【弥彦線の秘密②】只見まで路線延長を計画していたって本当?
弥彦線の路線の敷設は、弥彦神社(彌彦神社=正式には「いやひこじんじゃ」と読む)への参拝客の取り込みを目指したのにほかならない。越後線経由で新潟方面から、そして東三条駅(路線開業当時は一ノ木戸駅)に乗り入れて、信越本線経由の参拝客の利用を増やそうとしたのだった。
ところが、東三条駅に乗り入れまではわかるとして、その2年後には越後長沢駅へ路線を延伸させている。この越後長沢駅、いまでこそ三条市内となっているものの、当時は旧下田村の鄙びた場所にあった。
越後鉄道は、予算不足で新潟市内を流れる信濃川に橋を架けられなかったことなど課題があり、先行きが危ぶまれる経営状態でもあった。
このような状況のなかで、なぜ東三条駅から先に路線を延ばしたのだろうか。
越後長沢駅まで路線を延ばした理由は、なんと福島県の只見まで路線を作る計画があったからだった。
えっ只見! と思ってしまう。只見へは今でこそ、上越線の小出駅から只見線が走っている。この路線も大変な難路で、開通までに巨額な費用がかかった。しかも、太平洋戦争後だいぶたち、トンネル掘削の技術などが向上したからこそできあがった路線だった。
地図を見てみる。東三条からは南東に国道289号が延びている。越後長沢駅もこの国道289号沿いにある。しかし、国道289号は三条市内の山中で途切れ、今も福島県との県境部分には道路がない。
この県境部、八十里越と言って、大変な難路。只見線沿いの国道252号は県境部分を、六十里越と呼ぶ。険しい峠道そのものだが、それ以上に険しいと言われる。現在、国道289号は県境部分に道路を通すべく、工事が進められていて、2022年度には結ばれる予定とされている。
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現代の技術を要してようやく、峠越えが可能になったルートである。果たして当時の越後鉄道の経営陣は、この八十里越の険しさを知っていて、計画を立てたのだろうか。むしろ、一般投資家から資金を募るために、“無謀”な路線計画を打ち出したのではないのだろうか。
さらに、越後長沢駅まで路線を延ばしたわずかその2か月後に国有化されたのだった。越後線を含め、経営が立ちゆかなくなり国有化を働きかけた。こうした一連の動きはきな臭ささえ感じる。国有化され、買収されたことで、経営者たちはある程度の資金を回収できたのであろう。後の時代に生きる者としては矛盾を非常に感じてしまう話でもある。
国有化後は、前回の越後線の原稿でも紹介したように、「越後鉄道疑獄」として政界まで巻き込み、政党政治の混乱を招く自体にまでに発展している。
ちなみに東三条駅〜越後長沢駅間は、太平洋戦争の戦時下には不要不急の路線として休止され、線路も取り外された。その後に営業を再開、1985(昭和60)年3月末に廃線となっている。
利用客が少なく不採算が続いたものの、太平洋戦争後も40年近く路線が保たれたことにも違和感を覚える。
地元の方々や、利用者にとっては、いたたまれない話であり、文字にするのも申しわけない話で恐縮だが、弥彦線の“不遇”はまだ続く。
【弥彦線の秘密③】越後線と同じく直接ちょう架式で電化された
昭和初期に国有化された弥彦線。その後、非電化の時代が続いたが1984(昭和59)年になり電化された。
しかし、1980年代といえば、国鉄の経営悪化が顕著となった時期。越後線とともに電化工事が行われたが、越後線と同じように、経費削減を念頭におかれて工事が進められた。
そのため現在のJRの路線としては珍しい「直接ちょう架式」という電化工事が多くの区間で採用された。
前回の越後線の記事と重複する部分があるが、念のため紹介しておこう。
直接ちょう架式は、パンタグラフがすりつけるトロリー線が1本というシンプルな形の電化方式のこと。主に路面電車など、スピードが抑えられた鉄道で使われている。
構造がシンプルで、コストを抑えられる反面、パンタグラフがすり付けるトロリー線に、どうしても高低差が出てしまいがちで、集電能力が低い。
ちなみに、通常の鉄道路線で使われているのは「シンプルカテナリ式」と呼ばれる方式で、トロリー線の上にちょう架線が張られ、トロリー線との間をハンガーに支えられている。
越後線も弥彦線も、直接ちょう架式とシンプルカテナリ式が組み合わされ電化されているが、直接ちょう架式区間の限界に合わせて、最高時速が85kmに抑えられている。