おもしろローカル線の旅59 〜〜養老鉄道養老線(三重県・岐阜県)〜〜
三重県の桑名駅と岐阜県の揖斐駅(いびえき)を結ぶ養老鉄道養老線。揖斐川に沿って田園地帯を走る、のどかなローカル線である
養老鉄道と聞いて東海地方にお住まいの方以外はピンとこない方が多いかも知れない。元東急の7700系が走る鉄道会社と言えばお分かりだろうか。東急車両の導入によって大きく変る養老鉄道養老線の旅を楽しんだ。
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【養老鉄道の謎①】開業時も養老鉄道、現在も養老鉄道だが実は
まず初めに養老鉄道養老線の概要を見ておきたい。
路線と距離 | 養老鉄道養老線/桑名駅〜揖斐駅57.5km *全線単線・直流1500V電化 |
開業 | 1913(大正2)年7月31日、養老鉄道により養老駅〜大垣駅〜池野駅間が開業、1919(大正8)年4月27日、桑名駅〜揖斐駅間の開業で養老線が全通 |
駅数 | 27駅(起終点駅を含む) |
路線を誕生させたのは養老鉄道。しかし、現在、養老線を運行させている養老鉄道とは異なる会社である。そのため路線を開業させた養老鉄道は「初代」とただし書きを入れて紹介されることが多い。初代・養老鉄道の社長となったのは立川勇次郎だった。立川は京浜急行電鉄の創業者であり、地元・大垣市の出身だったことから、地元に戻った後に養老鉄道の経営に乗り出した。
【養老鉄道の謎②】目まぐるしく会社名が変わっていった謎
初代の養老鉄道は養老線を開業させたが、その後、たびたび会社名を変更し、また合併を繰り返す。養老線を運営した会社名を順番に記しておこう。
「養老鉄道(初代)」→「揖斐川電気」(同社社長は立川勇次郎)と合併→「養老電気鉄道」へ譲渡→「伊勢電気鉄道」と合併、伊勢電気鉄道養老線に→「養老電鉄」へ譲渡→「参宮急行電鉄」と合併、参宮急行電鉄養老線に→大阪電気軌道と合併するとともに「関西急行電鉄」と改称→関西急行電鉄と南海鉄道が合併、「近畿日本鉄道」と会社名を変更。
短い時は一年足らずで名前が変わる有り様だった。昭和初期にはこうした全国の私鉄の合併が繰り返された時期だったとは言え、それにしてもすさまじい。利用者にとっては会社名すら覚える暇がなかったに違いない。
さまざまな会社の手を経て、太平洋戦争のさなかの1944(昭和19)年6月1日に近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)養老線となる。
その後、60年以上の長い期間、近鉄の路線時代が続く。ところが2007年に、大きな変化の波が押し寄せた。近鉄が車両の運行などを近鉄グループホールディングス傘下となる「養老鉄道」に移管、鉄道施設などの維持管理は従来どおり近鉄が行う、と “上下分離方式”に変更したのだった。電車の運行を近鉄本体の鉄道事業から切り離し、別会社に移行させたのだった。
さらに2018年には、養老線管理機構という一般社団法人が造られ、鉄道施設や車両の維持管理を近鉄から同機構が行う形に改めている。ちなみに同管理機構は、沿線の7つの市町村が親団体になっており、機構の事務所も大垣市役所内にあり、代表理事も、現在大垣市の副市長が務める。なお、養老鉄道は従来通り、養老線の旅客輸送に携わる鉄道事業者となっている。
こうした歴史をたどるだけでも、ローカル線を長年にわたり運行させることの難しさが伝わってくる。
【養老鉄道の謎③】なぜ4扉車と3扉車が混在しているのか?
養老鉄道では4扉車両と3扉車両が走る。なぜ4扉車と3扉車両が混在しているのだろう。
走っているのは元近鉄と元東急の車両だ。元近鉄の車両は4扉車、そして元東急の車両が3扉車と扉の数が異なっている。さらに2両編成と3両編成が混在する。車両の長さも元近鉄と元東急の車両で異なる。だが、混みあうのは朝夕の一部の電車のみということもあるのか、問題も生じていない様子だった。
元近鉄と元東急の車両が混在することが、鉄道好きにとって逆に養老線に魅力に感じる大きな要素となっている。元近鉄の車両は近鉄らしいオーソドックスな顔つき、そして元東急の車両は、長年、東京都内を走り続けた初期のステンレス車両らしい造りだ。ここでそれぞれの車両の特徴を見ておこう。
まずは元近鉄車両から。
◇養老鉄道600系・620系
この2形式は、近鉄が養老線用に改造して投入した車両だ。車体の長さ20m。まず600系は近鉄名古屋線用の1600系と、近鉄南大阪線用の6000系などの改造車両で、現在、3両×2編成と、2両×2編成の計10両が走る。
620系は近鉄南大阪線6000系を養老線用に改造した車両で、3両×2編成が走る。ちなみに610系も4編成、計9両が、使われていたが、2019年にすべて廃車となっている。元になった車両はみな昭和40年代生まれで、かなりの古参電車ということもあり、残り車両の動向も気になるところだ。
◇養老鉄道7700系
7700系は2018年11月まで東急の池上線と東急多摩川線を走り続けた車両だ。養老鉄道では7700系を計15両導入、2019年4月から養老線を走り始めた。
7700系の種車となった車両は東急7000系で、日本初のオールステンレス製の車両として誕生した。車体の長さは18mで近鉄車両より2mほど短い。製造してほぼ20余年後に、完全リニューアルされ7700系となった。
7000系が誕生したのは1962年〜1965年とかなり前だったが、オールステンレス製の車体は傷みが少なく、また後に台車や電装品など積み替えられていたため中身は比較的、新しい。そうしたこともあり養老鉄道では7700系を、今後30年は使い続ける予定だとされる。日本初のオールステンレス電車は、耐用年数も想定外に長い電車となり、まだまだ養老鉄道で生き続ける見通しである。
ちなみに東急7700系には、歌舞伎のメイク「隈取(くまどり)」のような色で正面を飾った車両があり、ファンから「赤歌舞伎」という愛称が付けられていた。養老鉄道では「赤歌舞伎」に加えて「緑歌舞伎」という愛称が付く車両も走る。そして早くも養老線の人気者となっている。
【養老鉄道の謎④】起点の桑名駅では近鉄の路線と平行して走るが
前置きが長くなったが、ここから路線の旅を始めることにしよう。養老線では全線乗り降り自由な「1日フリーきっぷ」(1500円)も販売していて便利だ。
養老線の起点は桑名駅となる。養老線の改札口は東口にも、西口にもない。改札口は、近鉄名古屋線の下り6番線ホームの中間部にある。ここで切符を購入して乗車する。養老線の電車が発着するホームは4番線。この4番線は近鉄の6番線と同ホームで、その北側に設けられている。こうした駅の造りから見ても、近鉄とのつながりが強いことが分かる。
なお、桑名駅は東口と西口を結ぶ自由通路を整備中で、2020年秋ごろまでには自由通路から養老線へ直接アクセスできるように改良される予定だ。
桑名駅付近の養老線の線路は近鉄名古屋線と平行して敷かれている。養老線の電車は桑名駅を発車すると近鉄電車と並走して走る。しかし、近鉄名古屋線との連絡線はない。元近鉄の路線であり、今も養老鉄道は近鉄グループホールディングスの一員なのになぜなのだろう?
理由はシンプルだ。線路の幅が異なるためだ。養老線の線路幅は1067mmとJRの在来線などと同じサイズ。平行する近鉄名古屋線の線路幅は1435mmと新幹線などと同じ標準軌のサイズだ。近鉄では南大阪線が1067mm幅だが、路線は遠く離れている。線路の幅が違うということが、近鉄にとって養老線が管理・運営面で“お荷物”になっていたことが容易に想像できる。
桑名駅を発車する電車は30分〜1時間おき。深夜のごく一部を除き、ほとんどの電車が大垣行となっている。桑名駅と発車した養老線の電車は、近鉄名古屋線と並走、すぐに左にカーブして養老方面へすすむ。そして近鉄名古屋線は立体交差でくぐり、養老方面へ向かう。
【養老鉄道の謎⑤】なぜ揖斐川西岸に沿って路線が造られたのか
養老線の路線は、揖斐川の西側を流れに沿いつつ北上していく。途中、石津駅付近で、最も揖斐川に近づく。その後も川とは付かず、離れず。終点の駅も揖斐駅と名乗るように、揖斐川の流れに近い。しかし、路線は揖斐川を渡ることはない。
開業前の歴史をたどると、養老線が走る揖斐川の西側地区には、揖斐川の水運で栄えた町が点在する。養老線は水運に代わる交通機関として誕生した。そのため養老線では貨物列車も盛んに運行されていた。1996(平成8)年に貨物輸送が終了したが、今も複数の駅には、引込線などの跡が確認できる。
揖斐川の現在の流れは大垣市街を東に大きく迂回して流れているが、調べると、古くはもっと西側を本流が流れていた。当時は、養老線も揖斐川の本流(現・杭瀬川/くいぜがわ)を烏江駅(からすええき)付近で渡っていた。
地図を見ると養老線は駒野駅から烏江駅まで、大きく西側に逸れて迂回するように走っている。これは現在の美濃津屋駅の東側に、下池などの湖沼群があり、この湖沼群を避けるため。さらに沿線では人口が多かった当時の高田町(現・養老町)市街近くに駅(美濃高田駅)を設けるためだったと思われる。ちなみに現在、下池などの湖沼があったところは、ほとんどが水田となっている。
【養老鉄道の謎⑥】濃尾平野の西端、路線の西側にそびえる山地は?
養老線の旅に戻ろう。桑名駅からしばらく間は桑名市郊外の住宅地を走る。大小の工場も車窓から見える。
播磨駅(はりまえき)から先は周囲に水田が多くなる。下深谷駅の先、進行方向の左手から丘陵地が近づいてくる。この先は、左に丘陵、右手に水田という風景が下野代駅(しものしろえき)まで続く。
三重県内の駅は多度駅(たどえき)まで。次の駅の美濃松山駅からは、岐阜県内に入る。山除川という小さな川が県境となるが、県の境がここにあるとは気付きにくい。
県境あたりから西側に養老山地が見え始める。養老山地は濃尾平野の西端に位置し、峰々が10kmの幅、25kmの長さで南北に連なる。最高峰は笙ヶ岳(しょうがたけ)の908.3mと標高はそれほど高くない。とはいうものの、広がる平野から、突如、山がせり上がり、それこそ“そびえる”といった印象が強い。
【養老鉄道の謎⑦】上に川が流れるという不思議なトンネル
養老線の進行方向の左手に養老山地がそびえる。電車は急峻な養老山地と裏腹な標高が低い平野部を走るため、この土地ならではの珍しい地形が車窓からも目にすることができる。そしてこの地形が養老線の路線造りにも影響していることが分かる。
顕著なのは川の流れ方だ。養老山地からいく筋もの川が流れ出す。川は急に標高が低い平地に流れ出すために、大量の土砂が堆積した箇所が多い。いわゆる扇状地の地形を生み出している。
川が流れ出たところでは土砂の堆積のために、平野部よりも川の方が高い現象が生まれる。天井川という不思議な姿の川を造り出している。養老線も、この天井川を複数、またいで走る。
通常の川ならば橋りょうで渡るのが一般的だが、この地域では川の下をトンネルで通るという光景を複数の箇所で目にすることができる。車内からはなかなかその構造が分かり難いので、できたら最寄り駅で降りて、天井川の様子を眺めてみてはいかがだろう。
多度駅から養老駅までの区間にある複数のトンネルのうち多くが、こうした天井川を越えるために設けられたトンネルだ。ちなみに同区間では鉄橋も多く架かるが、川を見おろすとほぼ流れのない水無川となっている。天井川といい、水無川といい、この付近では扇状地らしい地形が連なることが良く分かる。
桑名駅から約40分で養老駅に到着する。この養老駅は養老線で最も観光客の利用が多い駅となっている。駅舎もなかなか趣のある造りとなっている。駅から岐阜県こどもの国や、初代の養老鉄道が観光客用に整備した養老公園も近い。
駅のそばに観光スポットもそれなりにあるのだが、残念ながら電車利用の人は多いと言えない。駅前にある商店は和菓子屋が1軒のみと、寂しさが感じられた。養老駅がある養老町の中心は、北隣の美濃高田駅なのだが、こちらの駅近くにも商店がなく、駅前通りの衰退ぶりが際立っていたのが気になった。
【養老鉄道の謎⑧】唯一の高架化区間が僅かにある不思議
美濃高田駅を発車すると、路線は大きく右にカーブする。そして養老山地を背にして再び、広々した平野を走り始める。広がるのは左右とも水田だ。
そしてこの先、ちょっと不思議な光景に出くわす。突然のように高架路線を走り始めるのだ。これまでの路線および風景が、のどかそのものだっただけに、その違いに驚かされる。そして烏江駅(からすええき)に到着する。
烏江駅はホーム一面の高架上の駅だが、養老線の中では異質な存在だ。そして牧田川、杭瀬川をわたり、大きく左へカーブ、再び地上へ降りていく。
なぜ烏江駅のみ高架駅となったのだろうか。実はこの烏江駅の近くを流れる川こそ、昔は揖斐川の本流が流れていた。そのため河川敷が広い。この川の改修工事をするにあたって、1997(平成9)年に高架化されたのだった。ちなみに、この高架区間では養老線で唯一、つなぎ目のないロングレールが使われている。
烏江駅の隣、友江駅から大垣市へ入る。大垣駅が近づくに連れて、沿線に住宅が増えてくる。東海道新幹線の高架橋をくぐれば、間もなく西大垣駅だ。
この西大垣駅では隣接する大垣車庫に注目したい。どのような車両が留置され、また整備されているか、鉄道ファンとしては見逃せない駅でもある。
【養老鉄道の謎⑨】大垣駅へスイッチバック区間が続く不思議
西大垣駅を発車した電車は間もなく、大きく右カーブを描き、大垣駅に近づいていく。すると左から1本の線路が近づいてくる。この線路は?
こちらは養老線の大垣駅〜揖斐駅区間の線路だ。そして約1kmにわたり、桑名駅から大垣駅へ向かう電車と、揖斐駅から大垣駅へ向かう電車が並走して走る。養老線の大垣駅はいわゆるスイッチバックの形となっているのだ。
養老線開業当初の地図を見ると、大垣駅の南側にはすでに市街があった。東海道本線の大垣駅は1884(明治17)年に市街の北端に設けられた。養老鉄道では路線を開業させるにあたり、市街を縦断することを避けた。そして都市化が進んでいなかった西側を回り込むように走るルートを選択したのだった。
乗車した電車は揖斐方面へ向かう線路と合流、1kmほど並走して大垣駅へ到着した。大垣駅は約16万人の人口を誇る大垣市の玄関口ということもあり、養老線の駅では最も賑わっている。最近、駅ビル「アスティ大垣」がリニューアルしたこともあり、食事処にも事欠かない。
養老線の大垣駅と駅ビル内にあるJR大垣駅は同じ場所ではないものの、専用の通路もあり、JR線との乗換もスムーズに行える。
養老線の大垣駅は1つのホームをはさむように線路が2本あり、南側の1番線が上り養老・桑名方面、2番線が下り池野・揖斐方面となっている。
桑名駅発の電車はほとんどが大垣駅止まりで、終点の揖斐駅までは行かない。そのため揖斐駅方面へ乗車する時には、大垣駅での乗換が必要になる。
養老線の大垣駅ホームに入ると、JR大垣駅のホームとの間に複数の留置線が設けられていることに気付く。養老線はJR東海道本線と線路幅が同じで、かつてこの付近に両線を結ぶ連絡線が設けられていた。
現在はそうした連絡線が取り除かれている。そのため、東急の7700系を導入した時には東海道本線を使っての車両輸送が行えず、横浜から西大垣まで一両ずつトレーラーを使って陸送された。
【養老鉄道の謎⑩】なぜ揖斐駅までの盲腸線が造られたのだろう?
さて養老線の大垣駅から終点の揖斐駅へ向けての旅を続けよう。
大垣駅からは前述したように、スイッチバックの構造となっている並走区間を戻るように走る。最初の駅は室駅。室とかいて「むろ」と読ませる。ちなみに1972(昭和47)年までは、桑名方面への線路上に、新室駅という駅があった。
新室駅と室駅が隣接していたこともあり、その当時は、大垣駅まで行かなくとも、両駅を使えば桑名行、揖斐行電車の乗換が可能だった。
室駅を発車した電車は大きく右にカーブ、間もなくJR東海道本線をくぐり抜ける。そして大垣の住宅地が広がる一帯を左右に見ながら進む。
大垣駅から3つめの東赤坂駅。この駅付近から左右に水田が広がりはじめる。ちなみに東赤坂駅の南側を通るのが旧中山道だ。この道を西にいけば旧中山道の宿場町、赤坂宿がある。
神戸町(ごうどちょう)、池田町と、大垣市郊外の水田地帯や町並みを見ながら24分で終点の揖斐駅へ到着した。この先に線路はもうない。
養老線は揖斐駅で行き止まり。先に線路が無く、接続する路線もないいわゆる盲腸線となっている。なぜ、養老線は揖斐駅まで路線が敷かれたのだろうか。そこには創業者たちの遠大な計画が隠されていた。
揖斐駅から先は建設されなかったものの、当初、南は桑名駅から四日市まで路線を延ばし、北は福井県の敦賀を結ぶ路線計画が立てられていた。貨物輸送により太平洋側と日本海側を結ぼうとしたわけである。岐阜県内のローカル線には、実はこうした日本海側を目指した路線が複数ある。大垣駅を起点とした樽見鉄道、そして国鉄の越美南線(現・長良川鉄道)。結局のところ、それらの路線は“夢物語”にみな終わってしまったものの、先人たちの夢はなんとスケールが大きかったことだろう。
現在は、通勤・通学に活用される養老線ながら、大正期の鉄道人たちのロマンが感じられ、何とも大らかな気持ちにさせられた。
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