【蘇ると東京の風景②】当時の風俗や交通状況が見てとれる
明治期には、風景を見せるという主旨の絵葉書が多かった。そうした傾向が、大正時代に入ると、きれいな風景だけでなく、風俗や、ごく日常の風景を紹介する絵葉書が増えていく。
銀座通りの絵葉書もこうした傾向が色濃くなる。2枚の絵葉書を見てみよう。いずれも、現在の和光と銀座三越がある銀座四丁目交差点付近だ。
2枚の銀座四丁目の絵葉書。いずれも大正中期以降の絵葉書と推測される。路面電車はすでに東京市電局が運行する路線となっていた。車両は2扉車1471形(大正4年から製造)と、3扉車の1653形(大正8年から製造)が写り込む。電車にカンカン帽をかぶり乗車する人の服装が、当時の風俗を偲ばせる。通りを走る乗り物も人力車に、路線バスと当時の鉄道以外の交通の歴史を伝えている。
【蘇る東京の風景③】内職仕事として色付けされていた絵葉書
これまで見てきた絵葉書にはカラーとモノクロの2通りの絵葉書があった。さてカラー印刷は、どのぐらい古くからあったものなのだろうか。
カラー印刷の歴史は意外に古い。明治末期にはカラーで印刷された広告ポスターがお目見えしている。とはいうものの、安価な絵葉書にはカラー印刷が可能になるのは大正中期ぐらいからとなる。では、明治期〜大正初期の色が付いた絵葉書はどのように作られていたのだろう。
この時代のカラーの絵葉書は手彩色(「てさいしき」、または「し
こうした手彩色の絵葉書は、モノクロ絵葉書に比べると、多少、値段も割高だったようだが、海外から訪れた人の人気が高く、今も海外の愛好家の手元に多くが残されている。
一時代を謳歌した手彩色絵葉書だったが、大正の中ごろになると、ぱったりと姿を消してしまう。カラー印刷の技術もあがっていき、人海戦術で作っていた彩色絵葉書も、その投資効果が薄れたということなのであろう。
【蘇る東京の風景④】絵葉書にも人気の定番スポットがあった
人気の撮影スポットがあるように、絵葉書にも定番スポットがあった。そうした定番スポットから撮影した絵葉書は、今も結構な枚数が残っている。東京では、どのような場所が鉄道絵葉書の定番スポットだったのだろう。
まずは四谷見附からの眺め。眼下を走る中央本線の列車、すぐ横に外堀、ちょうど正面に陸軍士官学校(現・防衛省市谷地区と陸上自衛隊市谷駐屯地)が見えた。ちなみに中央本線は甲武鉄道が敷いた路線で、1894(明治27)年に新宿駅から牛込駅(現・飯田橋駅)まで延ばされた。翌年には飯田町駅(廃駅)まで延ばされ、路線も複線化された。1904(明治37)年には、飯田町駅〜中野駅間の電化が完成している。
下記の2枚はそんな当時のものだが、現在では、四ツ谷駅付近の路線は立体交差化され、また外堀の上に建物が立ってしまって、同じ構図で写真を撮ることができなくなっている。
将校養成機関の陸軍士官学校という、当時のエリートが入学する学校が写り込むということも、この絵葉書の構図を決める上で、大きな要素だったのだろう。
四谷見附と同じように定番スポットだったのが九段だった。
現在の靖国神社と九段下交差点の間は靖国通り(都道302号線)が走るが、坂の傾斜は今もきつい。急坂だったこともあり、当時の路面電車は坂をそのまま上り下りすることなしに、迂回するルートが設けられていた。今の北の丸公園に入る田安門付近から九段下方面を眺めると、ちょうど路面電車の線路が見えた。
同ルートは現在、道幅の拡張とともに路線は取り外され、元線路上には昭和館という博物館が建っている。当時を偲ばせるものといえば、牛ヶ淵(お堀)ぐらいになってしまった。