おもしろローカル線の旅45 〜〜福島交通飯坂線(福島県)〜〜
福島駅と福島市の郊外にある飯坂温泉駅を結ぶ福島交通飯坂線。9.2kmの路線ながら開業して95年と古い歴史を誇り、「飯坂電車」そして「いい電」と市民に呼ばれ親しまれてきた。
今回は「いい電」の興味を引くポイント、俳人の松尾芭蕉も訪れたとされる古湯・飯坂温泉の大正・昭和期の貴重な絵葉書をまじえつつ、秘められた過去、気になったバス停など、寄り道しながらローカル線の旅を楽しんだ。
【いい電の秘密①】やや複雑な福島交通飯坂線の歴史を振り返る
福島交通は、バス運行業がメインで福島市を中心に路線バスの運行、高速バスの運行を行う。鉄道路線は現在、飯坂線のみだ。飯坂線の概要は次の通り。
路線と距離 | 福島交通飯坂線/福島駅〜飯坂温泉駅9.2km |
開業 | 1924(大正13)年4月13日、福島飯坂電気軌道が福島駅〜飯坂駅(現在の花水坂駅)を開業、1927(昭和2)年3月23日、飯坂温泉駅まで路線を延伸 |
駅数 | 12駅(起終点を含む) |
大正期から昭和初期にかけて生まれた私鉄路線にありがちなケースなのだが、社名、そして運行会社名が変転する例が多い。この飯坂線もまったく同じだった。まずは飯坂線を作った会社の社名の移り変わりを見ると。
飯坂軌道(創業当時)→福島飯坂電気軌道(路線開業当時)→飯坂電車と、1921年から1924年の間に2度も、社名を変更している。さらに、1927(昭和2)年10月1日には、福島電気鉄道という会社が飯坂電車を合併している。
飯坂電車を合併した福島電気鉄道とはどのような会社だったのだろう。福島電気鉄道こそ、現在の福島交通の元になる会社だ。この福島電気鉄道も創業当時の社名ではない。創業時は信達軌道(「しんたつきどう」、または「しんだつきどう」)という名称で、1908(明治41)年に福島市内に路面電車を走らせた会社だった。
明治から大正の間、全国の軌道線が新興財閥の傘下に入る例が目立った。信達軌道も同様で大日本軌道という会社の傘下となり、同社の福島支社の路線となる。この大日本軌道という会社は、雨宮敬次郎という資本家が経営していた。この雨宮は「投機界の魔王」とも呼ばれ甲州財閥を率いた。中央本線が甲府を目指すにあたって、路線を大きく塩山に向けてカーブするように仕向けた張本人ともされている。
その後の1911(明治44)年に会社を率いた雨宮が亡くなったことにより、各支社は独立色を強めていく。大日本軌道福島支社も同様で、1918(大正7)年に独立、再び信達軌道という社名に改めた。その後に福島電気鉄道、さらに1962(昭和37)年に福島交通と社名を改めている。
福島交通はその後に、“東北の政商”とも呼ばれた小針歴二が「福島交通グループ」を造り上げたが、多角経営がたたり、その後に自己破産。2000年代に入り会社更生法の適用を申請、現在は持株会社の傘下に入り、経営の立て直しを図っている。荒波に揉まれ続けた歴史が潜んでいる。
【いい電の秘密②】市民に飯坂電車、いい電として親しまれる
飯坂線は開業当初は「飯坂西線」と呼ばれた。ということは「飯坂東線」があったわけだ。この路線の紹介は後述したい。
こうして飯坂温泉への足として重宝がられた福島交通飯坂線。市民には「飯坂電車」「いい電」という愛称で親しまれる。
新型の1000系電車には、正面のヘッドマークに「いい電」と大きく描かれている。福島交通としても「いい電」という名前を強くアピールしていこうとする姿勢が感じられる。
【いい電の秘密③】元東急電鉄からの車両が多くを占めてきた
いい電の電車はすべて元東急電車で占められている。1000系(元東急1000系)が導入される前は、7000系で、こちらも東急電鉄の7000系だった。
いい電の過去の車両を見ても、1960年代、70年代に取り入れられた自社発注の車両を除けば、3300系(元東急3300系)、5000系(元東急5000系)と元東急電鉄の車両の利用が目立った。
ちなみに東急電鉄の1000系は、昭和から平成にかけて製造された車体の長さ18m、3トビラ構造の車両で、現在も東急電鉄の池上線・多摩川線で運用がされている。
改造された東急1000系は上田電鉄(長野県)、伊賀鉄道(三重県)、一畑電車(島根県)と各地で活躍している。
首都圏や京阪神の私鉄では20mという長さの車体を持った車両が主流を占めている。
その一方で、地方私鉄では、やや短めの車両が好まれている。東急1000系は、車体の長さが18mの車両で、地方私鉄の希望にあった希少な車両となっている。さらに東急電鉄の関連会社に各鉄道会社の用途に合うように改造して納入してもらえる。こうしたメリットも、元東急1000系が各地の私鉄で多く導入される要因となっているのだろう。
【いい電の秘密④】直流電車と交流電車が隣り合わせ福島駅を発着
前置きがやや長くなったが、路線の模様を見ていくことにしよう。
発車は福島駅。福島交通の乗り場は駅の北側にある。JR東北本線、東北新幹線とは連絡通路で結ばれているものの、ややわかりにくい。
独自の入口から入る場合は、福島駅の東口を外に出て、駅前を北に向かう。バスが発着するロータリーの前に、いい電の乗り場入口がある(下写真)。簡素な造りで、「電車のりば」という表示がとてもレトロな趣だ。
いい電の乗り場は、写真を見ておわかりのように第三セクター鉄道の阿武隈急行線と共存している。
ユニークなのは1本のホームに一方は飯坂線が、JR東北本線に面した側に阿武隈急行線のホームとなっていること。実は、この2路線。電化方式が異なっている。飯坂線は直流1500ボルト。阿武隈急行線は交流20000ボルトだ。
阿武隈急行線の線路は、駅の先でJR東北本線の線路と合流する。JR東北本線の一部区間を共用しているだけに、JR線と同じく交流電化されている。
こうした直流と交流の電車が隣合わせながら、同一のホームを利用するというのは、非常に稀なこと。全国的に見て、ここのみでないかと思われる。
直流と交流という違う種類の電車が同居する。鉄道ファンとしては、なかなか興味深い駅ホームの形態である。とはいえ、外から見ただけでは、阿武隈急行線の電車のパンタグラフ付近に碍子(がいし)がごてごてと付いているぐらいと、そう違いがあるわけではないのだが。
【いい電の秘密⑤】福島市のシンボル信夫山をかすめて走る
福島交通飯坂線の路線は全線が単線で、桜水駅などの途中の駅で上り下り電車の交換がある。時刻は朝夕が15分間隔、日中は20〜30分間隔で運行されている。福島駅へ着くと、すぐに折り返し運転されている電車が多い。
駅間は短く、最短の岩代清水駅〜泉駅間で300m、遠くても美術館図書館前駅〜岩代清水駅間、医王寺前駅〜花水坂駅間の1.3kmといったところ。つまり隣駅まで、歩けてしまう距離に駅が連なる。
福島駅を出ると次の駅の曽根田駅(そねだえき)。ここまで600mの距離だ。この曽根田駅は、太平洋戦争前後に「電鉄福島駅」と名乗り、いい電の玄関口だった。そのためかターミナル風の駅舎が残る。ちなみに、JR東北本線の路線はすぐ横を平行して走っているが、曽根田駅、次の美術館図書館前駅とも、いい電のみ駅が設けられ、JR東北本線には駅がない。このあたり、いい電は市内線、そして近郊線の役割を果たしているといって良いだろう。
曽根田駅の次は美術館図書館前駅と非常に長い名前の駅だ。降りてみると、住宅地の中にある駅といった印象。小さな入口と連絡通路、小さめのホームと、コンパクトにまとめられている。駅名どおり福島県立美術館と福島県立図書館にも近い。
美術館図書館前駅を過ぎると、進行方向右側に小高い山がそびえる。この緑の一帯は、信夫山(しのぶやま)と呼ばれる。信夫山は福島市のシンボル的な存在で、標高275m、福島駅からも見えているのがこの山だ。
桜の名所でもあり、春には多くの花見客で賑わう。この信夫山をかすめるようにいい電は走り、間もなく、JR東北本線の線路を陸橋で越える。
【いい電の秘密⑥】今やこの駅のみ「岩代国」にちなむ駅名が残る
JR東北本線を越えたいい電は、しばらく盛土を走り、右に緩やかなカーブを切り、次の駅、岩代清水駅へ到着する。
この岩代清水駅。今となっては珍しい駅名なのだ。
岩代清水駅に付く「岩代」という地名。元は「岩代国」という地方区分された地名を元にしている。かつて「岩代」という地名は、岩代清水駅以外に、磐越西線の岩代熱海駅(現在の磐梯熱海駅)といった駅にも付けられていた。また磐越西線の始まりが岩越鉄道であったように、岩代国を元にした名前がちらほらみられた。岩代(現在の二本松市の一部)という町もあった。
ところが、岩代と付く駅名は今はやこの岩代清水駅のみとなっている。岩代国は福島県の西部地域の呼び名で、現在ほとんど忘れられ、使われなくなっているようだ。この岩代国、実は明治元年に設けられた国の名前。それまでこの地方は会津藩、二本松藩、梁川藩(やながわはん)などのいくつかの藩に分かれていた。
つまり戊辰の役後、明治政府によって付けられた地域の名前で、当初は使われていたものの、浸透していないようだ。裏には戊辰の役で、敗れてしまった側の思い、お仕着せの地方名は使うまい、という思いもあったのではなかろうか。
【いい電の秘密⑦】平行して走る道路名は県道「福島飯坂線」
岩代清水駅を発車したいい電。線路の左側に片側一車線の道路がほぼ平行して走るようになる。
この道路、県道(主要地方道)3号線で、福島市街と飯坂温泉を結ぶ地域では重要な道路だ。いい電と並走する区間は飯坂温泉駅の手前、花水坂駅まで。6kmに渡って県道に沿って延びる。
地元の人たちには「飯坂街道」の名で呼ぶ県道3号線。「福島飯坂線」という名前でも呼ばれる。いい電は正式名が福島交通飯坂線だから、非常に似通った名前で呼ばれているわけだ。
その県道3号線の横にある桜水駅。この駅には車両基地と検修施設がある。今は常時、走っていない7000系も、2両1編成が停められていた。
路線距離9.2km中の6kmという3分の2の区間を県道3号と並走することもあり、この区間の風景は似ている印象。沿線は郊外の住宅街が点在し、そして一部に田畑が広がる。医王寺前駅を過ぎて、小川を渡れば飯坂温泉も近い。
路線開業当時の終点駅、花水坂駅を過ぎ、電車は右カーブをきり、飯坂温泉駅へ入っていく。駅ホームは摺上川沿いにある。駅の玄関口は階段を上がった上にある。駅前広場には温泉に立寄ったとされる松尾芭蕉の像も立つ。
【いい電の秘密⑧】摺上川沿いに宿が並ぶ新旧風景を見比べる
いい電の終点駅、飯坂温泉駅。駅前からすでに温泉街が始まっていて、温泉情緒が楽しめる。
飯坂温泉の起源は古くは日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征までさかのぼるとされる。12世紀に西行法師も立寄ったとされる古い温泉地だ。
温泉街には共同湯が点在、湯治場として賑わった。明治後期に、飯坂温泉へ鉄道が通じたことで、より身近な温泉地として訪れる人が増えた。かつての温泉街の情景は古い絵葉書で偲ぶことができる。
ここでは現在の温泉街の代表的な風景と、大正・昭和初期の絵葉書と見比べてみよう。
ゆるやかにカーブする摺上川沿いに温泉街が建ち並ぶ様子は飯坂温泉の代表的な風景として親しまれてきた。
下は、約90年以上前の大正から昭和初期と推測される摺上川沿いの光景だ。3〜5階建ての木造の宿が、ぎっしりと建ち並ぶ。川には小舟も係留されている。
現代と比べると、建物は近代的なビル建築と様変わりしているが、建物を写し出す摺上川のゆるやかな流れは、100年たっても変わりないことがおもしろい。
【いい電の秘密⑨】芭蕉も浸かった鯖湖湯の新旧風景を見比べる
飯坂温泉は、古くは「鯖湖の湯」と呼ばれた。その名もずばりの名が付いた共同湯「鯖湖湯(さばこゆ)」が温泉街の中にあり名物となっている。
1869(元禄2)年には松尾芭蕉もこの湯にはいったとされていたとされる。日本最古の木造建築の共同浴場でもあった。
建て替えられたのが平成になってからとはいえ、木造の古い姿を再現した湯屋造りの共同湯があるのは何とも魅力的なところ。ただし鯖湖湯に使われる源泉温度は51度と高めで、やや冷ましているとはいえ、ぬる湯好きにはちょっと厳しいかもしれない。
【いい電の秘密⑩】飯坂温泉に「湯野駅」というバス停を発見
さて飯坂温泉へ行ったら、ちょっと寄ってみたいところがある。摺上川の東側一帯は、かつては湯野町だった。1964(昭和39)年に福島市に編入されているが、前述した古い絵葉書が「湯野村温泉場」とあったのは、そのためだ。
そしてこの温泉街の南側には、湯野駅という鉄道の駅があった。実は「湯野駅」というバス停が今も残っていた。
この湯野駅まで、どのような電車が走っていたのだろう。いい電には湯野駅という駅はないはずだが。
実はこの駅こそ、福島交通の起源にもなっていた信達軌道の駅の跡だったのだ。信達軌道は、飯坂線よりも早い1908(明治41)年に湯野駅までの路線を開業させていた。その後に福島交通の路線となり、軌道線、もしくは飯坂東線を名乗った。
路線は、福島駅の東口を起点に、市街を走り東北本線の路線と平行、伊達駅付近を通り湯野駅まで走った。東は阿武隈川を渡り、現在の阿武隈急行線が走る梁川(やながわ)まで路線が延びていた。
飯坂温泉の発展は、飯坂線よりも先に開業した信達軌道が、大きく貢献していたわけである。さら飯坂線が開業したことにより、40年以上にわたり、現在のいい電にあたる飯坂西線と、路面電車の飯坂東線の2本の路線により、福島駅から温泉客を運んだ。
しかし、路面電車は時代に合わなくなっていく。車時代の到来とともに徐々に電車の運行に支障が生ずるようになっていった。利用客が減っていき、まず1967(昭和42)年9月16日に、湯野駅と伊達駅近くの聖光学院前の路線が廃止された。その後、1971(昭和46)年4月12日には全線廃止となった。
現在となっては、バス停の表示のみが、福島駅から飯坂温泉まで路面電車が走っていた証しとなって残っている。
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