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2021/4/8 7:00

奥が深い!小田急新ミュージアムは車両以外にも見どころいっぱい【後編】

〜〜小田急ロマンスカーミュージアムの見どころ遊びどころ【後編】〜〜

 

海老名駅前に4月19日にオープンする「ロマンスカーミュージアム」。前編では展示収蔵される歴代のロマンスカーの特徴や魅力を中心に紹介した。今回の後編では、ロマンスカー以外にも数多くある見どころ・遊びどころに注目したい。

 

「ロマンスカーミュージアム」には、ロマンスカーギャラリー以外にも、複数の展示ゾーンがそろっている。そこには、こだわりがふんだんに隠されていた。

 

【前編はこちら

 

【展示ゾーン①】小田急の車両史はこのモハ1形から始まった

◆ヒストリーシアター(1階)◆

2階のエントランスからエレベーターを下りると、最初の展示ゾーン「ヒストリーシアター」となる。まず目に入ってくるのが、濃い茶色に塗装された電車が1両。その横には映像シアターがある。

 

シアターでは、約4分30秒のショートムービー「ロマンスカーは走る」が上映されている。ジャズに合わせてステップを踏むタップダンサーとともに、小田急電鉄の歴史が紹介されていく。年代ごとに活躍した電車と、歴代のロマンスカーが映し出される。

↑1階のヒストリーシアターで展示されるモハ1形。手すりが設けられ全景が見えないが、エスカレーター下から見ると正面が確認できる

 

ここで小田急の歴史と、保存される古い車両を簡単に触れておこう。小田急は1923(大正12)年5月1日に小田原急行鉄道株式会社として創立された。1927(昭和2)年4月1日に小田原線が全線開業し、列車が走り始めている。区間延長という形ではなく、一気に全線開業させた路線作りは目を見張るものがある。さらに、当初は単線区間があったものの、10月15日には早くも全線複線化させている。その2年後の1929(昭和4)年4月1日には江ノ島線全線を開業させた。

 

首都圏を走る大手私鉄の中では、創業は決して早いとは言えないものの、歴史を見ると、創立当初から非常に動きが早い会社だったことがうかがえる。車両開発なども、当時から高性能車両を取り入れる傾向があった。

 

このフロアに飾られるモハ1(モハ1形10号車)もそんな高性能電車の一両。路線開業当時に導入した車両だった。形式はモハ1形とされる。数字に1が付くように、小田急の最初の電車形式だった。小田急の車両の歴史はこの1形から始まったと言っていいだろう。

↑ショートムービーでは小田急の歴史とともに、当時走っていた代表的な車両、そしてロマンスカーの紹介などが進められていく

 

モハ1形は1960(昭和35)年までに引退となり、各地の私鉄各社へ譲られた。ここで公開されるモハ1形10号車も、熊本県を走る熊本電気鉄道へ譲られた車両で、熊本では1981(昭和56)年まで走り続けた。小田急では、創業当時の車両を復元して保存したいという意向があり、再び戻されたという経緯がある。

 

車内には入れないものの、開いた扉から車内を見ることができる。当時の木をふんだんに使った内装の様子が良くわかる。

 

◇サボに書かれた稲城登戸駅間とは今の?

約15mの長さがあるモハ1形の側面。その中央にはホーロー製の列車行先札(サボ)が吊り下げられている。文字の表記は今とは異なり右から読むが、列車行先札には新宿〜稲田登戸とある。もともとモハ1形は、この区間用に用意された近郊形電車だったのである。

 

さて、稲田登戸駅とは、今の登戸駅のことなのだろうか。調べてみると南武線(当時は南武鐵道)との接続駅、現・登戸駅はかつて、稲田多摩川駅という駅名だった。一駅隣の現・向ヶ丘遊園駅を稲田登戸駅と呼んだのだった。

 

ちなみに小田急は1940(昭和15)年に現在の京王井の頭線(当時は帝都電鉄)を合併。太平洋戦争下の時代には国策により、東京急行電鉄(大東急)の傘下となった。戦後の1948(昭和23)年に小田急電鉄株式会社として再発足している。また1955(昭和30)年4月1日に、稲田登戸駅は現在の向ヶ丘遊園駅という駅名に改称されている。

↑モハ1形に付けられた列車行先札。モハ1形は新宿駅〜稲田登戸駅を結ぶ電車として使われた。戦前の沿線案内にも稲田登戸駅とある

 

↑整備されたモハ1形の内部。車内は木材が多く使われる。運転室はなく、運転士は客室の先頭にあるパイプで仕切られた部分に立って運転した

 

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