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2019/8/18 18:00

乗って歩けば魅力がいっぱい!「上田電鉄別所線」で見つけた11の発見

おもしろローカル線の旅50 〜〜上田電鉄 別所線(長野県)〜〜

 

北陸新幹線の上田駅と別所温泉駅を結ぶ上田電鉄別所線は、11.6kmという短い私鉄の路線である。この路線、今でこそ短めの路線を持つ地方私鉄ながら、調べていくと非常に興味深い歴史を持つことがわかった。

 

沿線を歩いてみても、発見がふんだんにあった。そんな上田電鉄別所線の新たな魅力発見の旅に出かけた。

 

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↑上田電鉄別所線は、塩田平(しおだだいら)と呼ばれる、千曲川左岸に広がる河岸段丘の上の平坦地を走る。電車が走る塩田平からは独鈷山(とっこざん)などの美しい山々を望むことができる

 

 

【別所線で発見①】上田一帯にはかつて鉄道網が広がっていた

まず下の地図を見ていただきたい。大正期から昭和期にかけて上田市の周囲に敷かれていた鉄道路線図である。わかりやすいように、各路線に色付けしてみた。

 

現在のしなの鉄道線や、上田電鉄別所線以外に、青木線、西丸子線、丸子線、北東線(後の「真田傍陽(さなだそえひ)線」)と多くの路線が敷かれていた。

 

上田市一帯は、かつて大鉄道網が広がっていたのである。

 

↑かつて上田駅周辺に多くの私鉄路線が設けられていた。その多くはマイカーが普及し始めた1970年代までに廃止されてしまった。しなの鉄道と、赤いラインの別所線以外は、今はすべてがバス路線となっている

 

かつて鉄道路線が敷かれていた、その面影を偲ぶことができる場所が意外なところに残されていた。

 

戦国時代に真田一族が築いた上田城。ちょうど城趾(現・上田城趾公園)に入る東側に二の丸の堀の跡がある。長くくぼ地になっていて、今は遊歩道として使われている。こちらこそ上田交通・真田傍陽(そえひ)線の線路が敷かれていた跡だったのだ。

 

↑上田城趾の二の丸橋がかかる下を1972年まで上田交通・真田傍陽線が走っていた。現在は遊歩道となり道路横に公園前駅のプラットホームの跡が残る。二の丸橋の下には鉄道用の電線を張ったと思われる碍子(がいし)などの設備が残っている(写真右上)

 

↑二の丸橋を渡り公園内に入ると、上田城の入口にあたる東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)がある。門の左にあるのが南櫓で、右に立つのが北櫓。この北櫓の下には真田石と呼ばれる伝説の大きな岩が残されている

 

上田駅周辺に敷かれた私鉄路線の距離は総計56.5kmにもなる。これはJR高崎線に当てはめれば、上野駅から吹上駅に至るまでの距離とちょうど同じだ。かなり長い距離となる。

 

青木線の廃止が早かったため、同時期に全路線があったわけではない。しかし、当時、上田丸子電鉄と呼ばれた最盛期の路線距離が48.0km。現在の4倍以上の路線距離を有していたのだから、現在の路線との差に驚かざるを得ない。

 

 

【別所線で発見②】上田電鉄までの会社の推移をたどってみる

現在の上田電鉄になるまでの同会社の系図を作ってみた。まずは「丸子鉄道」という会社と、「上田温泉軌道」という2つの会社から歴史が始まる。

 

上田温泉軌道は、上田温泉電軌(地元では「上田温電」の名で親しまれた)、さらに上田電鉄(現在と同じ会社名だが、古い「上田電鉄」は一代目とされる)と名前を変えつつ、太平洋戦争中に丸子鉄道と合併、上田丸子電鉄という会社になる。

↑現在の上田電鉄まで至る会社名の推移を図にした。上田電鉄では丸子鉄道の創立が会社創業としている。とはいえ実は後発の上田温泉電軌という会社が現在の別所線を開業させている

 

1960年代に入り、丸子(旧丸子町、現在の上田市丸子地区)へ向かう西丸子線と丸子線が相次ぎ廃止となったことから、上田交通という名前になった。上田交通という会社名は今も残り、不動産業を中心に営業活動を続けている。上田電鉄は上田交通の鉄道事業部門が独立して生まれたものだ。

 

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