昔のプロレスで言うところの「密航者」だよ。要するに自分の生活圏からちょっと離れた繁華街じゃないところで、地味な試合だけど、それを観に行くんだっていうね。そこを耕してくれているのはうれしいですよ。だって今の子どもたちは映画を観に行くって言ったら、「シネコンに行け」になっちゃうじゃない。それで帰りにイオンのフードコートでメシを食ってさ、それでおしまいだもん。そういうベルトコンベアもいいんだけど、やっぱり面白くないわな。

 

大槻 そこにどう対抗していくかですよね。勝たなくていいんだけど、ミニシアターって言われるところは、そこを考えないといけないんですよね。逆に言うと、そこを考えていけばミニシアターはやっていけるんじゃないかな(笑)。

 

――東中野で映画館をやるにあたって、街歩きなどはしましたか?

 

大槻 最初の1か月は、何があって、どういう人がいて、どんな店があって、どこに人が集まるのか、とにかく東中野の街を歩きました。

 

玉袋 東中野にはいろいろあるからね。明大中野があって、東中野銀座通りがあって、貴乃花が子ども時代に食ったラーメン屋の「十番」があって、町中華の「大盛軒」があって、銭湯の「アクア東中野」があってね。

 

大槻 よく知ってますね!

 

玉袋 俺は高校が中野坂上の実践学園だったんです。だから当時は毎日、東中野を通ってたんですよ。

 

大槻 そりゃあ「アクア東中野」も知ってますよね。

 

玉袋 そうですよ。昔はせがれも「アクア東中野」に連れて行ってました。ちょっと前まで「west53rd日本閣」って立派な建物もあったし、スナックもいい店があるんだ。「あんぽんたん」って言うんだけど、あそこのママが最高でね。

 

大槻 ムーンロードも良かったですよね。

ムーンロードは東中野駅ホーム北口正面にある、昭和情緒溢れる飲食店街

 

玉袋 あそこも良かった!

 

大槻 たくさんいい店があったけど再開発で、ほとんどの店がなくなってしまいました。

 

玉袋 確かに街を愛さないと、こういうミニシアターはできないですよね。シネコンはチェーン店のファミレスなんだ。子どもからお年寄りまで全部楽しめる。こっちは完全に自分のところで暖簾を出している個人のラーメン屋さんと一緒だよ。

 

大槻 本当にそんな感じです。個人商店がいられる居心地のいい街なんです。僕はポレポレ東中野で文化を作りたいというより、映画を見せるお店屋さんをやりたいんですよね。街中にある食堂と同じことを、僕たちは映画でやっているに過ぎないんです。

 

玉袋 敵(シネコン)は巨大だけど、センターキッチンで作ったものを出しているだけ。こっちは手作りで仕込みからやっている訳じゃない。どの映画をかけるかとか、こういうお客さん好みの映画をかけるとか、その辺が店主というか館主の腕だからさ。ハリウッド超大作もいいけど、それはそれ。本当にここはいい匂いがしますよ。それが適した街が東中野ってところもいいんですよね。大江戸線も通っているから、意外と交通の便もいいのよ。新宿だって小滝橋通りから歩いて行けるんだから。いい運動だよ。映画を見終わった後の帰りに、駅にそのまま向かうんじゃなく、映画を反復しながら飲むこともできるし、反復しながらラブホに連れ込むこともできる。最高の立地条件ですよ。

 

――大槻さんが東中野で、よく行くお店はどこですか?

 

大槻 山手通りの内側にある東アジア料理屋の「パオ キャラヴァンサライ」、中華料理の「新楽園」。あと考え事をするときや、誰かと人に聞かれたくない話をするときは「ルーブル」という喫茶店ですね。

 

――東中野はここ十年ぐらいで、ムーンロードのように再開発で古くからのお店がなくなったり、駅ビルの「アトレヴィ東中野」やタワーマンションなどができたりしましたけど、それほど変わった印象もないですよね。

 

大槻 再開発されつつも、まだ昔からのお店も残っていますからね。

 

玉袋 確かに変わってるところは、ちょこちょこあるけど、全面的って感じはしないね。

 

大槻 新しいものと古いものが上手くミクスチャーされてかみ合っていますよね。

 

玉袋 突然変異じゃない、徐々に変わっているところがいいんだろうね。

 

新海 誠監督がシンボリックなアイコンになった

玉袋 で、借金は全部返せたんですか?

 

大槻 下北沢トリウッドを始めて10年で返したんですよ。

 

玉袋 すごい!

 

大槻 だから次のを借りてね(笑)。結局、返したら、また借りられますからね。

 

――すぐに軌道に乗ったということですか?

 

大槻 なかなか最初の2、3年は大変でしたけど、下北沢トリウッドで新海 誠監督がデビューしたので、それがシンボリックなアイコンになったんですよね。

 

――ポレポレ東中野で、新海 誠監督のようにアイコン的存在となった監督はいらっしゃいますか?

 

大槻 初期で言うと荒戸源次郎さんですね。2003年9月のオープン前から、「10月25日から俺の監督した『赤目四十八瀧心中未遂』を上映しろ」って本人に言われていたんです。なんで命令されるんだろうと思っていると、次は「絶対に賞を獲るから、年明けまではやれ」と言われて。そういうほら吹きの人って面白いじゃないですか。伝説の人ですし。

で、全部乗っていたら本当にその通りになっていって、結果的に9か月のロングランでした。当時の映画業界は、すでにロングランが難しくなってきて、できるだけ公開のサイクルを早くするようになっていたんです。そこで9か月やれたことで、いろいろ教わりましたよね。荒戸さんは毎日、舞台挨拶をするから、どうしてか聞いたんです。そしたら「映画は自分の赤ちゃんなんだから、よちよち歩きから手をかけるだろう」という答えで、なかなかいいことを言うなと。あのころは、荒戸さんや若松孝二さんと付き合っていましたので、まあ面白かったですね。ふたりとも亡くなっちゃいましたけど。

 

玉袋 そりゃ面白いわな。普通の人じゃないんだから。

 

大槻 玉袋さんも普通の人じゃないと思いますけどね(笑)。

 

玉袋 いやいや、俺なんて全然ですよ。ああいう人たちと付き合うと完全に巻き込まれちゃいますよね。ただ巻き込まれた人は、傍観者でもあり、語り継ぐ人でもあるんですよね。村西とおる監督に巻き込まれた本橋信宏さんなんて、まさしくそうで。リングサイドで観られたことは喜びでもあるしね。しかも、それが成功しているってのがいいですよ。

 

大槻 何事も中心地にいるのは面白いんですよね。

 

玉袋 とんでもなく被弾することもありますけどね(笑)。でも、そこの匂いがいい訳よ。人にも匂いがあるし、そういう人が作った作品からはぶわーって匂いが出てくるよ。

 

どんな映画でも本気で商売をする気があるかどうかが重要

玉袋 映画館でかける作品を選ぶのって、市場に行ってチョイスするようなもだと思いますけど、やっぱり楽しいものですか。

 

大槻 すごく楽しいですよ。おかげさまで上映してほしいって希望者がたくさん来るんですよ。それを観て、まず美味しいかどうか、つまり面白いかどうかを判断しますよね。本当に市場と一緒なんです。

 

玉袋 目利きができないとダメだね。

 

大槻 わりと節穴なんですけど(笑)。映画を観た後は作り手と話すんです。本当に商売ですよと。面白くても、我々はご褒美として映画館でやりますよってことじゃないんですよと。我々も映画のみによって稼いでいる訳だから、これがこけたらこうなる、このぐらいの売り上げが必要なんだということは腹を割って話します。それで「ちょっと……」って引く人もいますし、「頑張る!」って言う人もいるし、そこで正式にやるやらないを決めます。かといって、すごくお金のあるところが、「じゃあお金を払いますから上映してください」っていうのも違うんですよね。本当にいろいろなパターンがあるんです。

まずは最低限の面白さですよね。別に傑作じゃなくても構わない。その次に、その人たちが本気で商売をする気があるかどうか。本当に見せたいと思っているのか。よく若い人が「無料(ただ)でいいから」って言うんですけど、「無料だからって君は行く?」って聞くんです。無料なら来てくれるだろうって考えるのかもしれないけど、普通は行かないじゃないですか。どうやってお金に代えていくか真剣に考える人たちとやっていきたいんですよね。

 

玉袋 たとえば、よくポレポレさんで上映している東海テレビのドキュメンタリー映画はどういう経緯で上映することになったんですか? 『ヤクザと憲法』が話題になりましたけど、あれは大きな波紋になったと思います。

 

大槻 なりましたね。東海テレビさんは最初に持ってきたのが戸塚ヨットスクールだったんです。

 

玉袋 『平成ジレンマ』ですね。

 

大槻 そうです。確かに面白いんだけど、地方とはいえテレビ局さんはお金がありますよね。すごく変な言い方ですけど、我々が普段付き合っている若手やドキュメンタリー監督と比べるとお金があると。そこでプロデューサーの阿武野勝彦さんに、「3本作ると約束してくれたらうちで上映します」とお伝えしたんです。この1本が面白くて、たまたま当たるかもしれないし、当たらないかもしれない。でも、それを日常にしていかないと、1本で終わってしまってはツマらないんです。せっかくテレビ局と一緒にやるんだから、3本やるのが条件。別に僕もケンカを売った訳じゃないんです。

 

玉袋 それで信頼関係ができるってことですからね。

 

大槻 ビジネス的な安定供給を求めている訳ではなくて、3本撮る覚悟が見たかったんですよね。映画というものを会社の一つの事業としてやっていくんだという覚悟です。そしたら3本どころか十何本やったんだから大したものですよね。10本目が『人生フルーツ』で全国的に大ヒットするというご褒美もありました。ちゃんと続けることを実践した彼らはすごいですよ。

 

玉袋 若いお客さんはけっこう来るんですか?

 

大槻 年配の人に連れられて来る場合もありますけど、わりと若い人は来るんですよ。このあいだ面白かったのが中学生からメールが届いて、「ミニシアターの状況があまり良くないと言われていますが、学校の課題で調べているのでお話を聞かせてもらえませんか」ということで、取材を受けたんです。その後、出来上がった課題がメールで届いたので読んでみたら、すごく真っ当なことや文献からの引用などは書かれているんだけど、そこで止まっている印象で。「君の考えがないね」と。「君はミニシアターに来て映画を観たことがあるのか。1回観ただけでも君の書くものは変わるはずだ」って伝えたんです。余計なお世話かもしれないけど。そしたら大島 新監督の『なぜ君は総理大臣になれないのか』を観に来てくれて。その後に「ものすごく面白かったです。お客さんも多かったし。こういう場なんですね」という感想が届きました。

 

玉袋 いいじゃないですか。真珠で言えば大事な核入れ作業ですよ。微力なんだけど、そういうこともやっていかないとね。こういうことが面白いって思ってくれる若い人が生まれるなんて嬉しい仕事じゃない。

 

大槻 そうなんですよ。大メジャーのようにしたい訳じゃなくて、ポレポレ東中野の規模でもいいから、映画業界に入る人たちをちゃんと耕していかないといけないなっていうのは一つ役割としてありますね。

 

玉袋 最後に臭い話ですけど、大槻さんの夢を聞かせてもらえますか? 夢というか目標というか、まだまだ我々は働き盛りの50代ですから。上から受けたバトンを下に渡す年齢でもありますしね。

 

大槻 さっきもお話しましたが、あんまり文化活動とは思っていないんですよね。みんなが好きなこと、得意なことで稼げる社会にしたいんですよ。大儲けはしなくていい。それを僕は映画という分野でやろうと思っているので、みんなもそう思ってくれれば嬉しいですね。好きなことをやれれば貧乏でもいいって考え方がありますけど、僕は学生時代からそれが絶対に嫌だったんです。もちろん、そこには成功も失敗もあります。そこはフェアですし、みんなが成功することを夢見る社会にしたいですね。

 

 

玉袋筋太郎

生年月日:1967年6月22日
出身地:東京都
1987年に「浅草キッド」として水道橋博士とコンビを結成。
以来、テレビ、ラジオなどのメディアや著書の執筆など幅広く活躍中

一般社団法人全日本スナック連盟会長
スナック玉ちゃん赤坂店オーナー(港区赤坂4-2-3 ディアシティ赤坂地下1階 )

<出演・連載>

TBSラジオ「たまむすび」
TOKYO MX「バラいろダンディ」
BS-TBS「町中華で飲ろうぜ」
CS「玉袋筋太郎のレトロパチンコ☆DX」
夕刊フジ「スナック酔虎伝」
KAMINOGE「プロレス変態座談会」

TAG
SHARE ON