おもしろローカル線の旅53 〜〜JR南武線(神奈川県・東京都)〜〜
南武線がローカル線なの? と思う方もあろうかと思う。混雑率ワースト10にランクインする超混雑区間があり、利用者も年々、増えつつある。とはいえ数年前まではやや古めの国鉄形電車が走り、日中は1時間に1〜2本という支線の閑散区間が残る。車窓から多摩川が望め、郊外らしい風景も広がる。
南武線はさらに歴史がおもしろい。1930年代に出された路線案内が手元に残っていた。見ると郊外路線・観光路線だったころの魅力が手に取るようにわかる。今回は南武線の意外な歴史と謎に迫る旅を楽しみたい。
【関連記事】
本線になれなかった残念な路線「東武亀戸線」10の秘話
【南武線の意外①】今でこそ“環状線”として欠かせない路線だが……
最初に南武線の概要を見ておきたい。
路線と距離 | JR東日本・南武線/川崎駅〜立川駅35.5km、浜川崎支線/尻手駅〜浜川崎駅4.1km、尻手短絡線(貨物線)/尻手駅〜新鶴見信号場〜鶴見駅5.4km |
開業 | 1927(昭和2)年3月9日、南武鐵道により川崎駅〜登戸駅間が開業、徐々に延伸。1929(昭和4)年12月11日、川崎駅〜立川駅間が全通 |
駅数 | 30駅(起終点駅・支線を含む) |
南武線は、川崎駅を起点にして終点の立川駅まで走る路線と、尻手駅〜浜川崎駅を結ぶ浜川崎支線(旅客案内では「南武支線」)、さらに貨物専用線の尻手駅〜新鶴見信号場〜鶴見駅間を結ぶ尻手短絡線の3本の路線で構成される。
中でも、川崎駅〜立川駅間を結ぶ南武線のいわば“本線区間”は、川崎の臨海地区と多摩地区を結ぶ唯一の路線として機能する。
首都圏の鉄道路線は都心から、放射状に延びる鉄道路線が多い。一方、南武線のように放射状に延びる路線とクロスする“環状線”は少なく貴重だ。南武線は他線との乗換駅も多く、今では首都圏の人と貨物の動きに欠かせない路線となっている。
ところが南武線が開業するまで、決して楽な道のりでは無かったと伝わる。当時、新線を予定した地域には寒村風景が広がっていた。さらに恐慌が続いた時代で、路線計画を立てたものの会社は深刻な資金難に陥った。沿って流れる多摩川は水運が盛んで、ほか四輪馬車という交通機関もあり、南武線という鉄道路線をあまり必要としていなかった。
【南武線の意外②】南武線の起源は「多摩川砂利鉄道」だった
南武線は、1920(大正9)年に多摩川砂利鉄道という会社が川崎町〜稲城間の鉄道敷設免許を取得したことに始まる。
社名どおり多摩川の砂利の採取および、輸送を目的として会社が設立された。この多摩川砂利鉄道を名乗った期間は短く、2か月後には会社の名称を南武鐵道と改めている。砂利鉄道という会社名は、さすがに一般受けはしなかったということなのだろう。
会社を設立したものの路線の開業まで7年もかかっている。当時の鉄道工事は免許を取得してから短期間で進めることが多く、この7年は異例の長さと言って良い。開業に乗り出した発起人の力が弱かったことも一因だったが、取り巻く経済状況が非常に厳しかったことも延びた理由の一つだった。
まずは会社を創業した1920(大正9)年には第一次大戦後の戦後恐慌が発生した。さらに1922年に銀行恐慌、1923(大正12)年には関東大震災が起り、震災恐慌と呼ばれる状況に陥っていた。
さらに南武線沿いを流れる多摩川では水上交通による輸送も盛んだった。水上交通に携わる人たちにとって、鉄道が開業したらそれこそ強力な商売敵が生まれてしまう。少なからず反対の声もあったようだ。
【南武線の意外③】セメント会社が経営に乗り出し窮地を救った
南武鐵道を救ったのが浅野セメント(現・太平洋セメント)だった。浅野セメントは青梅線(旧・青梅電気鐵道)や、五日市線(旧・五日市鐵道)の沿線に鉱山を持ち、セメントの原料となる石灰石の採掘を行っていた。さらに川崎にセメント工場を持っていた。南武鐵道の路線ができれば、鉱山から工場まで石灰石の輸送がスムーズに行える。そのため、南武鐵道の経営に乗り出した。
浅野セメントが経営に乗り出した後は、路線工事も順調に進み、1929(昭和4)年12月11日に川崎駅〜立川駅が全通した。ちょうどその年の秋に世界恐慌が起こり、1931(昭和6)年にかけて日本経済も危機的な状況となっていった。浅野セメントの経営参加は、後からみればベストな時期だったと言えるのだろう。
南武鐵道時代の路線案内が手元にあるので見てみたい。今から80年ほど前、当時流行した鳥瞰図で表現した路線案内だ。現在よりも駅の数が多く、また支線もあり、今と大きく異なる箇所が多い。ジャバラ風で開くと横幅が長く58cmほどになる。当時の路線の様子が伝わるように、2枚に分けて掲載した。
路線開業まで苦しんだ、南武鐵道だったが、開業後はきわめて順調で、東京競馬場(当初は東京競馬倶楽部)を誘致するなど(それまでは目黒に競馬場があった)、客足を延ばすよう積極策に転じている。
路線開業後には、沿線に多くの工場が進出した。沿線の住民も急増し、1937年の上期には200万人の乗降客があったとされる。
【南武線の意外④】いま見ると無茶苦茶だった戦時買収の経緯
太平洋戦争が起らなかったら、今も南武線は私鉄の路線だったかも知れない。
1941(昭和16)年に陸運統制令が発令される。戦時統制により、鉄道・バス会社の統合や買収、資材や設備の譲渡などを実施するという法律だった。そして戦局が悪化しつつあった1944(昭和19)年4月1日に南武鐵道は国有化されてしまう。
それまで南武鐵道は五日市鐵道(現・五日市線)を合併、さらに青梅電気鐵道(現・青梅線)との連携を深め、会社の経営強化に取り組んでいた。その最中の国有化劇。急展開だったに違いない。当時、鶴見臨港鐵道(現・鶴見線)、相模鐵道(現・相模線)、南海鉄道(現・阪和線)など全国の私鉄22社が国有化されている。
当時の国有化はなかば強制的で、反論すれば“非国民”扱いだったとされる。南武鐵道の買収には戦時公債に使われた。戦時公債とは軍事費を捻出するために乱発された公債のこと。軍事費を国民から集めるために、この戦時公債を利用、寄付に近い形でお金を集めた。換金はほぼ不可能だった。当時の南武鐵道の買収金額は2700万円ほどだったとされる。さらに戦後は超インフレとなり、戦時公債は無価値となってしまった。
信じられないことに国有化されたにもかかわらず、会社を解散することが禁じられた。その理由は戦争終了後、「元の会社に戻すため」であった。
ところが……。
国有化された元私鉄路線のうちで、太平洋戦争後に元の会社に戻された路線はなかった。戦後、戦時買収私鉄を元の会社へ戻す法案も国会に提出されたが、審議未了で廃案になってしまう。
戻されなかった理由としては、買収された私鉄路線が財閥企業の立ち上げた産業と関わりが強く、鉄道会社自体、財閥と資本関係があったためとされる。日本を占領、統治にあたったGHQは財閥の解体を目指していた。その方針に合わせたためとされるが、今となっては真の理由はわからない。
時を経てこうした事実に触れると、戦時下とはいえ、あまりに無謀すぎたのではないかと思われる。南武線が国有化して良かったのか、私鉄のままの方が良かったのか、判断はしかねるところではあるが。
【南武線の意外⑤】南武線には複数の支線があり今も活かされる
南武鐵道には複数の支線を持っていた。その支線は今も活かされている。
まずは尻手駅〜浜川崎駅館を走る浜川崎支線。旅客列車の本数こそ少ないものの工場が多い川崎臨海部と市街地を結ぶ貴重な足となっている。さらにこの路線は支線ながら、貨物列車にとっては本線的な役割を担っている(詳細後述)。
今は青梅線の路線の一部となっているが、立川駅と西立川駅間を結ぶ貨物支線(現・青梅短絡線)も、南武鐵道時代に造られた支線だった。
さらに、1973年と造られたのは近年だが、尻手駅〜新鶴見信号場間を結ぶ尻手短絡線も貨物列車にとっては、欠かせない路線となっている。
このように南武線には本線区間とは別個に、列車の運行に欠かせない支線が今も活かされている。電車に乗っていて、つい注目したくなる支線ばかりだ。
【南武線の意外⑥】武蔵小杉駅は戦後まで乗換駅でなかった
ここからは南武線の沿線模様を、起点となる川崎駅から見ていこう。
南武線は全線が複線区間で、川崎駅発を例にとると朝夕は3〜6分間隔、日中は10分前後で列車が発車する。10時〜19時台には一部の駅が通過となる立川行の快速電車も運行されている。
川崎駅の5・6番線が南武線専用のホーム。列車はそれぞれの番線からほぼ交互に折り返して走る。川崎駅を走り出した南武線の電車は、しばらく東海道本線に沿って走る。まもなく右にカーブして、高架路線へ。左から近づいてきた浜川崎支線と合流する。合流地点の下を通るのが国道1号線(第二京浜国道)だ。そして浜川崎支線の始発駅、尻手駅に到着する。
尻手駅を発車してまもなく平行して走っていた線路が一本、住宅街の中へ消えていく。こちらが新鶴見信号場へ向かう尻手短絡線だ。
次は矢向駅。この駅からはかつて川崎河岸まで1.7kmの貨物線が設けられていた(1972年に廃止)。廃線跡の一部は緑道として残っている。鹿島田駅、平間駅を停まり向河原駅(むかいがわらえき)へ。駅を過ぎれば、左へ大きくカーブする。そして横須賀線と東海道新幹線の線路とクロスする。
到着した武蔵小杉駅は2社5路線が走る乗換駅。この武蔵小杉駅のように南武線の魅力はやはり、他線と接続する駅が多く、また乗換しやすいことだろう。
この武蔵小杉駅、南武線で最も変貌した駅でもある。まず初代の武蔵小杉駅は今と異なり、現在の府中街道(国道409号)付近に造られた。同駅の東隣にはグラウンド前停留場という名の駅が生まれた。こちらの駅の位置が現在の武蔵小杉駅にあたる。グラウンド前停留場は1944年に武蔵小杉駅と名称変更、旧武蔵小杉駅は廃止された。
一方、南武線とクロスする東京横浜電鉄(現・東急東横線)は1926(大正15)年に路線が開業していた。ところが武蔵小杉駅付近には駅が造られなかった。東横線の駅が出来たのは路線が開業してほぼ20年たった1945(昭和20)年のことだった。
できたものの仮駅で、通勤客のみが利用可能、一般客は利用できない特殊な駅だった。その後の1947(昭和22)年に一般旅客の利用が可能になった。この時点ではじめて乗換駅として機能し始めた。古い歴史を持つ駅かと思っていたのだが、駅の歴史は意外に新しく、乗換駅として活かされたのは戦後からだったわけである。
さらに横須賀線はまだ走っていなかった。線路は付近を通っていたが、品鶴線(ひんかくせん)と呼ばれる東海道本線の貨物用の路線だった。1980(昭和55)年に横須賀・総武快速線が同線を走り始める。走り始めたものの駅は長い間、造られずで、ようやく横須賀線の武蔵小杉駅が造られたのは2010(平成22)年のことだった。
現在は、東急目黒線も乗り入れ、さらに2年後には相模鉄道の電車も同線に乗り入れる予定で、ますます武蔵小杉は発展していきそうだ。
このように駅が生まれ、また乗換駅として機能することで、街は大きく発展していく。鉄道の駅の誕生が何と大きな実をもたらすのか、目を見張る思いだ。
【南武線の意外⑦】駅名が異なる武蔵溝ノ口駅、溝の口駅の謎
武蔵小杉駅から、武蔵中原駅、武蔵新城駅(むさししんじょうえき)、そして武蔵溝ノ口駅と4駅ほど「武蔵」が付く駅が続く。武蔵溝ノ口駅は東急田園都市線との乗換駅となる。
さて「武蔵溝ノ口駅」、隣接する東急田園都市線の駅は「溝の口駅」である。筆者は迂闊なことに、この駅名表記の違いに気付かず、同駅を利用していた。
なぜこうした違いが生じたのだろう。
武蔵溝ノ口駅が生まれたのは南武鐵道が路線を開業させた1927(昭和2)年3月9日のこと。私鉄時代の路線案内には「武蔵溝口駅」とある。
対して東急の溝の口駅が生まれたのは同じ年の7月5日のことだった。玉川電気鉄道溝ノ口線の「溝ノ口駅」として誕生した。玉川電気鉄道とは、後に玉電の名で親しまれた路面電車の路線で、1938(昭和13)年に東急電鉄と合併している。
その後、武蔵溝口駅は武蔵溝ノ口駅となり、溝ノ口駅は溝の口駅となった。駅が造られたのが同い年。どちらかに駅名をすり合わせるということはなかった。お互いにライバル心のようなものがあって、それが今まで続いてきたということなのだろうか。
ちなみに駅名の元となった地名だが、川崎市高津区の土地の名は溝口だ。いずれも「みぞのくち」と読む。なお南武線の駅に「武蔵」を付けたのは、国鉄播但線に溝口駅(みぞぐちえき)という駅がすでにあり、同駅との間違いを防ぐためだったとされている。
【南武線の意外⑧】南武線と平行して走る武蔵野線の不思議
武蔵溝ノ口駅からは一駅ごとに多摩川が近づいてくる。宿河原駅は前述したように多摩川まで砂利採取用の引込線が設けられていた駅だ。さらに登戸駅で小田急小田原線と接続する。
登戸駅から2つめの稲田堤駅は、京王相模原線との接続駅。最寄りの京王稲田堤駅とは徒歩約5分と離れている。南武線では他線との乗換がスムーズにできる駅が多いが、この駅のみ離れているのがちょっと残念なところだ。
稲田堤駅を過ぎると南武線は多摩川橋梁まで高架路線が続く。そして電車は矢野口駅から東京都へ入る。
高架を走る電車の車窓からは多摩川が眺められ、手前には住宅地が広がる。地元の稲城市は「多摩川梨」の産地でもあり、車窓からも梨園が見えるが、近年は梨狩りが楽しめる農園が減ってしまったのが残念なところ。17世紀に栽培が始まったという多摩川梨、晩夏から初秋にかけて、その豊潤な味覚を楽しめる。
南多摩駅を過ぎると、南武線は右に大きくカーブ、多摩川南岸を離れ、多摩川橋梁を渡る。手前で合流するのは武蔵野線だ。武蔵野線はこの先、府中本町駅からは旅客列車が走るが、多摩側橋梁を渡った南側は、貨物専用線となる。武蔵野線は突然のように、トンネルを出て、南武線と平行して橋を渡る。武蔵野線はここまでどこを走ってきたのだろう。
多摩川橋梁から南側の地図を見ても、武蔵野線が走る所には点線が続くのみだ。
多摩川南岸を走る武蔵野線の路線は、ほぼトンネル区間となっている。途中、地上部分に出る箇所が少ない。
かつて武蔵野線を旅客路線として活用しようとした時に、府中本町駅から南側も旅客利用できないか、検討された。ところがトンネル区間が連続するため旅客利用は断念されたという。ほぼ平行して走る南武線が旅客線として存在していたことも、断念した理由の一つとしてあったのだろう。
【南武線の意外⑨】立川駅の先にも南武線の支線区間があった
新鶴見信号場から武蔵野線を走ってきた貨物列車のうち、甲府、松本方面へ向かう列車は府中本町駅から南武線を走り立川駅へ向かう。南武線の電車と貨物列車がすれちがうシーンをこの先、見ることができる。
府中市、国立市、立川市と東京の三多摩地区の都市が続く。京王線との乗換駅は分倍河原駅(ぶばいがわらえき)。南武線の進行方向右側には崖状の地形が見られるが、これは武蔵野台地と多摩川河畔(かつて氾濫を繰り替えした地帯を含む)との境を示す証しでもある。多摩川南岸とは異なる地形が見られる。
西国立駅を過ぎれば、ほどなく右側から中央線の線路が合流する。多くの商業施設が建ち並ぶ立川駅もまもなくだ。
立川は三多摩地区の中心的な都市。かつては駅近くに軍用の立川飛行場があり、太平洋戦争前は陸軍が、戦後はアメリカ軍が利用していた。1977(昭和52)年に全面返還された後は、一部を陸上自衛隊のヘリコプター基地として利用。他は国営昭和記念公園などになっている。
立川駅を通る多摩都市モノレールの駅に立飛駅(たちひえき)という駅があり、また地名にも立飛という名称が残っているが、これはもちろん立川飛行場の名にちなんだものだ。
さてこの先、南武線の紹介するにあたり、忘れていけない路線が残っている。
7・8番線の南武線の線路の先は行き止まりではなく、その先、単線となって中央線の上をクロスして通り、西立川駅までつながっている。現在は「青梅短絡線」と呼ばれる路線で、時刻表にも記載されていない知る人ぞ知るルートだ。
起源は1931(昭和6)年に造られた貨物支線で2.1kmの距離がある。この路線こそ、五日市鐵道、青梅電気鐵道の沿線で採掘された石灰石を、南武鐵道を使って川崎へ送るために造られた短絡ルートだった。
この青梅短絡線を利用すれば、中央本線を平面交差する必要がない。青梅快速と呼ばれる東京駅発、青梅駅行の下り列車もこの路線を使って走る。さらに鶴見線の安善駅と青梅線の拝島駅を結ぶ石油輸送列車も、このルートを使って走る。
【南武線の意外⑩】浜川崎支線は東海道貨物線のメインロード
最後に浜川崎支線の様子を紹介しておきたい。浜川崎支線は、鉄道ファンには注目される支線ながら、一般の人たちには馴染みが薄いのではないだろうか。この路線、4.1kmながらなかなか興味深い。
尻手駅のホームは南武線用に2つ、浜川崎支線用が1つ。同駅の3番線ホームから2両編成の浜川崎駅行き電車が発車する。この線路の外に側線があり、この側線は駅の北側で尻手短絡線に入り新鶴見信号場へ向かっている。
浜川崎支線は沿線に工場が多いことから朝の列車本数が多い。対して日中は1時間に1〜2本という超閑散路線となっている。
一方、貨物列車の運行本数が多い。武蔵野線の新鶴見信号場から尻手短絡線を使って貨物列車が乗り入れる。さらに東海道本線の川崎駅〜鶴見駅間から分岐したアクセス線が八丁畷駅(はっちょうなわてえき)付近で合流して走る。
八丁畷〜浜川崎間には1918(大正7)年5月1日にすでに国鉄の貨物線(東海道貨物支線)が設けられていた。当時の地図を見ると、東海道本線の川崎駅からカーブして、現在の八丁畷駅付近で合流、旧川崎貨物駅まで線路が伸びている。
浜川崎支線が造られたのが1930(昭和5年)のことで、同区間は国鉄の貨物線に平行して線路が敷かれた。ちなみに現在は、川崎駅と同支線を直接結ぶルートは廃止されている。代わりに東海道本線の鶴見方面から八丁畷駅付近へアクセス線が造られ、東海道本線を走る貨物列車は同支線へ直接、走り込める。
終点の浜川崎駅からは、その先、貨物線が川崎貨物駅、そして海底トンネルを抜けて東京貨物ターミナル駅まで延びている。
旅客面から見れば浜川崎支線はローカル線そのものなのだが、貨物ルートとしては東海道本線にあたり、幹線そのものとして使われている。早朝着の上り貨物列車、そして夜、下り貨物列車が頻繁に走る光景は、同線が東西の大動脈そのものであることを示してくれる。
南武線はローカル線として誕生したが、現在では旅客、貨物ともに欠くことのできない路線となっている。ひと時代前に計画を立てた人たちには、それこそ先見の明があったということなのだろう。
【ギャラリー】