【夕張支線の現状③】夜明けとともにホテルから夕張駅を目指す
さて、駅から予約を入れたホテルへ行こうと思った。しかし夜道、さらに雪がちらつくなか1.2kmの距離を歩くのはつらい。駅前にタクシーは止まっていない。まあ何とかなるだろうと思い、駅前の食事処へ入る。
お店の人に「夕張駅にはタクシーがないのですか?」と聞いたら、「あぁ、夕張駅はもうタクシーが常駐してないから」との答え。ここでまた“えっー!”という感じになった。
ところが、夕張の人は親切だった。「いいわ! 食べ終わったらウチの人に送らせるから」。ここでまた“えーっ!”に。親切心に甘えて、送ってもらうことにした。
車中でハンドルを握るご主人といろいろな会話を楽しんだが、夕張支線がなくなることに関して「まあ廃線は悲しいけれど、人が減ってしまっているし、しょうがないだろうなぁ」と半ば諦め顔だった。
翌朝、やや早く起きて駅へ向かう。到着した夜に見渡せなかったのだが、街中は雪で真っ白に。地元の人たちが早朝から雪かきに追われている。
夕張は四方を山に囲まれている。そのために雪が多い。最深積雪量は150cm前後になる。この冬は、特に雪が多いのだそうだ。上の写真は道道38号線の歩道なのだが、すぐ横を通る道路が左手にあるが、雪の壁にはばまれて見えない。場所によっては雪が200cmを越えて降り積もっているように感じた。さらに最低気温は12月から3月にかけてマイナス20度近くまでに下がる。
まさに北海道の言葉で言えば“しばれる”寒さのなか、ホテルから駅へ歩く。ちょうど道の左手はかつて多くの貨車が停められていた夕張駅構内あたりだろうか。雪に覆われて全景を見渡すことができないが、採炭された時代はさぞや活況を見せていたことだろう。華やかな時代に夕張へ一度訪れてみたかった。
【夕張支線の現状④】夕張駅発の始発も乗るのは鉄道ファンのみ
夕張駅の始発列車は7時8分。駅前のホテルに泊っていた旅行客が列車にカメラを向けているものの、乗車する人はわずか。筆者と、こちらも鉄道ファンらしき2人のみだった。
さすがに朝は乗る人がいるでしょう、と予想していたのだが甘かった。
小説や映画でおなじみの「鉄道員(ぽっぽや)」も北海道の終着駅が舞台だった。夕張支線の駅はすでにみな無人駅となっているが、高倉健さんが演じた至高の鉄道マンが今にも出てきそうな趣だった。
夜に雪が舞っていたものの、ホームや線路の上の雪は始発列車が走る前までには、きれいに片づけられている。日々の鉄道マンの奮闘ぶりには頭が下る思いだ。
定刻の7時8分に静かに出発。次の鹿ノ谷駅を目指す。夕張駅が南に移動したこともあり、隣駅までは1.3kmしかない。同じ町内にある駅といった印象だ。
鹿ノ谷駅はかつて、北海道炭磺汽船夕張鉄道線が合流していた駅だが、そうした面影は残っていない。この鹿ノ谷駅で地元の人が1人乗車する。
次の清水沢駅までは6.6kmとやや距離がある。路線の左手、丘の上に「幸福の黄色いハンカチ想い出ひろば」がある。映画の「幸福の黄色いハンカチ」の舞台となった五軒長屋の炭鉱住宅が残されている。
さらに走ると平行して旧トンネルや橋脚の跡が残っている。夕張鉄道の開業以降に、輸送量が減ったことで、国鉄夕張線を複線から単線へ改めたその名残だ。
【夕張支線の現状⑤】新夕張駅に到着した時の乗客は8人のみ
清水沢駅で1人が乗車、鉄道ファンを含めてもここで乗客は5人となった。
さらに南清水沢駅で3人が乗る。新夕張駅の一つ手前の駅の沼ノ沢駅で3人が乗車。鉄道ファンを除けば8人が乗り込み新夕張駅へ到着した。
平日の7時台に走る列車なのに、通学する学生の姿を1人も見かけなかった。現在、夕張市内の学校は統廃合が進み小中高校とも1校のみとなっている。さらに学生たちはみなスクールバスを利用している。住んでいる地域が分散し、広い。さらに、本数が少ない列車での通学を勧めるのが難しいという現実がある。
下り最終列車と上り始発列車に乗車したが、いずれも夕張駅〜新夕張駅間を通して乗る地元の利用者は皆無。改めてかなり厳しい現状であることが分かった。
JR北海道から出された数字がその厳しさを物語る。1kmあたりの輸送密度の推移を見てみよう。
1975(昭和50)年当時は2318人だった。その後、1985(昭和60)年には1187人まで減った。近年となると数字はさらに厳しく2016年には80人までに落ち込んでいる。
当然ながら収入は上がらず、平成28年度の収入およそ1000万円に対して、1億7600万円の経費がかかっている。つまり100円稼ぐのに1760円かかる計算になる。
ところで、なぜこのような状況に夕張支線は落ち込んだのだろう。ここでいくつかの数字を見ながら整理していきたい。