【左沢線の秘密③】城の東大手門のすぐ前を列車が走り抜ける謎
山形駅を発車してまもなく左手に城跡が見えてくる。旧山形城趾で、現在は霞城公園として整備される一角だ。
山形城の歴史は古い。築城は14世紀半ばのこと。足利氏の支流だった最上氏によって造られ、江戸時代の初期までは最上氏が治めた。その後、鳥居氏、保科氏と藩主は短期間で代わっていき幕末を迎えている。
それにしても城の目の前を線路が通っている。ここまで近くを線路が走るという風景は珍しい。敷設時に史跡を壊すという怖れがなかったのだろうか。
最盛期の山形城は東西に1.6km、南北に2kmという広大な三の丸を持ち、外堀に囲まれていた。城の規模は国内で5番目、東北では最大を誇ったとされる。
規模を誇った山形城だったが、幕末当時の藩主・水野氏が新政府軍に抵抗したこともあり、城は荒れ果てた状態になった。その後、明治期には陸軍の駐屯地として使われていた。
山形駅は1901(明治34)年の開業で、山形城の三の丸の中に造られた。その年に、奥羽本線(左沢線)の線路が現在の位置に敷かれた。1986(昭和61)年にようやく国の史跡に指定され、さらに1991(平成3)年に二の丸東大手門が復元されるなど整備が進められた。
要は史跡を守る意識が高まる前に、すでに駅ができ鉄道が通されていたのである。当時は史跡を守るという意識は薄かったのだろう。ましてや山形藩は、新政府にタテをついた“賊軍”でもあったのだから。そうした歴史的な背景が、これほどまで城に近いところを列車が走るという、奇異な光景を造り出した要因なのかも知れない。
【左沢線の秘密④】ちょっと不思議な北山形駅までの複線区間
山形駅と北山形駅の区間、ちょっとおもしろい線路の使われ方に接することができる。この区間は複線なのに列車は左側通行をしていない。具体的には城側の線路が仙山線と左沢線の上り下り列車用、市街側の線路は山形線の新幹線つばさと在来線列車の上り下りが走る。
なぜだろう? この区間は複線でもそれぞれ線路幅が異なる。城側の線路は1067mm幅、市街側の線路は1435mmの標準軌幅となっている。よってその線路幅を走れる列車しか行き来できない。
ちなみに秋田新幹線の線路では、三線軌条といって、3本のレールを敷き、新幹線と在来線(狭軌用)が共用できる区間を造ったが、山形駅〜北山形駅間では、このような3本レールは敷かれる区間を設けなかった。そのために複線区間なのにこのような運用方法となったのだ。
在来線の線路と新幹線が走る標準軌幅の線路が並んで敷かれる複線区間は、山形駅のお隣、北山形駅まで続く。北山形駅手前で、左沢線は左へカーブ。まっすぐ延びる線路上には奥羽本線(山形線)と仙山線のホームがある。左沢線のホームはカーブの途中に位置する。
北山形駅は乗換駅となっていて、利用客も多い。