おもしろローカル線の旅52 〜〜東武鉄道 亀戸線(東京都)〜〜
大都市圏にもローカル線が走っている。そんなローカル線の中には意外な知られざる逸話を持つ路線がある。東京都墨田区の曳舟駅(ひきふねえき)と、江東区の亀戸駅の間を走る東武鉄道の亀戸線もそんな路線の一つだ。
路線の距離が3.4kmと、ちょっと頑張れば全線歩けてしまう短さ。しかしその短い路線には多くの興味深い話が秘められていた。今回は亀戸線の旅を楽しんでみよう。
【関連記事】
昭和初期の風景がそのまま残る!「天浜線」11の秘密
【亀戸線秘話①】東武草創期の願い!何とか東京都心へ乗り入れを
最初に東武亀戸線の概要を見ておきたい。
路線と距離 | 東武鉄道・亀戸線/曳舟駅〜亀戸駅3.4km |
開業 | 1904(明治37)年4月5日、曳舟駅〜亀戸駅間が開業 |
駅数 | 5駅(起終点を含む) |
東武亀戸線は今から115年前の1904年に東武鉄道の手により開業した。同社が創立して最初に路線を開業させたのが北千住駅(東京都)〜久喜駅(埼玉県)の区間で1899(明治32)年8月27日のことだった。
東武鉄道としては、北千住駅から都心へ向けて路線を延ばしたいという願いがあり、まず1902(明治35)年に、曳舟駅を通り吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅)に至る路線を開業させた。
しかし、その先に隅田川が流れていたため路線は延長されず、長期にわたり東武伊勢崎線の始発駅は吾妻橋駅(駅名は後に浅草駅、業平橋駅と変更)となっていた。
一方、曳舟駅からは越中島線(現・亀戸線)の建設を進め、亀戸駅まで路線を延ばした。列車はこの亀戸駅から総武鉄道(現・JR総武本線)に乗り入れ、両国橋駅(現・両国駅)まで走った。総武鉄道では亀戸線が開業した日に合わせ両国橋駅〜本所駅(現・錦糸町駅)の区間を開業させている。
その先、隅田川を渡る橋はまだなく、両国橋駅が同線のターミナル駅となっていた。東武鉄道の吾妻橋駅に比べ、両国付近はすでに繁華街となっていて、さらに路面電車を使えば、東京の中心部へのアクセスも可能だった。他社の路線だったとはいえ一応、都心へ一歩近づいたわけである。
路線開業当時は、非電化で蒸気機関車が客車を牽いて走った。旅客だけでなく貨物列車の運行が行われ、亀戸線を通って、両国橋駅と埼玉、栃木との間を結ぶ貨物列車が盛んに運転された。
【亀戸線秘話②】亀戸から先、越中島へ路線延伸を目指したが
東武鉄道は当初、曳舟駅から亀戸駅を通り、路線をさらに東京湾に近い越中島まで延ばす計画を持っていた。この計画は沿線の住宅化が進み、土地の買収がはかどらず、途中で断念している。
越中島への路線(現在のJR総武本線・越中島支線)は、その後、国鉄により太平洋戦争前後に路線が整備され、高度成長期には、晴海地区への貨物線が延ばされ、湾岸エリアの発展に大きく貢献している。
東武鉄道としては、越中島を経て、京橋駅、新橋駅まで路線を延ばす構想を持っていたという。歴史に“たられば”はないとはいうものの、もし東武鉄道が企画した臨海部の路線が計画通りに敷かれていたら、臨海部の鉄道路線網は、大きく変っていたかも知れない。
【亀戸線秘話③】亀戸線は開業当時、立派な本線扱いだった
開業した亀戸線は、前述したように亀戸駅から両国橋駅まで列車が走った。当時のターミナル駅だった両国。一方、東武伊勢崎線の始発駅だった吾妻橋は今と異なり不便だった。
当時は亀戸線が本線扱いで、曳舟駅〜吾妻橋駅間は支線だった。利用者が見込めなかったこともあり、吾妻橋駅は亀戸線が開業した日に営業休止となる。以降、数年にわたり曳舟駅〜吾妻橋間は貨物列車や回送列車のみが走る路線となった。
亀戸線が誕生した1900年代初期、日本の鉄道は国有化に揺れていた。1906(明治39)年の3月31日に鉄道国有法が公布され、翌年にかけて、全国17社の路線が国有化された。
当初は17社以外に、東武鉄道などの私鉄15社を国有化する案も検討されていたが、法案が修正され、東武鉄道は国有化を免れている。
亀戸線が開業した当時、東武鉄道と総武鉄道(現・総武本線)は非常に親密な関係で、両国橋駅への乗り入れが成立した。ところが1906年に総武鉄道が国有化されてから雲行きが怪しくなっていく。国有化後も両国橋駅への乗り入れが続けられていたが、1910(明治43)年3月27日に乗り入れが終了してしまう。そして旅客列車の出発は亀戸駅からとなった。
一方の営業休止していた吾妻橋は、ちょうど同じ日に旅客駅として復活、浅草駅(旧駅)と名称を変更した。駅前から路面電車が隅田川を越えて都心へ走るようになり、ターミナル駅として機能するようになっていく。
開業してからわずか6年で立場が逆転してしまった。以降、伊勢崎線が本線、亀戸線は支線となった。旅客列車以外に、亀戸線を利用しての貨物輸送は続いていたものの、1926(大正15)年に、新小岩駅(総武本線)〜金町駅(常磐線)間を結ぶ貨物線・新金貨物線(しんかねかもつせん)が造られたことから、貨物列車も亀戸線を通っての利用が無くなり、総武本線と連絡する線路も廃止された。
ちなみに、東武伊勢崎線は1931(昭和6)年5月25日に、隅田川橋梁が誕生し、現在の浅草駅(当初は浅草雷門駅)まで乗り入れを果たしている。
【亀戸線秘話④】東京大空襲で亀戸線沿線は壊滅状態に
亀戸線の列車は開業当時、蒸気機関車が客車を牽く旅客列車が主体だった。1924(大正13)年10月1日に伊勢崎線の浅草駅〜西新井駅間が電化された。追って1928(昭和3)年4月15日には亀戸線全線が電化されている。
電化されたことで蒸気機関車時代よりも、列車の運行がよりスムーズとなり、小村井駅(おむらいえき)などの途中駅が多く設けられた。
さて、亀戸線の歴史で忘れてはいけないのが、やはり太平洋戦争の惨禍だろう。ボーイングB-29を使って行われた、高高度からの無差別絨毯爆撃により、隅田川流域は壊滅状態となる。焼夷弾により、下町は焼き尽くされた。
特に1945年3月10日未明の「東京大空襲」により、死者8万3793人、負傷者4万918人。焼失家屋26万7171軒に及んだ(『墨田区史 前史』より)。
東武鉄道の施設や車両も痛手を被り、伊勢崎線、亀戸線の線路焼損、亀戸駅など複数の駅の建物やホームが消失した。さらに業平橋駅(旧・吾妻橋駅)付近では電動車9両、付随車6両、蒸気機関車11両、貨車48両が全焼している。
当時の東武鉄道の社員は「よくここまで破壊しつくされた」と感じたそうだ。(『東武鉄道百年史』より)
こうした状況を調べていくうちに暗澹たる思いがした。やはり戦争は2度としてはいけないと切に願う。
亀戸線に乗車し、また沿線を歩いてみたが、亀戸駅付近よりも、曳舟駅近くの方が、細い小道が多く残り、より下町らしい印象だった。
史書によると、曳舟駅付近は、東京大空襲の際に風の流れが変り、また亀戸線が防火帯の役割を果たしたことで、曳舟駅や町が一部は消失を免れたのだという。亀戸線の沿線でも曳舟駅近くに小道が残っている理由なのかも知れない。
【亀戸線秘話⑤】オレンジ&緑の8000系リバイバルカラーが走る
さてここからは亀戸線の今をリポートしよう。
亀戸線で注目すべきは、やはり電車だろう。車両はすべて8000系で、この8000系が2両編成で走る。8000系は私鉄の車両としては最多の712両が製造された。国鉄で最も多く造られた103系になぞらえ、“私鉄の103系”と呼ばれた。
1963(昭和38)年から導入された車両で、東武鉄道全線の主力車両として活躍した。現在は表舞台から遠ざかりつつあり、支線などの輸送に携わる。追われるように活躍の場が狭まっているが、亀戸線ではまだまだ現役だ。
ジャスミンホワイトに、ロイヤルブルー2本線という8000系標準色に加えて、リバイバルカラーと呼ばれる懐かしの車体カラーの車両も走っている。ちなみに8000系2両編成のリバイバルカラーは3パターンあり、亀戸線と、大師線で乗ることができる。
余談ながら、亀戸線を走る8000系は表示がすべてLED化されている。きれいに撮ろうとする場合に遅めのシャッター速度が必要になる。200分の1以上だと、まだら模様になりがちに。きれいに撮りたい時は160分の1以下への設定が必要だ。
【亀戸線秘話⑥】2両分の長さしかない曳舟駅の5番線ホーム
亀戸線の起点は曳舟駅となる。この曳舟駅で伊勢崎線と接続、また東京メトロ半蔵門線方面からの電車も同駅で亀戸線への乗換ができる。
ホームは1〜5番線まで。亀戸線は南側にある5番線を利用している。1〜4番線ホームは10両編成用と長いのに対して、亀戸線用の5番線のホームは2両編成に合わせているため非常に短く感じる。東京都内の路線にも関わらず、割り切った長さだ。しかも亀戸線は運転士1人のワンマン運転で運行されている。運転間隔は朝のみ6〜7分間隔、以降は10分間隔と便利だ。
曳舟駅のホームに上り電車が到着するや、ほどなく亀戸へ向けて折り返していく。発車すると伊勢崎線と単線の線路が並走、まもなく左へ大きくカーブする。カーブの途中から線路が増え複線に、この先、亀戸駅まで全線が複線となる。沿線はほぼ住宅地が連なり下町らしい風景が続く。
【亀戸線秘話⑦】3.4kmの区間にかつて途中駅が7駅もあった
亀戸線は現在、曳舟駅〜亀戸駅間にある途中駅は3駅のみだ。ところが最も駅が多かった時には、途中駅が7駅もあった。距離が3.4kmと短い路線なのに7駅とは、かなり多かったわけだ。
なぜ、ここまで多くの駅が生まれ、消えていったのか気になった。
1928(昭和3)年、亀戸線の電化に合わせて、途中駅を増やしている。最も多かった時代の途中駅は曳舟駅側から、虎橋通駅(とらばしどおりえき)、十間橋通駅(じゅっけんばしどおりえき)、天神駅、小村井駅(おむらいえき)、平井街道駅(現・東あずま駅)、北十間駅、亀戸水神駅、そして終点の亀戸駅の順だった。
この中で残るのは小村井駅と、駅名が変更された東あずま駅、それから亀戸水神駅のみだ。亀戸水神駅は、1946(昭和21)年に北隣にある北間駅と統合され、位置を移動して新しい駅となった。よって、中間駅で名も変わらず位置も変わらないのは、小村井駅のみとなる。このあたりの変遷もおもしろい。
途中駅が最大7つの時には各駅の駅間が0.1km〜0.6kmと短く、走ったらすぐに次の駅という状態だった。路面電車のように駅間の距離が短い。
廃駅となった駅が多いということの理由には、空襲で被災したという要因もあったのだろうが、さすがにここまで駅数が多いと、電車もスムーズに運行できなかっただろう。
とはいえ現在、曳舟駅〜小村井駅間のみは1.4kmとやや距離が離れている。小村井駅よりも、旧十間橋通駅付近の方が、賑やかな印象があり。この間にもう1駅、駅が合っても良いように感じた。
【亀戸線秘話⑧】北十間川の鉄橋上にある謎の設備は何?
東あずま駅と亀戸水神駅の間で北十間川(きたじっけんがわ)という小河川を渡る。この川、荒川水系の一級河川とされているが、河川といようよりも、成り立ちは運河だった。
北十間川は江戸時代の初期に幕府によって農業用水用に、また舟運用に掘削された。亀戸線が横切り、さらに下流では、とうきょうスカイツリー駅のすぐ目の前を流れる。かつて同駅が業平橋駅と呼ばれていた時代には、この河川沿いに積み出し基地があり、東武鉄道は業平橋駅まで貨物列車で荷物を運び、舟に積み込んでいた。
さて、この北十間川を渡る鉄橋で、あまり見かけない設備が気になった。亀戸線が渡る鉄橋の両側に道路がクロスしている。その道路側に四角いブロックが突き出ている。
さらに四角いブロックには、2本の溝が設けられている。これは何だろう?
北十間川が流れる地区は海抜ゼロメートル地帯だ。かつては洪水など自然災害の影響を受けやすい地区でもあった。
亀戸線の鉄橋が架かる区間も、鉄橋以外の川の両岸には身の丈を上回る堤防が築かれている。一方、亀戸線の路線は盛り土の上を走るものの、堤防の高さよりも低い。水位が堤防を越えるほどに上がった時は、この構造を見ると、鉄橋部分から住宅地に水があふれることになる。
鉄橋上にあるブロックは、潮位が高くなる時は、この溝に板をはめ込み、水があふれることを防ぐために使われた設備のようだ。錆の出方から見て、現在は使われていないようだが、このようなところに洪水防止の工夫が取り入れられていたわけである。
思い起こせば、筆者がまだ幼かったころ、地下水の汲み過ぎによる地盤沈下、そしてゼロメートル地帯が浸水に悩まされるニュースをよく見聞きした。現在は多くの水門や堤防、北十間川でも吾妻橋近くに設けた樋門(ひもん)により、水位が調整されている。こうした取り組みが成果を生み、近年になり大規模な浸水騒ぎは見られなくなった。
とはいえ温暖化による地球規模の水位の上昇が懸念されている。亀戸線の鉄橋のブロックは、今は使われていない設備だが、いざという時に備えてこうした設備は今後も維持していくことが大切なのかも知れない。
【亀戸線秘話⑨】亀戸水神駅の近くに「亀戸天神」はない
引き続き標高の話題。亀戸線の各駅の標高を調べてみた。すると-1m〜-2mといった数値を示した(国土地理院標高データ)。最も低い値は、亀戸水神駅付近の-2.4mだった。
さて、亀戸水神駅。亀戸といえば、有名なのは亀戸天神(正式には亀戸天神社)。藤棚、太鼓橋の光景が良く知られている。この亀戸水神駅と名前が近いこともあり、亀戸天神の最寄り駅だろうと下車してしまう人が今もいるそうだ。
亀戸天神と亀戸水神と、一文字違いだが、亀戸天神の最寄り駅は亀戸駅。お間違いのないように。せっかくだから、駅近くの亀戸水神を訪ねた。
亀戸水神(正式には亀戸水神宮)は、16世紀の創建とされる。水神という名からも分かるように水の神様(弥都波能売神・みずはのめのかみ)をお祀りしている。この地に洪水が多かったことから、災いがないように、と住民により大切に祀られてきた。周囲よりも標高が低い土地ならではの水の神なのである。
さて名高い亀戸天神社も訪ねてみる。亀戸天神社は亀戸線の終点、亀戸駅から距離にして850mほど、徒歩11分の距離にある。
寺社仏閣は、常々思うことながら、人々が集まる寺社には、何とも言えぬ、オーラのようなものを感じる。亀戸天神社の創建は17世紀で学問の神とされる菅原道真を祀る。鳥居をくぐると、盛り上がるように架けられた太鼓橋、心字池を藤棚が取り囲む。この独特の趣が長年にわたり人々を強く引き付けるのだろう。
【亀戸線秘話⑩】亀戸駅の旧東口を示す石碑が人知れず立つ
亀戸線の曳舟駅から乗車すること約8分。終点の亀戸駅に電車が到着した。
終点の亀戸駅近くで不思議な石碑を見つけた。亀戸駅の東側、亀戸線のホームも見える亀戸線第22号踏切。踏切の周辺は自転車置き場などに利用されている。踏切の傍らに、小さな石碑が立っていた。さて……。
踏切の横には「亀戸駅東口出札所完成記念」と刻まれた小さな石碑が立っていた。同踏切付近にはすでに改札はない。碑には昭和33(1958)年とあった。念のため古い地図を見てみると、国鉄の亀戸駅(東武鉄道の亀戸駅の位置は変わらず)が戦後の一時期、現在の位置よりも東にあったことが確認できた。
どのような理由で、この東口出札所が設けられ、また廃止されたのだろう。亀戸は、第二精工舎(現・セイコーインスツル)の工場があった街でもある。太平洋戦時中には諏訪に疎開したものの、戦後に製造を再開した。そして亀戸工場は、昭和30年代以降に活況を見せる。場所は亀戸駅の東南、国道14号・京葉道路沿いにあった。東口出札所を使えば、すぐ南の工場の前へ行くことができ便利だっただろう。この第二精工舎は1993(平成5)年に亀戸工場を閉鎖したこともあり、現在はこの東口出札所も消滅している。
【追加情報】わずか路線距離1.0kmの東武大師線に乗ってみた
最後に伊勢崎線の西新井駅〜大師前駅間を結ぶ東武大師線を紹介しておきたい。亀戸線と同じ車両がこの大師線も走っている。例えばリバイバルカラーのグリーン車両が、今日は亀戸線、明日は大師線というような運用のされ方をしている。亀戸線とは切っても切れない縁のある路線でもあるのだ。
この大師線でも、これまで知らなかった事実と巡りあうこととなった。大師線は西新井駅と大師前駅を結ぶ、わずか1.0kmの路線である。1.0kmといえば、歩いても行ける距離だ。バスで十分な距離でもある。なぜ、このような短い路線が造られたのだろう?
東武鉄道は、1910(大正9)年に、当時、池袋駅と坂戸町駅を結んでいた東上鉄道(現・東武東上本線)と合併した。東武鉄道と東上鉄道の線路は結ばれていない。不便なことが多いことから両線をつなぐ路線を計画した。路線を敷くことで東京の北部地域の開発も目指した。
計画時の名称は西板線で、西新井駅と東上本線の上板橋駅を結ぶように計画された。路線は現在の環七通りとほぼ平行して走る予定だった。
免許を申請したのは1922(大正11)年11月10日のこと。準備を始めていたそのさなか、1923(大正12)9月1日に関東大震災が起こる。新線を建設するよりも、従来の路線の復旧に追われた。そのような状況で、東武鉄道は工事竣功延期の申請を4回にわたり出したものの、昭和恐慌という時代背景もあり路線計画は頓挫してしまう。
造られたのは西新井駅〜大師前駅のみだった。仮設工事という形で線路を敷設(当初の路線距離は1.1km、その後、1.0kmに短縮)、1931(昭和6)年の12月20日に開業した。
その後も大師線の歴史には紆余曲折あり。太平洋戦争中は戦災により営業休止に、その後の1947(昭和22)年に運転再開された。さらに1964(昭和39)年には環七通りとの交差する箇所の問題が浮上。一時は廃止も取り沙汰された。
大師前駅に近い西新井大師の縁日には2万人の人が参拝に訪れ賑わいを見せることもあり、地元商店街が「大師線廃止反対期成同盟」を組織、住民を巻き込んで運動を展開した。結果、1万5000名もの反対署名が集まり、東京都へ陳情した。そうした経緯もあり、路線が存続されることになった。
わずか1.0kmの路線ながら多くのドラマが隠されていたわけだ。なお、東武鉄道の伊勢崎線などの路線と東上本線を結ぶ路線は造られず。そのため東武鉄道では秩父鉄道を委託して、車両の行き来をさせている。もし、西板線が誕生していたら、東武鉄道の路線網も大きく変わっていたことだろう。
◆参考資料:『東武鉄道百年史』『東武鉄道が育んだ一世紀の記録』いずれも東武鉄道株式会社刊
【ギャラリー】