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2020/6/28 18:30

迫力の富士山が出迎える「富士急行線」――とっても気になる10の秘密

おもしろローカル線の旅66 〜〜富士急行・富士急行線(山梨県)〜〜

 

富士山の北麓、山梨県内を走る富士急行線。「富士山に一番近い鉄道」を名乗るだけに、電車の内外から眺める富士山の姿は迫力そのものだ。

 

この富士急行線。乗車してみると、興味深いことが多く浮かび上がってきた。そんな富士急行線の気になる「秘密」を謎解きする旅を楽しんだ。

*取材・撮影は2019年12月末〜3月にかけて行いました。

 

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↑富士急行6000系は、元JR東日本の205系。写真はスイスのマッターホルン・ゴッタルド鉄道との姉妹提携25周年を記念したマッターホルン号

【富士急行線の秘密①】富士急行の先祖は馬車鉄道だった?

初めに、富士急行・富士急行線の概要を見ておきたい。

路線と距離富士急行・富士急行線/大月駅〜河口湖駅26.6km
*全線単線・1500V直流電化
開業1929(昭和4)年6月19日、富士山麓電気鉄道により大月駅〜富士吉田駅(現・富士山駅)間が開業、1950(昭和25)年8月24日、富士吉田駅〜河口湖駅間の開業で路線全通
駅数18駅(起終点駅を含む)

 

富士急行の歴史は1929年に始まったとされる。だが、実はもっと古い時代から、富士山麓には線路が敷かれていた。最初に線路が敷かれたのは1900(明治33)年9月のこと。下吉田〜籠坂峠(かごさかとうげ)間に都留馬車鉄道が馬車路線を敷いたのが始まりだった。籠坂峠は、静岡県との県境にある峠で、現在は国道138号が走る。標高1104mにもなる峠だ。

 

富士山は古くから信仰の山として、また富士山麓は富士講に訪れる人で賑わった。そうした観光客向けに馬車鉄道が敷かれたのだった。1903(明治36)年には、富士馬車鉄道が大月〜谷村本社(現・谷村町駅の近くに設けられた停留場)間の線路を敷設した。小沼(現・西桂町内の停留場)で都留馬車鉄道と接続したが両馬車鉄道の軌間の幅が異なり、直通運転ができなかった。

 

当時、籠坂峠を越えて静岡県側にも馬車鉄道が開通していたこともあり、馬車鉄道を乗り継げば、富士山麓を山梨県の大月から静岡県の御殿場まで抜けることが可能だった。とはいえ、馬の力を頼っての鉄道だったこともあり、時間がかかり、また急坂を登ることは苦難の連続だったことが推測される。馬車をひく馬にしても急坂を登るわけで、苦労の連続だったろう。

↑河口湖駅前のモ1形。富士山麓電気鉄道創成期の電車で、上田丸子電鉄へ譲渡された後に、富士急行が引き取り復元、展示している

 

馬車鉄道により始まった富士山麓の鉄道の歴史だが、富士急行のルーツでもある富士山麓電気鉄道となる前に前段階と呼べるような歴史が潜む。大正期に入り、都留馬車鉄道は都留電気鉄道に、富士馬車鉄道は富士電気軌道と名を改めている。後に、都留電気鉄道は富士電気軌道に譲渡された。1921(大正10)年10月には大月〜金鳥居上(かなどりいうえ/現・富士山駅)間の直通運転が開始された。

 

とはいえ、馬車鉄道の名残で、道路上を走る併用軌道線だった。路面電車タイプの車両が走っていて、現在よりもかなり時間はかかった。その後の1928(昭和3)年に富士電気軌道は、富士山麓電気鉄道に譲渡された。

 

富士山麓電気鉄道はスムーズな運行を実現するために、現在のルートに路線を変更、そして1929(昭和4)年6月19日に電車の運行が始められた。同時に併用軌道の路線は廃止された。

 

現在の富士山駅から、河口湖付近を通り、鳴沢まで向かう馬車鉄道「富士回遊軌道」もあった。こちらも富士山麓電気鉄道に1927(昭和2)年に譲渡されている。この富士回遊軌道という会社は無許可で馬車鉄道を走らせたという話もあり、どうも危うい鉄道会社だったようだ。こうして調べてみると、当時のこの地区の鉄道の謎がより深まったように感じた。

 

現在、「富士回遊」という名前の特急列車が河口湖駅まで乗入れている。この地域にあった馬車鉄道の名前そのものである。これは偶然の一致なのだろうか。

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