いまや、至るところで目にするようになった「断捨離」という言葉。最初に提唱し、著書やテレビ・雑誌などのメディアを通じて広く一般化させたのが、現在「クラターコンサルタント」(クラターとは“ガラクタ”を意味する英単語clatter)として活躍している、やましたひでこさんです。そんな正真正銘、断捨離の“生みの親”が日々思うこととは何なのか? 「断捨離とは、自分とモノとの距離感を意識すること」など、断捨離の真意については以前の記事で確認いただくとして、ここでは日常における、断捨離にまつわる気づきをしたためたエッセーをお届けします。断捨離によって暮らしや心も良い方向へ変化していく、そのヒントが見つかるかもしれません。
「妻と夫の居場所」
久しぶりに、我が根城のマンションで断捨離に励むこの数日。
あらためて、時間の経過とともに、関係の質が変化していることに気づかされる。
関係の質の変化。つまり、よく使っていたこのキッチンアイテムも、似合っていたはずのこのワンピースも、お気に入りだったこのコーヒーカップも、よくよく眺めてみると、今は使うこともなく、どこかしっくりせず、どうやら飽きてしまったようで。
そんな感覚が湧いてくるモノたちが、そこかしこに。
そうだ、こんなモノたちとのお別れの時期が来ているこのところ。
ところで、今回、心して断捨離に取り組んだモノは、紙系の中でも資料の類。これら、懸命に集め頑張って勉強したことの証拠品は、ついつい留め置き溜め込んでしまうものですね。
その溜め込む自分の心の内を探っていくと、やはり、少なからず懐旧の念に出逢うもの。
そうですね、このノスタルジアは存分に味わいつくし、それからお別れ。
だって、今は、その時とは別の自分がいるから。それに、過去の自分を、今、埃にまみれた資料の類で証明する必要など、どこにもないと思うから。
さてさて。
私、やましたひでこのもとに、さまざまに寄せられる悩みや相談。ほとんどが女性からではあるのだけど、最近は男性からも多くなり、その内容がたいていパートナー問題であるのです。つまり、夫婦の問題。
やましたは、基本的に、ずっと女性の味方、妻の味方で通してきたけれど、どうやら、そう言ってはいられなくなったよう。
そうですね、かつては、夫の不機嫌に、じっと息を潜め続けてきた多くの妻の立場に、それこそ、おおいに同情し憤慨してきたけれど、自己主張の激しい妻の不機嫌に、心穏やかではいられない夫たちも多いのですね。
まったく物事は、片面だけ見ていて論じるわけにはいかないし、総論で一括りにするには無理がある。
夫婦の関係とは、家庭とは、
半分は癒しであり、半分は戦い。
半分は協調であり、半分は不協和音。
半分は主張であり、半分は受容。
そんな極を行ったり来たりしながら、互いの「テリトリー」のバランスを保っていくもの。
私はそうなんふうに思うのだけど、どうでしょう。
ところで、妻の「テリトリー」の主張の仕方が、とても興味深いのです。もちろん、当の妻本人は、それに無自覚ではあるのですが。
家を徹底的にキレイに片づけて、夫の侵入を阻止する場合と。
家を散らかし放題にして、夫の帰巣本能を萎えさせる場合と。
前者の妻の場合は、夫が家にいると、部屋は散らかる、家が片づかないと愚痴を重ね、後者の妻は、夫は仕事ばかりで家にちっとも帰ってこないと不満を募らせる。
実のところ、「キレイ&愚痴」派の妻も、「散らかり&不満」派の妻も、根っこは同じ。
どちらの妻も淋しいのでしょうね、きっと。自分をわかって欲しくて、けれど、それが素直に言えなくて。しかも、自分の都合の良いように夫にわかって欲しいと期待しているから、自分の「テリトリー」の確保に執心するのです。
そこがなんとも厄介!
そして、どちらの場合も、間違いなく、家には夫の居場所がないのです。物理的な居場所もなく、当然のことながら、心理的な居場所もなくて。
居場所がない辛さ。
ここに自分の居場所はないと感じている夫と、ここは自分の思い通りどおりの居場所でないと思っている妻と。
そんなそれぞれが、時に、ダンマリを決め込むせめぎ合いを、あるいは、時に激しいバトルを、展開しているのが家という空間。
そこに漂う気は、不全感という残念なそれ。
さて、あなたはどんな立場にある妻で、あなたはどんな情況にいる夫でしょう。
住空間とは、妻と夫が高い密度で空間と時間を共有するところ。だからこそ、せめて余計なモノは取り除いて、清々しい空間にしておきたい。
そう、荒み淀んだ空間は、妻と夫の関係をストレスフルにしても、けっして、和気藹々なそれに誘うことないのだから。
※「断捨離」はやましたひでこ個人の登録商標であり、無断商業利用はできません。
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