【亀戸線秘話③】亀戸線は開業当時、立派な本線扱いだった
開業した亀戸線は、前述したように亀戸駅から両国橋駅まで列車が走った。当時のターミナル駅だった両国。一方、東武伊勢崎線の始発駅だった吾妻橋は今と異なり不便だった。
当時は亀戸線が本線扱いで、曳舟駅〜吾妻橋駅間は支線だった。利用者が見込めなかったこともあり、吾妻橋駅は亀戸線が開業した日に営業休止となる。以降、数年にわたり曳舟駅〜吾妻橋間は貨物列車や回送列車のみが走る路線となった。
亀戸線が誕生した1900年代初期、日本の鉄道は国有化に揺れていた。1906(明治39)年の3月31日に鉄道国有法が公布され、翌年にかけて、全国17社の路線が国有化された。
当初は17社以外に、東武鉄道などの私鉄15社を国有化する案も検討されていたが、法案が修正され、東武鉄道は国有化を免れている。
亀戸線が開業した当時、東武鉄道と総武鉄道(現・総武本線)は非常に親密な関係で、両国橋駅への乗り入れが成立した。ところが1906年に総武鉄道が国有化されてから雲行きが怪しくなっていく。国有化後も両国橋駅への乗り入れが続けられていたが、1910(明治43)年3月27日に乗り入れが終了してしまう。そして旅客列車の出発は亀戸駅からとなった。
一方の営業休止していた吾妻橋は、ちょうど同じ日に旅客駅として復活、浅草駅(旧駅)と名称を変更した。駅前から路面電車が隅田川を越えて都心へ走るようになり、ターミナル駅として機能するようになっていく。
開業してからわずか6年で立場が逆転してしまった。以降、伊勢崎線が本線、亀戸線は支線となった。旅客列車以外に、亀戸線を利用しての貨物輸送は続いていたものの、1926(大正15)年に、新小岩駅(総武本線)〜金町駅(常磐線)間を結ぶ貨物線・新金貨物線(しんかねかもつせん)が造られたことから、貨物列車も亀戸線を通っての利用が無くなり、総武本線と連絡する線路も廃止された。
ちなみに、東武伊勢崎線は1931(昭和6)年5月25日に、隅田川橋梁が誕生し、現在の浅草駅(当初は浅草雷門駅)まで乗り入れを果たしている。
【亀戸線秘話④】東京大空襲で亀戸線沿線は壊滅状態に
亀戸線の列車は開業当時、蒸気機関車が客車を牽く旅客列車が主体だった。1924(大正13)年10月1日に伊勢崎線の浅草駅〜西新井駅間が電化された。追って1928(昭和3)年4月15日には亀戸線全線が電化されている。
電化されたことで蒸気機関車時代よりも、列車の運行がよりスムーズとなり、小村井駅(おむらいえき)などの途中駅が多く設けられた。
さて、亀戸線の歴史で忘れてはいけないのが、やはり太平洋戦争の惨禍だろう。ボーイングB-29を使って行われた、高高度からの無差別絨毯爆撃により、隅田川流域は壊滅状態となる。焼夷弾により、下町は焼き尽くされた。
特に1945年3月10日未明の「東京大空襲」により、死者8万3793人、負傷者4万918人。焼失家屋26万7171軒に及んだ(『墨田区史 前史』より)。
東武鉄道の施設や車両も痛手を被り、伊勢崎線、亀戸線の線路焼損、亀戸駅など複数の駅の建物やホームが消失した。さらに業平橋駅(旧・吾妻橋駅)付近では電動車9両、付随車6両、蒸気機関車11両、貨車48両が全焼している。
当時の東武鉄道の社員は「よくここまで破壊しつくされた」と感じたそうだ。(『東武鉄道百年史』より)
こうした状況を調べていくうちに暗澹たる思いがした。やはり戦争は2度としてはいけないと切に願う。
亀戸線に乗車し、また沿線を歩いてみたが、亀戸駅付近よりも、曳舟駅近くの方が、細い小道が多く残り、より下町らしい印象だった。
史書によると、曳舟駅付近は、東京大空襲の際に風の流れが変り、また亀戸線が防火帯の役割を果たしたことで、曳舟駅や町が一部は消失を免れたのだという。亀戸線の沿線でも曳舟駅近くに小道が残っている理由なのかも知れない。