おもしろローカル線の旅50 〜〜上田電鉄 別所線(長野県)〜〜
北陸新幹線の上田駅と別所温泉駅を結ぶ上田電鉄別所線は、11.6kmという短い私鉄の路線である。この路線、今でこそ短めの路線を持つ地方私鉄ながら、調べていくと非常に興味深い歴史を持つことがわかった。
沿線を歩いてみても、発見がふんだんにあった。そんな上田電鉄別所線の新たな魅力発見の旅に出かけた。
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【別所線で発見①】上田一帯にはかつて鉄道網が広がっていた
まず下の地図を見ていただきたい。大正期から昭和期にかけて上田市の周囲に敷かれていた鉄道路線図である。わかりやすいように、各路線に色付けしてみた。
現在のしなの鉄道線や、上田電鉄別所線以外に、青木線、西丸子線、丸子線、北東線(後の「真田傍陽(さなだそえひ)線」)と多くの路線が敷かれていた。
上田市一帯は、かつて大鉄道網が広がっていたのである。
かつて鉄道路線が敷かれていた、その面影を偲ぶことができる場所が意外なところに残されていた。
戦国時代に真田一族が築いた上田城。ちょうど城趾(現・上田城趾公園)に入る東側に二の丸の堀の跡がある。長くくぼ地になっていて、今は遊歩道として使われている。こちらこそ上田交通・真田傍陽(そえひ)線の線路が敷かれていた跡だったのだ。
上田駅周辺に敷かれた私鉄路線の距離は総計56.5kmにもなる。これはJR高崎線に当てはめれば、上野駅から吹上駅に至るまでの距離とちょうど同じだ。かなり長い距離となる。
青木線の廃止が早かったため、同時期に全路線があったわけではない。しかし、当時、上田丸子電鉄と呼ばれた最盛期の路線距離が48.0km。現在の4倍以上の路線距離を有していたのだから、現在の路線との差に驚かざるを得ない。
【別所線で発見②】上田電鉄までの会社の推移をたどってみる
現在の上田電鉄になるまでの同会社の系図を作ってみた。まずは「丸子鉄道」という会社と、「上田温泉軌道」という2つの会社から歴史が始まる。
上田温泉軌道は、上田温泉電軌(地元では「上田温電」の名で親しまれた)、さらに上田電鉄(現在と同じ会社名だが、古い「上田電鉄」は一代目とされる)と名前を変えつつ、太平洋戦争中に丸子鉄道と合併、上田丸子電鉄という会社になる。
1960年代に入り、丸子(旧丸子町、現在の上田市丸子地区)へ向かう西丸子線と丸子線が相次ぎ廃止となったことから、上田交通という名前になった。上田交通という会社名は今も残り、不動産業を中心に営業活動を続けている。上田電鉄は上田交通の鉄道事業部門が独立して生まれたものだ。
【別所線で発見③】東急グループの創始者が青木村の出身だった
上田電鉄は、現在、東急グループの一員となっている。東急グループは全国にグループ会社が224社5法人(2019年4月現在)と多い。その中で、鉄道事業者は東京急行電鉄、そして伊豆急行、上田電鉄の3社のみだ。
東京急行電鉄はグループの根幹企業であるし、伊豆急行は、東急グループが伊豆半島の観光開発に力を注いだことから生まれた鉄道事業者だった。
さて長野県の私鉄企業が、どうして東急グループの一員となったのだろう?
上田電鉄がまだ上田丸子電鉄という社名だった1958年11月4日に東急グループの一員となっている。グループの一員となってから結構長い。
実は当時、東急グループを率いていたのは五島慶太だった。東京急行電鉄の事実上の創業者である。戦前戦後、鉄道界の率いた傑物と言って良いだろう。この五島慶太の故郷が上田市のお隣にある青木村だった。
青木村へは1938(昭和13)年まで青木線が走っていた。五島慶太も、故郷へと走る鉄道の恩恵を感じていたことだろう。そうした思いが自らのグループの一員として上田丸子電鉄を迎え入れたのではないのだろうか。
ちなみに上田丸子電鉄が東急グループとなった、その9か月後の1959年8月14日に五島慶太は亡くなっている。自らの故郷、青木と上田には恩返ししたいという気持ちが少なからずあったのかも知れない。
【別所線で発見④】1972年以降は別所線のみの運営になった
さて、上田電鉄に関わる歴史話が長くなったが、現代に話を戻そう。
上田電鉄別所線の概要を見ておきたい。
路線と距離 | 上田電鉄別所線/上田駅〜別所温泉駅11.6km |
開業 | 1921(大正10)年6月17日、上田温泉電軌により青木線の三好町駅(みよしちょうえき)〜上田原駅〜青木駅間と、川西線の上田原駅〜別所駅(現・別所温泉駅)が開業。1924(大正13)年に千曲川鉄橋が完成し、国鉄上田駅に乗り入れ、現在の別所線が全通 |
駅数 | 15駅(起終点を含む) |
開業したころの別所線は、三好町駅〜上田原駅間を青木線、上田原駅〜別所温泉駅間を川西線としていた。その後、青木線が廃止された翌年の1939(昭和14)年には、上田駅〜別所温泉駅間の路線名を別所線と変更している。
かつては48.0kmにも及ぶ路線を運営していた上田丸子電鉄だったが、次々に路線を廃止され、上田駅から北へ向かう真田傍陽線も1972(昭和47)年に廃止。とうとう、残る路線は別所線のみとなった。
以来、路線の廃止がたびたび話題となり、また社名の変更はあったものの、地元、上田市や利用者の手篤いサポートや応援もあり、開業以来100年近い年月を走り続けている。
【別所線で発見⑤】路線がクランク状になった理由を振り返る
上田電鉄別所線の路線図を見ると、上田原駅と下之郷駅の2か所で大きく折れ曲がっている。その形は折れ曲がったクランクの形に近いと言っても良い。
さてどうして、このように折れ曲がったちょっと不自然な形の路線となっているのだろう?
すでに触れてきたように、かつて上田原駅では青木線と、下之郷駅では西丸子線と接続していた。青木線は上田原駅から現在の国道143号の上を走る併用軌道線として青木村へ向かっていた。西丸子線は下之郷から南へ、田園の中を走り丸子へ向かっていた。
別所線はもともと、青木線の支線として、さらに下之郷駅で西丸子へ路線を延ばすことを念頭に路線が敷かれた。その後に両線が廃止された。両線が消えたことにより、こうしたクランク状の形をした路線のみが残されたのだった。
西丸子線の分岐駅だった下之郷駅。西丸子線が走っていた当時の施設が一部に残されている。駅の入口に残るホーム跡は、西丸子線用のホームだったところだ。
この旧ホーム上に小さな建物が立つが、壁には「上田丸子電鉄」という旧社名が掲げられ、駅の名前を右側から記した、つまり文字にすると「うごのもし」となる、戦前の案内標も残されていた。
【別所線で発見⑥】走る元東急電鉄の車両を確認しよう
東急グループの一員ということもあり、現在、上田電鉄を走る車両はすべてが元東急の車両だ。東急電鉄の車両を、東急グループの一員、東急テクノシステムが、別所線用に改造した上で、入線している。
主力は1000系電車で、東急でも1000系だった車両だ。東横線で活躍した後、池上線、東急多摩川線に移り、今も主力車両として活躍している。
1000系は車両の長さが18mと短めで3扉車。地方私鉄では使い勝手が良いのだろうか。上田電鉄以外にも伊賀交通、福島交通、一畑電車など多くの私鉄で走り続けている。
1000系の後に導入されたのが6000系。この6000系も元になった車両が東急の1000系だ。しかし、正面の形が少し異なっている。6000系は、東急1000系の中間車を改造したためだ。ちなみに6000系には「さなだどりーむ号」という愛称が付く。
このように現在の上田電鉄の車両は1000系と6000系の2種類だ。一応、2018年5月まで走り続けた人気の車両も、ここで記しておこう。上田電鉄7200系で、こちらも東急電鉄で7200系として走った車両だった。
7255・7555という車両番号の編成が最後となったが、この車両は引退したものの廃車とならず、現在は千葉県内の保育園の園内で保存されている。
【別所線で発見⑦】駅なかに焼鳥屋がある上田駅から旅が始まる
さて、だいぶ寄り道が長くなった。ここから別所線の旅を進めることにしよう。上田電鉄の駅の入口は、しなの鉄道と改札口と同じ、上田駅の南北自由通路沿いにある。この入口にはおしゃれな暖簾がかかる。
おもしろいのは駅なかに焼き鳥店があること。日中に旅することが多い筆者にとって、焼き鳥店が夕方からの営業となっていてちょっと残念だった。もしこの沿線の住民だったら、帰り道、つい寄り道してしまいそうな駅の造りである。
暖簾をくぐり駅構内へ。自動販売機で1日まるまるフリーきっぷ1180円を購入する。ちなみに上田駅〜別所温泉駅の片道運賃が590円。往復した金額と同じになるわけで、途中下車するとしたら、フリーきっぷを購入した方が断然お得となる。
上田駅の単線ホームに入線してきたのは1000系。赤色帯の東急オリジナル色の車両だった。折り返す電車から降りてくるのは、夏休みのせいか若い世代が多かった。
上田駅には10分ほど止まり発車する。週末の日中ということもあり乗客は少ない。なお、上田駅発の下り電車は、朝晩のみ途中の下之郷駅行きがあるものの、日中はほぼ別所温泉駅行となる。電車の間隔はほぼ20〜30分間隔で、地方私鉄としては便利だ。
高架上の上田駅を発車した1000系電車は、駅を出たらすぐに左カーブ、そのまま市内の高架上を走る。
そして千曲川上にかけられた赤い鉄橋を渡る。千曲川といえば、新潟県に入ると信濃川となる大河である。上田市付近は、それほどの川幅はないものの、前日の雨のせいか、川の流れは濁り、また水量も多かった。
川を渡った次の駅は城下駅(しろしたえき)。上り下り行き違いが可能な構造の駅で、この駅で上り下り電車の行き違いすることも多い。
さらに三好町駅、赤坂上駅と市街地の中の駅が続く。路線は単線だが、この区間、線路の幅にゆとりがある。その昔、青木線が走っていたころの名残だ。一部が複線だったため、今はその複線区間の線路が外され、空き地として残される。
【別所線で発見⑧】下之郷駅で大事に保存される車両は?
上田原駅は元青木線との分岐駅。この駅を発車した電車はほぼ90度近くに折れ曲がるカーブを走る。キッ、キッという車輪のきしみ音が、急カーブであることを教えてくれる。上田原駅を発車すると、次第に左右に田畑が見えるようになる。
寺下駅を過ぎれば塩田平と呼ばれる河岸段丘上の平坦な地形となり、進行方向右手に独鈷山などの山並みが見えてくる。神畑駅(かばたけえき)、大学前駅と過ぎれば、下之郷駅だ。このあたりまで来ると郊外の趣が強くなる。
下之郷駅には上田電鉄の車庫がある。本線に沿って車両点検用の検修庫が建てられている。この裏に銀色の車両が停められている。車両の正面にカバーで覆い大切に保管されている。さてこの車両は何だろう?
銀色の車両は上田電鉄5200系。元東急でも5200系とされた車両だ。この5200系は日本の鉄道車両の中で記念碑的な電車でもある。
今から60年ほど前の1958(昭和33)年、外板にステンレス鋼を使って造られた日本初の車両だった。骨組みとなる柱は普通鋼で、その柱を骨組みにしてステンレスの外板をつけた、後の世で言うセミステンレス車両でもあった。
記念碑的な車両であったが、試験的な意味合いで造られたこともあり4両しか造られなかった。
そのうち3両(1両は部品取り用)が、東急電鉄を走った後の、1986(昭和61)年に上田にやってきた。上田電鉄では1993(平成5)年まで走り続けたが引退、1両は東急に戻され、現在は総合車両製作所横浜事業所(旧・東急車輌製造横浜製作所)内で保存されている。ちなみに渋谷駅のハチ公前に設置された元東急5000系(初代)も、かつては上田電鉄で働いていた車両だ。東急グループの一員であるため、こうして歴史的な車両が使われることも多かった。
【別所線で発見⑨】地方駅の典型的な光景が中塩田駅の前に広がる
下之郷駅を発車すると、上田原駅と同じように急カーブ。田園地帯が広がり、また独鈷山などの山並みを望む塩田平(しおだだいら)の中を走る。沿線でもっとも絵になる区間だ。
次の駅は中塩田駅(なかしおだえき)。洋風のハイカラな建物で、建築された年は明確でないものの、上田電鉄を代表する駅でもある。ところが、上田電鉄(上田交通時代)には駅の補修までには手が回らずで、一時期、荒れ果てた状態となっていた。
その状態を憂いた上田市を中心に2009年に改修工事が行われ、今ではきれいな姿の駅となっている。
中塩田駅は美しく直されていた。ところが駅周辺には大きめの商店が数軒立っているのだが、どの商店も閉じられていた。風格ある店構えで表には「○○百貨店」と記された店もあった。かつて駅前は人々で賑わい○○百貨店で、その日の夕食の素材を買い物して、という人もいたのだろう。
クルマ社会となり地域の姿がすっかり変わってしまったことを物語る光景。中塩田駅も駅前を通る県道は、ひっきりなしにクルマが通るのだが、駅はひっそりと静まり返り、乗り降りする人も非常に少ない。地方を走る鉄道の難しさを物語る光景に出会った。
【別所線で発見⑩】何もない駅ではない! 密かに人気の八木沢駅
とりあえず終点までの間に、もう一駅下りてみようかなと、と選んだのが別所温泉駅の一つ手前の八木沢駅(やぎさわえき)だった。ホームに下り立つと目の前に広がる田園風景と、その先に山々が見えてすがすがしい。
建物内には広めの待合室がある。駅の出入り口は駅前通りへまっすぐ下りず、階段を斜めに下りて出入りするという、ちょっと風変わりの駅だった。
形は風変わりだが特段、目に付くようなものは何もない駅だった。待合室で一時過ごしていると、クルマに乗った若い男性が駅前にクルマを停めて駅中に。構内を見て回りしきりに写真を写している。
あれれ? 何かあるのかな、と思い駅の中からだけでなく外も見てまわる。駅舎を外から撮影しょうとすると。
2015年に改修された八木沢駅。駅の入口には丸い形の赤い郵便ポストが設けられる。駅舎は華やかなミントカラーに塗られ、ベンチにはハートマークが彫り込まれていた。
さらに「八木沢まい」(鉄道むすめのキャラクター)が駅名標に描かれている。八木沢まいという名前は、この八木沢駅と、隣の舞田駅(まいたえき)を合わせたものだそうだ。若い男性はこのキャラクターが描かれた、駅名標を撮りに来ていたというわけだった。
前述のハートマーク付きベンチは「ハートベンチ」と名付けられていた。ホーム上には「恋愛成就 鍵架け場」がありこんな文句が書かれていた。「♥ハートベンチ♥に座ったら2人の絆をロックしませんか?」。そして“鍵架け場”とされた金属ネットにはいくつかの鍵がかけられていた。
こうした物語が浮かび上がるような駅づくりも、これからの鉄道の生き方なのかも知れない。とはいえクルマで訪れ、駅前に駐車、写真を撮ったらすぐに帰ってしまう若者が見かけられた。電車に乗って訪れてこそ、価値があるのではないだろうか。
さてキャラクター八木沢まいの物語は、次の別所温泉駅へと続くのである。
【別所線で発見⑪】和装の制服に袴姿の観光駅長が出迎える
ひと駅前の八木沢駅から乗車。終点の別所温泉駅を目指す。ここから電車は坂を上り始める。平坦だった塩田平が終わり、傾斜地を登りはじめた。
八木沢駅からの登り坂は40パーミル。1000mの間に40m上がるという急坂だ。かつて使われた旧型車両はこの坂でスピードが出せず、ゆっくりゆっくりと登っていったそうだ。
そして別所温泉駅へ電車が到着した。ここでうれしいお出迎えがある。和装の制服に袴を着た女性の観光駅長が乗客を出迎える。
和装制服に袴といえば……。そう! 八木沢駅の駅名標にあった「八木沢まい」ではないか。鉄道むすめシリーズのホームページによると、八木沢まいの肩書きは別所温泉観光協会・別所温泉駅駅長なのだそう。「家は地元の温泉旅館」で、「『まるまど』からの景色が大好き」とある……。なるほどねえ。
鉄道むすめというキャラクターと、現実の世界が、この駅でリンクしていたわけだ。現実に存在する駅長さんは、2人の観光駅長さんが交代で勤務、日中(窓口業務は9〜17時)には乗客の送り迎えをしているので、上田電鉄を乗車した時の、お楽しみとしていただきたい。
さて肝心の別所温泉だが。別所温泉駅から別所温泉の中心へは徒歩で10分ほどのところにある。ただし、温泉へはやや登り道が続く。
このような観光地の駅に訪れ、常に感じることは駅から歩こうという人が非常に少ないこと。筆者が訪れたのは真夏ということもあったのだが、徒歩10分という距離を歩く人はまれ。旅館の送迎バスに乗り込む姿が多く見られた。
クルマで目的地に向かうことは確かに楽ではある(筆者ももちろんだ)。とはいえ、見落としてしまうことも多いように感じる。歩いてこそ、電車に乗ってこそ発見できることが多い。それこそ、これが旅の醍醐味。見落としてしまうということは、非常に惜しいように思えるのだが、いかがだろう。
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