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2020/11/30 6:30

歴史好きは絶対行くべし!「近江鉄道本線」7つのお宝発見の旅【前編】

おもしろローカル線の旅72 〜〜近江鉄道本線(滋賀県)その1〜〜

 

古めの西武電車が好きな筆者にとって、近江鉄道への旅は“聖地巡礼”のようなものである。すでに何度となく訪ねたが、今回は違う側面から見たら面白いのでは。例えば歴史探訪とか。そうした思いつきから沿線を訪ねてみた。

 

すると予想以上に古い歴史スポットが発見できた。これまで何度も訪ねた駅にさえ、新たな発見があり新鮮に感じられたのだった。

*取材撮影日:2016年10月9日、2019年12月14日、2020年11月3日ほか

 

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【お宝発見その①】鳥居本駅そばに中山道の宿場町があった

近江鉄道本線は、JR東海道新幹線・東海道線、北陸線との接続駅、米原駅を起点にJR草津線の貴生川駅(きぶかわえき)まで走る路線だ。今回は特に印象的な発見があった駅の話から始めてみよう。

 

鉄道ファンがそのレトロな駅舎に魅かれて、訪れることが多いのが鳥居本駅(とりいもとえき)だ。米原駅から2つめの駅である。1931(昭和6)年に建てられた洋風の小さな駅舎が残っていて、2013(平成25)年には国の有形文化財に登録されている。

↑戦前の洋風駅舎がそのままの姿で残る鳥居本駅。駅構内には貨物ホームも残り、1988(昭和63)年まで貨物輸送が行われていた

 

筆者も何度か訪れている“お気に入り”の駅だ。これまでの探訪では駅舎を見て、また駅の周りをぶらぶらして時間をつぶして次の電車に乗って帰るのみだった。ホームそして駅舎内に周辺の観光施設など、案内がなかったせいもあったのだろう。ある意味、利用者には素っ気がない造りの駅でもあった。

 

しかし、駅前に国道8号(中山道/なかせんどう)が横切っている。ということは江戸時代の五街道の一つ、中山道の宿場町がどこか近くにあるのかな、と思って調べると。すぐ東側の細い通りが古い中山道にあたり、このあたりは中山道六十九次、江戸・日本橋から数えて63番目の宿場町、鳥居本宿(とりいもとじゅく)そのものだった。

 

まさに“灯台下暗し”そのもの。お宝が近くにあったのである。何度か来ていたのにもかかわらず、気が付かないとはなんともうかつだった。

↑鳥居本宿に残る有川薬局は明治天皇が小休止されたところ。鉄道が走る前は地位の高い人でさえ輿に乗って宿場を巡る旅をされたわけだ

 

現在の鳥居本宿は、観光地化されておらず、訪れる人もあまりいない。逆に観光地になっていない分、素朴なたたずまいが、旧中山道沿いに残り、のんびり歩くのにぴったりだった。

 

ちなみに、宿場には旅人に合羽(かっぱ)を商う15軒の合羽所があったという。この先の旅路で越える木曽地方は雨が多い地域で、旅人はこの先の備えとして、この宿場町で合羽を購入し、旅支度をしたそうである。

 

【お宝発見その②】彦根は城跡よりも佐和山の方が気にかかる

↑市内から望む彦根城。明治時代に廃城とならず貴重な“現存天守”が残る。天守と櫓などが国宝に、馬屋など重要文化財に指定される

 

近江本線の鳥居本駅と彦根駅の間には、小さな尾根がそびえていて、その下をトンネルが通っている。そのトンネルの名前は「佐和山トンネル」。歴史好きならば、佐和山と聞けば、ピンと来る方も多いことだろう。そう、豊臣政権を支えた石田三成の居城があったところである。彦根市の佐和山の上に建っていたとされる佐和山城がそのお城だ。

 

ということで彦根駅を降りてまずはJRの駅にあった彦根市内の案内図を見る。有名な井伊家の居城、彦根城の案内はあるのだが、佐和山城という名称は、地図内にない。あれれ?

 

彦根駅の東西自由通路から見える山がある。実はこの山こそが佐和山であり、この山に佐和山城趾があったのだ。何度か下車していながら、筆者はこのことをうかつにも気付かなかった。

↑東西自由通路からは近江鉄道の車両基地をはさみ、右手すぐのところに佐和山がそびえている。ここに石田三成の居城があったとは

 

佐和山城の歴史を調べるとかなり古い。12世紀には近江守護職を務める佐々木家が築城し、その後に六角氏、浅井氏、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴と城主が変っていく。戦国時代の歴史書には必ず名前が出てくるそうそうたるメンバーである。そして1591年には石田三成が城主となった。近江を治め、また東海中部方面へにらみをきかせるのにうってつけの場所だったのだろう。

 

その後に石田三成は関ヶ原の戦いで敗れたことにより、佐和山城には徳川四天王の1人、井伊家が入城する。すでに乱世の時代が終わっていたことから、井伊家は山を降りる形で彦根城を築城、そこが井伊家の居城となった。その時に佐和山城は廃城となり、残っていた建造物は跡形もなく取り壊され、城は姿を消した。よって、いま山を登っても何もなく、麓には石田三成の屋敷があったとされるが、こちらも石碑のみとなっている。

 

筆者はつい判官びいきをしがちな性格である。よって彦根城趾と、佐和山の現在の差を見ると何とも偲びがたい。彦根駅で見た地図のように佐和山城がほぼ忘れ去られているようにも感じられ、寂しさを覚えた。そんな佐和山の下を近江鉄道本線がくぐって走っていようとは。それを気付き、また興味深く感じた。

↑佐和山のすぐ近くを走る近江鉄道の新型300形電車。この線路の先で、佐和山の下をくぐる佐和山トンネルがある

 

【お宝発見その③】今や近江鉄道本線そのものがお宝だと思う

ここで近江鉄道本線の概要を見ておきたい。

路線と距離近江鉄道本線/米原駅〜貴生川駅47.7km
*全線単線・1500V直流電化
開業1898(明治31)年6月11日、近江鉄道により彦根駅〜愛知川駅(えちがわえき)間が開業、1931(昭和6)年3月15日、米原駅〜彦根駅の開通で現・近江鉄道本線が全通
駅数25駅(起終点駅を含む)

 

近江鉄道の会社の創立は1896(明治29)年と今から120年以上も前のことになる。当時、琵琶湖の東岸には1889(明治22)年に、東海道線の膳所駅(ぜぜえき)〜米原駅間が開業していた。また1889(明治22)年に関西鉄道により草津駅〜三雲駅間が開業。さらに翌年には柘植駅(つげえき)をへて、四日市駅までも路線が延伸された。現在の草津線、関西本線にあたる路線の開業だった。

 

こうした路線開業に刺激され、まだ鉄道が通っていない地域に鉄道路線を、と旧彦根藩士や近江商人が寄り集まって鉄道計画を立ち上げた。とはいえ、旅客以外に地元の農産物を運ぶ程度の貨物利用ぐらいしか見込めず、経営基盤は脆弱だったとされる。まずは1898(明治31)年6月11日に彦根駅〜愛知川駅間を、同年7月24日に愛知川駅〜八日市駅間を開業させた。営業を始めたものの、経営状態は厳しく、その後の路線延伸が危ぶまれたが、1900(明治33)年10月1日に八日市駅〜日野駅間が、同年の12月28日に日野駅〜貴生川駅間が開業している。

 

米原駅〜彦根駅間の開業は1931(昭和6)年3月15日と、かなり後のことになる。区間開業ながらも彦根駅〜貴生川駅間は明治時代に開業した歴史ある路線なのである。

 

ちなみに近江鉄道の八日市線は新八日市〜近江八幡駅間が1913(大正2)年12月29日に。また多賀線の高宮駅〜多賀大社前駅間が1914(大正3)年3月8日に開業している。

 

近江鉄道は創業時から、この会社名を名乗っている。こうした私鉄は非常に珍しい。国土交通省鉄道局が発行している鉄道要覧で確認しても、現在も列車を走らせている鉄道会社のうち、近江鉄道は最古級の歴史を持つ。

 

とはいえ経営基盤は弱く、開業早々に財務整理案が持ち上がるなど、苦難の連続だった。その後には関西鉄道に合併を持ちかけ、また主要路線の国有化が進められた時代には国有化を請願したが、受け入れられることはなかった。その後には滋賀県内の電力供給を行う宇治川電気の傘下にはいり、米原駅まで路線の延伸を行う。当時はその先、三重県の伊勢神宮まで路線を延ばす遠大な計画まで立てている。

 

宇治川電気の傘下だった時代は長く続かなかった。宇治川電気が太平洋戦争中に電力事業の戦時統制令で消滅してしまったためである。その後は西武グループの大元となった箱根土地の傘下に入った。西武鉄道の創業者、堤康次郎は近江鉄道沿線の出身だった(愛荘町下八木/最寄り駅は愛知川駅)。故郷に自らが築いた西武鉄道が関係する企業を持ちたかったのだろうか。以降、近江鉄道は現在に至るまで西武鉄道グループの一員となっている。

 

大手私鉄のグループ内の一企業とはいうものの、ここ最近は長年にわたり鉄道事業は赤字で、2016年には「単続経営での運営は困難」と滋賀県に申し入れを行っている。県や自治体との法定協議会が開かれ、他の交通手段よりも、近江鉄道を存続させた方が賢明、という結論が出たこともあり、一応は存続が決まっている。

 

120年以上、その名前が続いてきた鉄道会社であり、湖東地方の人々の暮らしを支える公共交通機関として、この路線自体もお宝と言って良いだろう。

 

なお近江鉄道の路線は、2013年3月以降に愛称が付けられている。米原駅〜多賀大社前駅までは「彦根・多賀大社線」、高宮駅〜八日市駅間が「湖東近江路線」、八日市駅〜貴生川駅間が「水口・蒲生野線」、八日市駅〜近江八幡駅間が「万葉あかね線」という名称だ。各路線にはラインカラーも設定されている。名付けられた愛称は、各区間の沿線の歴史、観光スポットや特色に由来するとしている。すでに7年たっているが、4区間とは異なる運行区間を走る列車が多い(万葉あかね線を除く)。観光で訪れた者にとっては、かえって分かりづらいように感じてしまうのだった。

 

【お宝発見その④】西武電車好きとしてはお宝級の車両がずらり

走る電車は西武グループの一員ということもあり、すべてが西武鉄道の譲渡車両がしめる。その形式を紹介しておこう。

 

◇800系

11編成22両が在籍する。元西武鉄道の401系で1991(平成3)年から1997(平成9)年にかけて譲渡された。西武時代には正面が平面な切妻タイプだったが、近江鉄道に入線後は、3枚ガラス窓に改造されている。塗装は黄色一色が基本だが、企業などの広告ラッピングを施した編成も走る。

↑黄色一色で走る800系は在籍車両数も多く近江鉄道の主力車両となっている。改造された正面のガラス窓3枚が特徴となっている

 

◇820系

2編成4両が在籍する。800系と同じく種車は西武401系だが、こちらは車体の四スミの角を削った“切り欠け改造”と、正面に付けていたステンレス板を外すという改造箇所も少なめで、西武401系のオリジナルな姿を色濃く残している。2編成のうち、822編成は、2016(平成28)年に近江鉄道の創立120周年ということで赤電塗装に塗り替えた。赤電塗装は西武電車が1960年代から70年代にかけて取り入れた赤を基本にした車体カラーのことを指す。

↑820系の1編成のみ、西武のレトロカラー赤電塗装に塗られ近江路を走り続けている。正面にはサボも取り付けられ種車の趣満点だ

 

◇100形(2代目)

5編成10両が導入される。西武では新101系および301系で改造した上で2013年から2018年にかけて導入した。塗装は琵琶湖をイメージした水色(オリエントブルー)に白帯で、トップナンバーの101編成のみ「湖風号」の愛称とロゴが付けられている。新101系は西武鉄道でもまだ現役ということもあり、そんなに古さは感じさせない。

 

◇900形

2013年に導入した形式で、種車は100形と同じく新101系。当初は埼玉西武ライオンズのチームカラー、レジェンドブルーに塗られていたが、2019年に塗り替えられ、ベージュベースに水色、赤帯の「あかね号」塗装に塗り替えられている。この車両はロングシートがメインだが、連結器側にクロスシートが設けられ、臨時列車、イベント列車としても使われている。

↑八日市駅に並ぶ900形「あかね号」と100形(右)。元の車両はどちらも西武新101系だが、100形は水色に白帯の塗装で統一されている

 

◇300形

2020年8月から走り始めた新車両で1編成2両のみが走る。元は西武の3000系で、自社の彦根電車区で改造された。塗装は100形と同じ水色(オリエントブルー)だが、こちらには白帯が付かず、水色一色となっている。近江鉄道初の白色LED行先表示器や、車内案内表示装置などを付け、新しいイメージの電車に仕上がっている。なお、彦根の車両基地には、元西武3000系が数両、留置されており、改造待ちの様子。徐々にこの300形に改造され、古い800系に代わって行くものとみられる。

 

いずれにしても西武電車が好きなファンには興味をそそる車両構成だ。週末になると、近江鉄道に乗車する鉄道ファンらしき姿が多いが、その中に、首都圏からの遠征組が見受けられるのも、うなずけるところだ。

 

【お宝発見その⑤】鉄道史で欠かせない重要な試験電車を見ながら

今回は、途中駅のぜひ訪れてみたい歴史スポットを先に記述したが、ここから沿線のレポートをしていくことにしよう。特に沿線のお宝に注目したい。

 

近江鉄道本線の起点は米原駅である。米原は言わずもがなだが、交通の要衝の駅だ。東海道新幹線の滋賀県内唯一の駅、米原駅がある。東海中部・関西方面からは東海道線が、北陸方面から北陸線が合流する。よって、近江鉄道の電車だけでなく、JRの車両もJR東海、JR西日本、さらにJR貨物の電気機関車に牽かれた貨物列車が多く停車し、また出発していく。なかなか賑やかで、この様子も見ているだけでも楽しい。

 

近江鉄道のホームは一番、南側にあり、1・2番線ホームがある。面白いことにJR米原駅には1番・4番線がないが、これは近江鉄道のホームに1番を振り分けたわけでなく、あくまで1番は欠番で、貨物列車が通過する線路となっている。

↑近江鉄道本線の米原駅の2番線側から望む。すぐ横に米原湊跡の碑(左下)が立つ。鉄道開通までは琵琶湖への運河があり舟運で栄えた

 

近江鉄道の電車はJRに隣接する側の1番ホームから発車することが多い。下り列車は6時0分発〜22時51分発までで、平日は朝7時〜9時台1時間に2本、夕方17時台が1時間に3本。土・休日は7時〜8時台が1時間に2本、17時台が1時間に2本となる。行先は彦根行、近江八幡行、貴生川行と様々だが、割合として日中は貴生川駅行が、朝夕は彦根行、貴生川行が多めとなっている。

 

近江鉄道本線の全線で見ると列車は彦根駅〜近江八幡駅間が比較的、本数は多めだが、それでも日中は1時間に1本と少ない。そうしたパターンを考慮して、旅行する時は、行動予定を決めることが賢明と言えそうだ。

 

さて、米原駅を発車した電車はしばらく東海道線と並んで走る。右手には東海道線を走る貨物列車などが、発車待ちをする姿が見受けられる。そして左手には鉄道総合技術研究所の風洞技術センターがある。ここにはJRグループの歴史的な新幹線車両が静態保存されている。新車開発のために試作した試験車両たちで、近江鉄道の電車の中からも良く見える。通常はセンター内には立ち入ることができないが、秋の公開日には親子連れが賑わうところだ。

↑鉄道総合技術研究所・風洞技術センターに保存される試験車両。左からJR東海955形、JR東日本952形、JR西日本500系900番台が並ぶ

 

米原駅の次の駅はフジテック前駅で、駅名どおり企業の建物が近くに見える。電車は左手にほぼ国道8号に沿って走っている。この道こそ前述した中山道で、鳥居本駅のそばには鳥居本宿がある。

 

鳥居本駅を過ぎると、右カーブし、東海道新幹線の高架をくぐり、山中へ。そして佐和山トンネルと抜ける。トンネルを抜ければ彦根駅も近い。

 

【お宝発見その⑥】高宮駅、愛知川駅も中山道の宿場町そばの駅

彦根駅は左手に車両基地がある。ここには近江鉄道の事業用車を含めさまざまな車両が留置されている。かつては旧型電気機関車が保存され「近江鉄道ミュージアム」として週末を中心に公開されていたが、すでに2018年12月8日をもって閉館、保存されていた電気機関車も多くが残念ながら廃車となってしまった(詳細は次週に)。近江鉄道の彦根駅は1・2番線ホームがあり、彦根駅止まりの電車でも、対面するホームに、先へ向かう電車が停まっていることが多く、すぐに乗換えできて便利だ。

 

彦根駅を発車した電車は、しばらく東海道線と並走して走る。隣のひこね芹川駅(ひこねせりかわえき)は同線では最も新しい駅で2009(平成21)年に誕生した。次の彦根口駅で、東海道線から離れ左カーブ、高宮駅へ向かう。高宮駅は多賀線が分岐する駅だ。多賀線の紹介は、次週に行うとして、ここでは駅を降りてぶらぶらしてみよう。

↑高宮宿にある多賀大社の一の鳥居。1635年の建立で県指定文化財となっている。たもとには高さ6mの常夜灯があり13段の石段がある

 

高宮駅は降りたら200mも行かないところに旧中仙道が通る。そして駅に近いあたりが高宮宿にあたる。高宮宿は江戸から数え中山道の64番目の宿場町にあたる。高宮宿はなかなか盛況だったようで、19世紀中ごろには本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒があったとされる。特産品の麻織物、高宮布は近江商人によって商われ、出荷の拠点となっていた。同宿場町内には今も大鳥居が立つが、これは近江鉄道多賀線の終点駅、多賀大社前駅の近くにある多賀大社の一の鳥居だ。

 

さて高宮宿を散策した筆者。次の電車まで1時間をどう過ごそうか、悩んでしまった。駅で電車を待って過ごすよりも、昔の旅人と同じように、次の愛知川宿(えちがわじゅく)まで歩いてしまえと考えた。そして歩き始めたのだが。

 

近江鉄道本線の高宮駅から愛知川駅(えちがわえき)の間には途中に尼子駅(あまごえき)、と豊郷駅(とよさとえき)と2つの駅がある。距離はちょうど8kmあった。宿場町の距離もほぼ同じで、約2里にあたる。さて、簡単に8kmというものの、歩けど歩けど、次の宿場らしきものはない。まさに後悔先に立たず。だが、一つ勉強もできた。

 

旧中山道の途中にある豊郷町(とよさとちょう)でのこと。伊藤長兵衛屋敷跡という立派な石碑が立っていた。この碑文を読んでいると、伊藤忠兵衛という人物の実家だった。さらに読むと伊藤忠兵衛なる人物は、伊藤忠と丸紅という2つの大手総合商社の創業者だったのである。伊藤忠という会社名は伊藤忠兵衛が立ち上げた会社だったからだった。

 

地元の高宮も麻織物が特産とある。伊藤忠兵衛は、こうした麻布類や織物に注目して扱い、そして財をなしていった。無謀だと思えた宿場町歩きにより、近江の宿場と、中山道、伊藤忠が結びついていたことを知った。晩年、伊藤忠兵衛は故郷、現在の豊郷町(当時は豊郷村)の村長も務めた。旧中山道沿いには伊藤忠兵衛記念館もある。近江商人の一人が起業し、その意思を引き継いだ人たちによって世界的な企業に育てられていったわけである。

↑高宮駅の南から愛知川駅まではほぼ東海道新幹線と平行して走る。新幹線の車内からも眼下に近江鉄道本線の電車が良くみえる

 

高宮宿から65番目の中山道、愛知川宿までは約8kmの道のり。約2時間かけて歩き通したが、後で振り返れば実りある時間だった。ウォーキングの気分で歩いてみてはいかがだろう。

 

ただし、旧中山道は国道8号の裏道として、通行するクルマが多い。細い通りを制限以上のスピードで飛ばす車両もあって、このあたりだけがあまりの気持ちの良いものではなかった。通過するクルマには充分に注意して歩いていただきたい。

↑愛知川宿には写真のようなゲートがある。同宿場では「びん細工手まり」という愛知川宿独特の伝統工芸品が造られている

 

【お宝発見その⑦】五箇荘駅からは謎の線路跡が南に延びる

愛知川宿から近江鉄道の愛知川駅はほんの200mあまり。駅にはコミュニティハウスもあり、観光案内所もかねている。次の五箇荘駅(ごかしょうえき)も鉄道好きには気になるポイントがある。

 

ちょうど五箇荘駅の南で、東海道新幹線の高架橋が近江鉄道本線の上を通る。そのあたりから、謎の引込線が。鉄道要覧等にも記載がないが、かつては東側を流れる愛知川岸まで線路が敷かれていた。河畔に西武グループの関連会社である西武建設の砂利採取場があり、そこへ向う引込線が敷かれていたのだった。今は途中で線路が途切れているが、線路上の雑草は、刈り取られていて、架線柱や架線も残っている。

↑近江鉄道本線から離れ愛知川の河畔に向かう通称、五箇荘駅バラスト積載線。架線柱や架線も張られたままとなっている

 

五箇荘駅バラスト積載線とも呼ばれるこの路線、廃線ではなく、バラストやレールの積み込みに使われている路線だ。とはいえ運転の頻度は非常に少ない。地元在住の鉄道ファンから時々、目撃情報がもたらされるぐらいのものとなっている。バラスト・レール輸送に使われるのは、以前に旅客用にも使われていた220形電車で、後ろにバラスト散布用のホッパ車を数両連結して走る様子が報告されている。いずれにしても目撃例も少なく、非常に気になる線路だ。

↑東海道新幹線からも見えるこの引込線。自分も通るたびに目をこらしているが、これまで列車が通る姿を見たことがない

 

さて五箇荘駅の次は田園の中の駅、河辺の森駅だ。こちらは2004(平成16)年開設とまだ新しい駅だが、駅前から住宅地まで離れていて、一日の乗降客も10人前後と少ない。駅前後、左右の田園風景を眺めつつ八日市駅に到着した。

 

今回の近江鉄道本線の旅は、見どころ・お宝が多くここで終了。次週、2回目として八日市駅から先と多賀線をレポートしたい。