【亀戸線秘話⑩】亀戸駅の旧東口を示す石碑が人知れず立つ
亀戸線の曳舟駅から乗車すること約8分。終点の亀戸駅に電車が到着した。
終点の亀戸駅近くで不思議な石碑を見つけた。亀戸駅の東側、亀戸線のホームも見える亀戸線第22号踏切。踏切の周辺は自転車置き場などに利用されている。踏切の傍らに、小さな石碑が立っていた。さて……。
踏切の横には「亀戸駅東口出札所完成記念」と刻まれた小さな石碑が立っていた。同踏切付近にはすでに改札はない。碑には昭和33(1958)年とあった。念のため古い地図を見てみると、国鉄の亀戸駅(東武鉄道の亀戸駅の位置は変わらず)が戦後の一時期、現在の位置よりも東にあったことが確認できた。
どのような理由で、この東口出札所が設けられ、また廃止されたのだろう。亀戸は、第二精工舎(現・セイコーインスツル)の工場があった街でもある。太平洋戦時中には諏訪に疎開したものの、戦後に製造を再開した。そして亀戸工場は、昭和30年代以降に活況を見せる。場所は亀戸駅の東南、国道14号・京葉道路沿いにあった。東口出札所を使えば、すぐ南の工場の前へ行くことができ便利だっただろう。この第二精工舎は1993(平成5)年に亀戸工場を閉鎖したこともあり、現在はこの東口出札所も消滅している。
【追加情報】わずか路線距離1.0kmの東武大師線に乗ってみた
最後に伊勢崎線の西新井駅〜大師前駅間を結ぶ東武大師線を紹介しておきたい。亀戸線と同じ車両がこの大師線も走っている。例えばリバイバルカラーのグリーン車両が、今日は亀戸線、明日は大師線というような運用のされ方をしている。亀戸線とは切っても切れない縁のある路線でもあるのだ。
この大師線でも、これまで知らなかった事実と巡りあうこととなった。大師線は西新井駅と大師前駅を結ぶ、わずか1.0kmの路線である。1.0kmといえば、歩いても行ける距離だ。バスで十分な距離でもある。なぜ、このような短い路線が造られたのだろう?
東武鉄道は、1910(大正9)年に、当時、池袋駅と坂戸町駅を結んでいた東上鉄道(現・東武東上本線)と合併した。東武鉄道と東上鉄道の線路は結ばれていない。不便なことが多いことから両線をつなぐ路線を計画した。路線を敷くことで東京の北部地域の開発も目指した。
計画時の名称は西板線で、西新井駅と東上本線の上板橋駅を結ぶように計画された。路線は現在の環七通りとほぼ平行して走る予定だった。
免許を申請したのは1922(大正11)年11月10日のこと。準備を始めていたそのさなか、1923(大正12)9月1日に関東大震災が起こる。新線を建設するよりも、従来の路線の復旧に追われた。そのような状況で、東武鉄道は工事竣功延期の申請を4回にわたり出したものの、昭和恐慌という時代背景もあり路線計画は頓挫してしまう。
造られたのは西新井駅〜大師前駅のみだった。仮設工事という形で線路を敷設(当初の路線距離は1.1km、その後、1.0kmに短縮)、1931(昭和6)年の12月20日に開業した。
その後も大師線の歴史には紆余曲折あり。太平洋戦争中は戦災により営業休止に、その後の1947(昭和22)年に運転再開された。さらに1964(昭和39)年には環七通りとの交差する箇所の問題が浮上。一時は廃止も取り沙汰された。
大師前駅に近い西新井大師の縁日には2万人の人が参拝に訪れ賑わいを見せることもあり、地元商店街が「大師線廃止反対期成同盟」を組織、住民を巻き込んで運動を展開した。結果、1万5000名もの反対署名が集まり、東京都へ陳情した。そうした経緯もあり、路線が存続されることになった。
わずか1.0kmの路線ながら多くのドラマが隠されていたわけだ。なお、東武鉄道の伊勢崎線などの路線と東上本線を結ぶ路線は造られず。そのため東武鉄道では秩父鉄道を委託して、車両の行き来をさせている。もし、西板線が誕生していたら、東武鉄道の路線網も大きく変わっていたことだろう。
◆参考資料:『東武鉄道百年史』『東武鉄道が育んだ一世紀の記録』いずれも東武鉄道株式会社刊
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