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2022/6/9 18:30

生誕500年。「千利休」から学ぶ、現代を豊かに暮らすためのヒントとは?

2022年に生誕500年を迎えた千利休(せんのりきゅう)。茶の湯の大成者として知られます。自らの感性を注ぎ込み“趣向”を凝らした茶会を、生涯で1000回以上開いたという利休。その感性と生き方は、究極のミニマリズムととらえることもでき、現代を生きる私たちが豊かに暮らすためのヒントにもなるはずです。

 

茶道研究家の筒井紘一さんに、利休独自の茶会が誕生した経緯や、利休の美意識が感じられるエピソード、私たちが今こそ学ぶべきことなどを教えていただきました。

 

道具を持っていないコンプレックスから、利休の“趣向”が生まれた

歴史の教科書などにも掲載され、広く知られている茶人、千利休。ところが「皆さんによく知られているのは、亡くなるまでの約20年間の利休。利休のことを深く知るためには、彼の出自から知るべきだと思います」と、筒井さんは話します。

 

「千利休は、1522年に堺で生まれました。当時の堺は南蛮貿易などによって発展し、“東洋のヴェニス”とも呼ばれていた都市。商売が盛んなこの場所で、利休の家は祖父の代から魚屋を営んでいました。

利休は10代後半から茶を習い始めますが、ライバルとなる同世代の茶人が2人いました。それが今井宗久(いまいそうきゅう)と津田宗及(つだそうぎゅう)です。利休も含めたこの3人は、のちに『天下三宗匠』と呼ばれ、偉大な茶人として名をはせることになります。ライバルである今井と津田も、利休と同じく商家の出身でしたが、この2人と利休の家柄には大きな違いがありました。今井宗久は、日本ではつくれない黒火薬や鉄砲の商売を成功させ、一代で成り上がった人物。さらに千利休の師である茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)の娘婿でもありました。武野紹鴎は豪商でもあったため、今井は茶の道具を手に入れるのに困らなかったでしょう。そして津田宗及は、古くから中国との貿易で財を築いてきた、伝統ある家の生まれでした。津田家では代々お茶をやってきたこともあり、今井と同じく道具に不自由しなかったと考えられます。

しかし、利休はどうでしょうか? 魚屋は、武器を売る商売と比べると利益は少ないでしょうし、他と比べると伝統ある家とも言えません。さらに、利休の父親は利休が19歳のときに亡くなっており、茶をやっていたかどうか定かではありませんが、おそらく家には茶の道具がなかったと思われます。利休はこれに対して当初は相当なコンプレックスを抱いていたはずです。しかし、道具がないからこそ、利休は茶に対する“発想力”で勝負をしようと考えた。こうして利休は、誰にも真似することができない趣向(工夫と、それによって生まれる趣き)を凝らした茶を極めていくことになるのです」(茶道研究家・筒井紘一さん、以下同)

 

“2幕のドラマ”である茶会で、利休が客に見せたものとは?

家柄に恵まれず、茶の道具を自由に手に入れることができなかった利休。だからこそ、当時の常識にとらわれない、発想力を活かした茶会を行うことができました。利休が茶会で見せた具体的な趣向について聞く前に、そもそも茶会とはどのようなものなのか、筒井さんに教えていただきました。

 

「茶会とは、約4時間かかる“2幕のドラマ”だと思ってください。1幕目では、食事(懐石料理)をいただきます。その後はいったん休憩をはさみますが、このときに茶会の主人は、演劇で舞台のセットを変えるのと同じように、茶席を少し変化させます。そして2幕目で、いよいよお茶をいただきます。出されるお茶は濃茶と薄茶の2種類。ちなみに1幕目と2幕目は、だいたい同じくらいの時間がかかります。これが基本的な茶会です。

言ってしまえば茶会は、食事をしてお茶を飲むだけの会。『日常茶飯事』という言葉があるように、食べることもお茶を飲むことも日常の出来事です。しかし約4時間の茶会の中で、日常とは離れた『別世界』を感じられるのが、茶の面白さ。日頃から命をかけて戦っている武将たちは、茶会を通して一瞬の心の安らぎを得ようとしていたのかもしれません。私は利休が開いた茶会には、参加した客がこれまで感じたことのない安らかな気持ちを得たり、『また行きたい』と思わせたりするような魅力があったのではないかと考えています」

 

「利休が開いた茶会の中で、彼の趣向がうかがえるエピソードを紹介します。利休は40歳くらいのときに、初めて“花入れ”(花を生ける器)を購入しました。その花入れは、口が細い『鶴首』と呼ばれる形で、かねでできた高級なものでした。ある茶会で利休は、この花入れを床に飾っていましたが、花は生けられていなかった。招かれた客はこれを見て、『花を忘れていますよ』と利休に伝えたことでしょう。しかし利休は、忘れていたわけではありません。花入れに水だけを入れ、『花はお客様の心の中で入れてもらおう』と考えていたのです。

この出来事は、利休の茶会の様子を残した茶会記の中に記されています。利休はこの趣向をとても気に入っていたようで、この後も茶会に招いたさまざまな客に対して行っていたようです。今のようにSNSで拡散されるようなこともありませんから、利休の茶会を知らない客たちは皆、この趣向にとても驚いたと思います。利休はその他にも、漁師たちが持っていた魚籠や、水筒代わりに使われていたひょうたんなどに着目し、花入れとして使ったこともありました。

これらのエピソードからは、利休は自分の花入れではなく、自分の趣向を客たちに見せたかったこともうかがえます。茶会記を読んでいると、利休のライバルである今井や津田の茶会は、『いかに良い茶碗や茶入れを使っていたか』という道具の顔が見えるのですが、利休の茶会では利休自身の顔が見える。私はそこが、利休のすごさのひとつだと感じています」

 

権力者に仕えても変わらなかった利休の美意識

さまざまな趣向を凝らして茶会を開いてきた利休は、50歳頃から織田信長や豊臣秀吉といった時の権力者に仕え、重用されるようになります。利休はこの頃から、中国製の最高級の茶入れを使うようになるなど、使用する道具が大きく変わっていきました。

 

しかし「利休の生き方はずっと変わらず、生涯ぶれることはありませんでした」と筒井さん。利休が、晩年も一貫して自分の美意識を貫いていたことがわかるエピソードがあります。

利休が小田原城攻めの際につくったとされている竹の花入れの一つ。東京国立博物館所蔵 伝千利休作「竹一重切花入 銘 園城寺」画像出典=「国立文化財機構所蔵品統合検索システム ColBase」

 

「1590年、利休は小田原城に攻め入る秀吉に同行します。秀吉は何か月もかけて敵を追い込むため、戦の間でも暇な時間がありました。そのため秀吉は、利休のような茶人をはじめ、能楽師や踊り子などを戦に連れて行ったといいます。利休も茶会を開かなければなりませんでしたが、戦にたくさんの茶道具を持って行くわけにもいきませんでした。そこで利休は秀吉のために、竹を切って3つの花入れをつくるという趣向を行ったとされています。しかしその中には秀吉が気に入らず、投げ捨てられてしまった花入れもありました。

この一年後、利休は秀吉に切腹を命じられたと言われています。真相はわかりませんが、小田原城に攻め入ったときにはすでに、秀吉と利休の間には埋めることができない溝があったのだと思います。しかし利休は、最後まで自分の美意識を貫き、趣向を続けたのです」

 

物を“持たない”より、物を選び抜き、工夫して使うこと

堺市博物館所蔵

 

私たちは今、利休の生き方からどのようなことを学ぶべきなのでしょうか? 最後に、筒井さんにお聞きしました。

 

「利休はけっして、『茶の道具がなくてもいい』と考えていたわけではありません。なぜなら、茶碗や茶入れなど、必要最低限の道具がなければ、そもそも茶道はできないからです。たんに物を持たないことをよしとするのではなく、自分が『面白い』と思う道具を選んだり、誰も思いつかないような使い方をしたりする。そうやって“趣向をする”ことこそが、利休の茶のあり方であり、生き方でした。

今の時代を生きる私たちも、日常生活の中でさまざまな道具を使っています。その中で、例えば、色のついたガラスを店で見つけたときに、『これは夏にぴったりだな。何かに使えないかな』と思うのか、何も感じずにスルーしてしまうのか。前者のように考えられるほうが、豊かに生きることにつながるのではないでしょうか。自分が日々使う道具を、金額で選ぶのか、人から言われたものを選ぶのか、それとも自分の感性にしたがって選ぶのか。それによって私たちの暮らしは変わってくると思います。

感性を磨くために私が大切だと考えるのは、古くからある日本の文化を学ぶことです。日本の四季や風景を詠んだ歌、心の機微を描いた物語などから、日本人がこれまでずっと大事にしてきた感性を知ることができると思います。文学だけでなく、能楽、狂言、歌舞伎、伝統行事など、日本の文化はたくさんあります。もちろん茶道もそのひとつです。利休が生誕500年を迎えた今こそ、『故きを温ねる(ふるきをたずねる)』ことを思い出してほしい。先を見るばかりではなく一度立ち止まって、日本で古くから大切にされてきた感性に触れてみてほしいと思います」

 

【プロフィール】

茶道研究家 / 筒井紘一

茶道研究家、文学博士。今日庵文庫長、茶書研究会会長、一般社団法人文化継承機構代表理事などを務める。『利休の茶会』『利休の懐石』(KADOKAWA)、『茶書の研究』(淡交社)など著書多数。

 


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