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2020/12/8 6:45

歴史好きは絶対に行くべし!「近江鉄道本線&多賀線」6つのお宝発見の旅【後編】

おもしろローカル線の旅73 〜〜近江鉄道本線・多賀線(滋賀県)その2〜〜

 

近江鉄道の沿線には隠れた“お宝”がふんだんに隠れている。こうしたお宝が、あまりPRされておらずに残念だな、と思いつつ沿線を旅することになった。今回は近江鉄道本線の八日市駅〜貴生川駅(きぶかわえき)間と、多賀線の高宮駅〜多賀大前駅間の“お宝”に注目してみた。

*取材撮影日:2015年10月25日、2019年12月14日、2020年11月3日ほか

 

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歴史好きは絶対行くべし!「近江鉄道本線」7つのお宝発見の旅【前編】

 

【はじめに】京都に近いだけに歴史的な史跡が数多く残る

近江鉄道は前回に紹介したように、1893(明治26)年に創立された歴史を持つ会社だ。現在は西武グループの一員となっており、元西武鉄道の車両が多く走る。

 

路線は、近江鉄道本線・米原駅〜貴生川駅間47.7kmと、多賀線・高宮駅〜多賀大社前駅2.5km、さらに八日市線・近江八幡駅〜八日市駅間9.3kmの3路線がある。八日市線を除き、経営状況は厳しい。主要駅をのぞき、駅の諸設備などの整備まで行き渡らないといった窮状が、他所から訪れた旅人にも窺えるような状況だ。

とはいえ、沿線には見どころが多い。特に史跡が多く残る。京都という古都に近かったことも、こうした歴史上の名所が多く残る理由と言えるだろう。PRがなかなか行き渡っていないこともあり、そうした隠れた一面に目を向けていただけたら、という思いから近江鉄道本線の紹介を始めた。その後編となる。

 

今回は近江鉄道本線の八日市駅〜貴生川駅間の紹介と、さらに短いながらも、多賀大社という古くから多くの人が訪れた神社がある多賀線にも乗車した。終点の多賀大社前駅から歩くと、予想外の車両にも出会えた。

 

【お宝発見その①】八日市駅に下車したらぜひ訪ねたい近江酒造

↑1998(平成10)年にできた八日市駅の新駅舎。2019年には2階に近江鉄道ミュージアムが開館した

 

八日市駅は八日市線の乗換駅でもあり、近江鉄道本線でも最も賑わいが感じられる駅だ。また東近江市の玄関駅でもある。駅前からは多くのバスが発着、駅近くにはビジネスホテルも建つ。駅舎内には近江鉄道ミュージアム(入場無料)があり、同鉄道の歴史や名物駅の紹介、さらにトイトレイン運転台、運転席BOXなどがあり、電車の待ち時間を過ごすのにもうってつけだ。

↑八日市駅構内に並ぶ800系。同駅では近江鉄道本線から八日市線への乗換え客で賑わう。800系は写真のように広告ラッピング車も多い

 

八日市駅で行くたびに寄りたいと思っているのが近江酒造の本社だ。駅から徒歩14分ほどの距離にある。2019年の12月に1両の電気機関車が運び込まれた。元近江鉄道のED31形ED31 4である。

 

ED31 4は、近江鉄道では彦根駅に隣接したミュージアムで多くの電気機関車とともに静態保存されていた。静態保存といっても、維持費がかかる。経営状態の芳しくない近江鉄道としては、本来は残しておきたい保存機群であったが、背に腹はかえられずという状態になった。

↑彦根駅に隣接する近江鉄道ミュージアムで保存されていた時のED31 4。今は八日市駅に近い近江酒造本社で保存される

 

ED31形は1923(大正12)年に現在の飯田線の前身、伊那電気鉄道が発注し、芝浦製作所(現在の東芝)が電気部分を、石川島造船所が機械部分を製造した電気機関車だ。当時の形式名はデキ1形機関車だった。同路線を国鉄が買収後、国鉄をへて、一部の車両は西武鉄道を経て、または直接、近江鉄道へ譲渡されている。近江鉄道ミュージアムでは5両が保存展示されていたが、2017年暮れまでにED31 3とED31 4を除き解体された。

 

日本の電気機関車の草創期の歴史を残す車両ということもあり、ED31 4は、地元の大学の有志が中心となりクラウドファンディング活動を行い残す活動を行った。めでたく目標額に到達し、その後に移転され近江酒造の敷地内で保存されることになった。手前味噌ながら、筆者もわずかながら活動に助力させていただいた。ちなみにED31 3は東芝インフラシステムズ引き取られ“里帰り”を果たしている。

 

日本の国産電機機関車としては、それこそお宝級の電気機関車であり、この保存の意味は大きいと思う。筆者は平日には訪れることがなかなか適わないが、今度はぜひ近江酒造本社が営業している平日の日中に訪れて、ED31 4との対面を果たしたいと思っている。

 

【お宝発見その②】水口石橋駅近くには東海道の宿場町がある

さて八日市駅から近江鉄道本線の旅を進めよう。本線の中でも八日市駅〜貴生川駅間は閑散度合が強まる。そのせいもあり、朝夕を除き9時〜16時台まで1時間1本と列車の本数が減る。長谷野駅(ながたにのえき)、大学前駅、京セラ前駅と南下するに従い、田園風景が目立つようになる。桜川駅、朝日大塚駅、朝日野駅と見渡す限りの水田風景が続き、車窓風景もすがすがしい。

 

日野駅は地元、日野町の玄関口にあたる駅。ここで上り下り列車の行き違いのため、時間調整となる。この日野駅の紹介は最後に行いたい。

 

日野駅を発車すると、しばらく山なかを走る。そして清水山トンネルを徐行しつつ通り抜ける。次の水口松尾駅までは約5kmと、最も駅間が長い区間だ。

↑水口宿の中心部にある鍵の手状の町並み。手前から中央奥に東海道が延びる。からくり時計があり、時を告げる動きに多くの人が見入る

 

水口松尾駅(みなくちまつおえき)から先の駅はみな甲賀市(こうかし)市内の駅となる。特に水口石橋駅と水口城南駅は立ち寄りたい “お宝”がある。近江鉄道本線は八日市駅の北側では中山道に沿って敷かれていたが、この甲賀市では、路線と江戸五街道の一つ、旧東海道が交差している。

 

ということで水口石橋駅を下車して、東海道へ向かってみた。本当に駅のすぐそばに宿場町があった。東海道五十三次の50番目の宿場、水口宿(みなくちじゅく)である。近江鉄道の東海踏切の東側にあった。ちょうど道が三筋に分かれた鉤の手状の町並みが特徴となっていた。

 

道は細いが古い宿場町の面影が色濃く残る。さらに時をつげるからくり時計があり、ちょうど訪れた時には観光客が集まり、からくり時計の動きに見入っていた。この訪れた人たちは、多くが車利用の観光客なのであろう。電車を利用する人がもう少し現れればと残念に思えた。

 

【お宝発見その③】水口城にはどのような歴史が隠れているのか

水口宿の付近は、かつて水口藩が治めていた。小さめながらも水口城という城跡が残る。宿場からは水口城趾へ向けて歩いてみた。水口藩は小藩で、藩の始まりは豊臣政権までさかのぼる。当時は五奉行の1人、長束正家(なつかまさいえ)が5万石で治めていた。その後に幕府領となった後に、賤ケ岳の七本槍の一人とされる加藤嘉明(伊予松山藩の初代藩主)の孫、加藤明友(かとうあきとも)が水口城主となった。城は明友が立藩当時に整備された城である。

 

水口藩はその後に、一時期、鳥居家が藩主となるが、再び加藤家が加増され2万5千石の藩主となり、明治維新を迎えている。城は京都の二条城を小型にしたものとされる。石垣と乾矢倉(いぬいやぐら)が残り、水口城資料館があり公開されている(有料)。ちなみに維新後は、城の部材はほとんどが民間に払下げされ、その一部は近江鉄道本線の建設にも使われた。水口城が意外なところで近江鉄道の開業に関わっていたわけだ。

↑堀と石垣、そして乾矢倉が残る。2万5千石の小藩だけに規模は小さめだが、コンパクトで美しくまとまって見えた

 

水口城からは近江鉄道の駅が徒歩約2分と近い。駅の名前は水口城南駅(みなくちじょうなんえき)。城の南にあり駅名もそのままずばりである。

 

水口城南駅から近江鉄道本線も終点まで、残すはあと1駅のみ。駅間には野洲川(やすがわ)がある。ちなみに下流で琵琶湖に流れ込むが、琵琶湖に流れ込む川としては最長の川にあたる。野洲川を渡り甲賀市の市街が見え、左カーブすれば貴生川駅に到着する。貴生川駅ではJR草津線と信楽高原鐵道線と接続していて、自由通路を上ればすぐに他線の改札口があり乗換えに便利だ。

↑近江鉄道の貴生川駅のホームは北側にあり自由通路でJR線、信楽高原鐵道と結ばれている。駅にはちょうど820系赤電車が停車していた

 

【お宝発見その④】多賀線のお宝といえば多賀大社は外せない

ここからは多賀線を紹介しよう。多賀線は近江鉄道本線の高宮駅と多賀大社前駅を結ぶわずか2.5kmの路線で、1914(大正3)年3月8日に開業した。近江鉄道本線の高宮駅が1898(明治31)年6月11日に開業しているのに対して、16年ほどあとに路線が開業している。

 

とはいえ当時、経営があまり芳しくなかった近江鉄道にとって、多賀線の開業は経営環境を好転させる機会となったとされる。これは多賀大社前駅に近くにある多賀大社のご利益そのものだった。多賀大社に参詣する人により路線は賑わいを見せたのだった。

↑高宮駅3番線が多賀線のホーム。駅構内で急カーブしている。改良前まではカーブに対応するため車体の隅が切り欠け改造された(右上)

 

多賀線の起点となる高宮駅は1、2番線ホームが近江鉄道本線用で、2番線ホームで降りると向かいの3番線ホームに多賀大社前駅行きの電車が停まっている。この3番線は線路が急カーブしていて、この急カーブに合わせてホームが造られている。これでもカーブ自体、緩やかに改造されたそうで、改造前までは、車体の隅を切り欠け改造した電車しか入線できないほどだった。

 

急カーブのホームということもあり、電車とホームの間のすき間が開きがちに。足元に注意してご乗車いただきたい。さて多賀線の電車は、彦根駅方面からの直通電車もあるものの、大半は高宮駅と往復運転する電車となる。わずか2.5kmの短距離路線の多賀線。発車すると間もなくスクリーン駅に到着する。

 

スクリーン駅は、ホーム一つの小さな駅で、企業名がそのままついた駅だ。2008(平成20)年3月15日の開業で、駅名となっているSCREENホールディングスが開設費用を負担したことによって誕生した。目の前に事業所があるため、同社に勤務する人たちの乗降が多い。

↑多賀大社前駅の駅舎(左)のすぐ前には多賀大社の大鳥居がある。駅舎は趣ある造りで、コミュニティハウスが併設される

 

↑3面2線というホームを持つ多賀大社前駅。1998年に多賀駅から多賀大社前駅と改称された。現在はほぼ駅舎側のホームが使われる

 

スクリーン駅からは左右に広々した田園風景を眺め東へ。名神高速道路の高架橋をくぐればすぐに多賀大社前駅だ。高宮駅からはわずか6分の乗車で多賀大社前駅に到着する。鉄道ファンならば、駅構内に何本かの側線があることに気がつくのではないだろうか。現在の乗降客を考えれば、駅構内が大きく、不相応な規模に感じる。

 

この大きさには理由がある。まずはスクリーン駅〜多賀大社前駅間から沿線にあるキリンビール滋賀工場へ引込線があった。また多賀大社前駅から、その先にある住友セメント多賀工場までも引込線があった。こうした工場からの貨物列車は多賀大社前駅を経由して出荷されていった。1983(昭和58)年にキリンビール工場の専用線が廃止されてしまったが、当時の駅構内はさぞや賑わいを見せていたことだろう。

↑多賀大社駅前から多賀大社まで門前町が続く。かつては商店が連なったが現在は神社周辺のみ店が営業している。同門前町の名物は糸切餅

 

↑多賀大社は多賀大社前駅から徒歩10分ほど。県道多賀停車場線に面して鳥居が立つ

 

多賀線の終点駅は多賀大社前駅を名乗るように多賀大社と縁が深い。多賀大社へお参りする人を運ぶために設けられた路線だった。

 

多賀大社の歴史は古い。創建は上古(じょうこ)と記述されるのみで、正式なところは分からない。日本の歴史の最も古い時期に設けられたと伝わるのみである。祭神は伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)とされ、御子は、伊勢神宮の祭神である天照大神(あまてらすおおかみ)とされる。昔から「お伊勢参らばお多賀に参れ お伊勢お多賀の子でこざる」と謡われた。

 

長寿祈願の神として名高く、豊臣秀吉が、母・大政所(おおまんどころ)の延命を多賀社(1947年以降に多賀大社となった)に祈願したとされる。

 

このように歴史上、名高い神社で、現在も賑わいを見せている。残念なことに、多賀線で訪れる人もちらほらみられるが、圧倒的にクルマで訪れる人が多い。いずれにしても、多賀線にとってはお宝の神社ということが言えるだろう。

 

【お宝発見その⑤】多賀大社の先で残念な光景に出会った

多賀大社の前からさらに歩いて10分あまり、国道307号沿いにある車両が置かれている。こちら現在はお宝と言いにくいが、念のため触れておこう。テンダー式蒸気機関車が、ぽつりと1両。正面にナンバープレートはすでについていないが、D51形蒸気機関車、いわゆるデコイチである。D51の1149号機だ。1944年度に川崎車輌で製造された31両のうちの1両で、今も残っているD51形の中では最も若いグループに入るD51で、太平洋戦争中に生まれたことから戦時型と呼ばれる。

 

さてなぜここに置かれているのだろう。1976年3月まで北海道の岩見沢第一機関区に配置されていた。廃車除籍となったあとに、多賀に設けられた多賀SLパークに引き取られた。同年11月には寝台客車を連結し、SLホテルとして開業した。ところが、SLホテルとして営業していた期間はわずかで、同ホテルが経営するレストランとともに1980年代に入り閉鎖されてしまった。客車はその後に解体されたが、機関車のみ置きっぱなしにされたのだった。

↑国道沿いの荒れ地にそのまま置かれたD51形1149号機。地元で復活が検討されたが、実現は難しそうで放置されたままとなっている

 

導入の時には多賀大社前駅まで近江鉄道の電気機関車によって牽引され、駅からはトレーラーで運ばれた。見物人が多く集まり注目を集めたという。当時は、全国からSLが消えていったちょうどさなか。SLブームだったせいか、ホテルも賑わった。ところが、ブームもさり、場所もそれほど好適地とは言えず、経営がなりたたなくなっていった。そして多賀SLパークは閉鎖された。

 

それこそ、つわものどもが夢の跡となってしまった。保存されているとはいえ、放置されたままの状態。無残な状態で、見ていて痛々しくなってきた。

 

【お宝発見その⑥】最後に日野駅のカフェでほんのり癒された

近江鉄道の旅を終えるにしたがい、筆者の気持ちはどうしても落ち込みがちになっていた。せっかく、さまざまな“お宝”があるのにもかかわらず、週末に乗車する観光客はせいぜい1割以下しか見かけなかった。新型感染症が心配されるなかだったとはいえ、寂しさを感じた。

 

滋賀県に住む知人はこうした現状に関して、「民鉄一社に何もかも背負わせるのは、もう時代遅れで、いかに沿線が力を合わせて活性化させることがキーポイントだと思います」と話すのだった。

 

筆者もその通りだと思う。そんな思いのなか、明るい兆しが感じられた駅があった。近江鉄道本線は1900(明治33)年に貴生川駅まで延伸された。その時に日野駅が開業した。当時はまだ、蒸気機関車が火の粉を出すということで、町の近くに駅を造ることに対して反対意見もあった。そのため町の外れに駅が造られたところも多かった。近江鉄道本線でも例に漏れず、経費節減ということもあり郊外に駅を設けがちだった。ところが日野では、町の中心に駅を、と逆に陳情したのだった。

 

地図を見ても、日野駅付近で、路線が曲がり、東に出張った形になっている。この曲がりは、陳情の成果だった。大正期、駅構内に待避線を設ける時にも、村絡みで援助し、鉄道用地を買収、施設の敷設費の一部を負担している。

↑2017年に駅舎再生工事が行われた日野駅。駅舎は町の宝として取り壊さずに再生させる道をたどった

 

町の将来を考えれば、鉄道を誘致して乗ることが大切と、すでに当時の日野の人たちは考えたのだった。今もこうした心意気が日野町に残っている。現在の駅は2017年に改修されたもの。まったく新しくするわけでなく、古い駅をきれいに改修することで、“わが町の駅”の歴史を大切にする道を選んだ。

 

さらにその改修費はふるさと納税制度や、クラウドファンディングを利用している。さらに駅舎内に観光交流施設を備えたカフェ「なないろ」を設けた。

↑日野駅に併設されたカフェ「なないろ」。町の人たちの交流の場としても活かされている。電車の待ち時間に利用する人も見かけた

 

鉄道がたとえ消えたとしても、路線バスにより公共交通機関は保持されるだろう。ところが○○線が通る○○町という看板が消えてしまう。人口の減少が加速することも予想される。バス路線は乗る人が減り廃止される。こうした積み重ねが、町が消滅していく危機にもなりかねない。

 

各地のローカル線が経営難にあえいでいる。今回、訪ねた近江鉄道も同様だった。さらにコロナ禍で、来年以降、全国の鉄道会社に苦難がのしかかるだろう。近江鉄道の一部の駅は、トイレ整備など、後回しにされ使えない駅もあった。決してきれいとはいえない駅もある。知人が話したように、このことは「民鉄一社では何もかも背負わすのは、もう時代遅れ」なのでは無いだろうか。

 

日野駅の例は、そうした町も一緒になって鉄道を盛り上げていく具体例を示してくれているようだ。ローカル線好きとしてはとてもうれしく感じ、最後に癒されたような気持ちになったのだった。