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2020/6/7 21:05

今は珍しい「鉄道絵葉書」で蘇る明治〜昭和初期の東京の姿

【蘇ると東京の風景②】当時の風俗や交通状況が見てとれる

明治期には、風景を見せるという主旨の絵葉書が多かった。そうした傾向が、大正時代に入ると、きれいな風景だけでなく、風俗や、ごく日常の風景を紹介する絵葉書が増えていく。

 

銀座通りの絵葉書もこうした傾向が色濃くなる。2枚の絵葉書を見てみよう。いずれも、現在の和光と銀座三越がある銀座四丁目交差点付近だ。

↑銀座四丁目交差点を市電が行き交う。電柱には広告看板が掲げられ、先に人力車の姿も見える。左は服部時計店の建物。車両は1653形

 

↑大正後期の銀座四丁目交差点。2扉の1471形に多くの人が乗り込む様子が写る。ボンネット型のバスも並走している

 

2枚の銀座四丁目の絵葉書。いずれも大正中期以降の絵葉書と推測される。路面電車はすでに東京市電局が運行する路線となっていた。車両は2扉車1471形(大正4年から製造)と、3扉車の1653形(大正8年から製造)が写り込む。電車にカンカン帽をかぶり乗車する人の服装が、当時の風俗を偲ばせる。通りを走る乗り物も人力車に、路線バスと当時の鉄道以外の交通の歴史を伝えている。

 

【蘇る東京の風景③】内職仕事として色付けされていた絵葉書

これまで見てきた絵葉書にはカラーとモノクロの2通りの絵葉書があった。さてカラー印刷は、どのぐらい古くからあったものなのだろうか。

 

カラー印刷の歴史は意外に古い。明治末期にはカラーで印刷された広告ポスターがお目見えしている。とはいうものの、安価な絵葉書にはカラー印刷が可能になるのは大正中期ぐらいからとなる。では、明治期〜大正初期の色が付いた絵葉書はどのように作られていたのだろう。

 

この時代のカラーの絵葉書は手彩色(「てさいしき」、または「しゅさいしき」「てさいしょく」)絵葉書 と呼ばれる。文字どおり、手で彩色していた。彩色するのは家庭の主婦が多く、それこそ家庭内手工業として、一枚一枚、色付けしていた。手仕事のために、きれいな手彩色絵葉書と、多少、雑な手彩色絵葉書が残る。とはいえ風景を見て絵付けするわけではないだろうに、その適確な色付け方法と、細さに驚かされる。

↑上野公園付近を走る市電。同絵葉書は手作業で色付けされた手彩色絵葉書だ。細かな色の塗り分けに驚かされる

 

こうした手彩色の絵葉書は、モノクロ絵葉書に比べると、多少、値段も割高だったようだが、海外から訪れた人の人気が高く、今も海外の愛好家の手元に多くが残されている。

 

一時代を謳歌した手彩色絵葉書だったが、大正の中ごろになると、ぱったりと姿を消してしまう。カラー印刷の技術もあがっていき、人海戦術で作っていた彩色絵葉書も、その投資効果が薄れたということなのであろう。

 

【蘇る東京の風景④】絵葉書にも人気の定番スポットがあった

人気の撮影スポットがあるように、絵葉書にも定番スポットがあった。そうした定番スポットから撮影した絵葉書は、今も結構な枚数が残っている。東京では、どのような場所が鉄道絵葉書の定番スポットだったのだろう。

 

まずは四谷見附からの眺め。眼下を走る中央本線の列車、すぐ横に外堀、ちょうど正面に陸軍士官学校(現・防衛省市谷地区と陸上自衛隊市谷駐屯地)が見えた。ちなみに中央本線は甲武鉄道が敷いた路線で、1894(明治27)年に新宿駅から牛込駅(現・飯田橋駅)まで延ばされた。翌年には飯田町駅(廃駅)まで延ばされ、路線も複線化された。1904(明治37)年には、飯田町駅〜中野駅間の電化が完成している。

 

下記の2枚はそんな当時のものだが、現在では、四ツ谷駅付近の路線は立体交差化され、また外堀の上に建物が立ってしまって、同じ構図で写真を撮ることができなくなっている。

 

将校養成機関の陸軍士官学校という、当時のエリートが入学する学校が写り込むということも、この絵葉書の構図を決める上で、大きな要素だったのだろう。

↑東京名所と題された四谷見附からの眺め。明治期の手彩色絵葉書で、眼下に中央線のSL牽引列車が見える

 

↑大正期に入ってからの四谷見附。同区間は1904(明治37)年に電化されたが、絵葉書を見る限り電線が確認できないのがちょっと不思議だ

 

四谷見附と同じように定番スポットだったのが九段だった。

 

現在の靖国神社と九段下交差点の間は靖国通り(都道302号線)が走るが、坂の傾斜は今もきつい。急坂だったこともあり、当時の路面電車は坂をそのまま上り下りすることなしに、迂回するルートが設けられていた。今の北の丸公園に入る田安門付近から九段下方面を眺めると、ちょうど路面電車の線路が見えた。

 

同ルートは現在、道幅の拡張とともに路線は取り外され、元線路上には昭和館という博物館が建っている。当時を偲ばせるものといえば、牛ヶ淵(お堀)ぐらいになってしまった。

↑田安門付近から眺めた九段下。大正初期には、神保町方面をまで民家が立ち並ぶ様子が見える。手前に牛ヶ淵が広がる

 

↑手彩色でなくカラー印刷された九段坂の絵葉書。時代は大正末期と推測される。まだ九段会館などのビルが無かったころだ

 

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