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2021/5/26 20:00

わずかに残る「京王御陵線」の遺構と立派な参道や橋に驚く!

不要不急線を歩く04 〜〜 京王電気軌道 御陵線(東京都) 〜〜

 

生活圏の近くにありながら、知らないことは意外に多い。今回、筆者の身近にあった不要不急線の跡を歩いてみた。90年以上前に造られた立派な参道や橋にも出会い、太平洋戦争を境に日本が大きく変わっていったことを実感できた。

 

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【京王御陵線①】戦前の京王の案内には終点が御陵前駅とある

すでに本サイトの過去の記事を読まれた方はご存知かと思うが、不要不急線とは何かを簡単に触れておこう。

 

太平洋戦争に突入し、軍艦や戦車など、武器を造るために大量の鉄が必要となった日本は、資源不足に陥り、庶民からありとあらゆる金属資源を供出させた。鉄道も例外ではなく、利用率が低い路線は休止や廃止となり、一部の複線区間は単線化され、線路が持ち出された。そして、軍事利用や幹線の線路に転用された。こうして休止・廃止、単線化した路線を不要不急線と呼ぶ。太平洋戦争中に、不要不急線に指定された路線は全国で90路線以上にもなる。

 

筆者の手元に、戦前の京王電気軌道の沿線案内が2枚ある。こちらの図には下記のように、御陵前駅(後に多摩御陵前駅と変更)という駅が西側の終点駅となっていた。今の京王電鉄の終点は高尾山口駅だ。御陵前という駅はない。さてこの駅は?

↑両図とも京王電気軌道の戦前の沿線図。上は昭和一けた代、下は昭和12年以降のもの。上の地図には武蔵中央電車という路線名も入る(筆者所蔵)

 

この御陵前駅へ行く区間(北野駅〜御陵前駅間)こそ、不要不急線として太平洋戦争中に休止命令が出され、その後に一部が廃止となった御陵線である。今回は、京王電気軌道御陵線(以下「京王御陵線」と略)の今を紹介したい。

 

【京王御陵線②】多摩御陵への参拝路線として生まれた御陵線

最初に京王電鉄の歴史を見ておこう。京王電鉄は1913(大正2)年4月15日に笹塚駅〜調布駅間に路線を開業させたことから歴史が始まる。開業時の社名は京王電気軌道だった。道路上を走る軌道線の区間が多かったこともあり、同社名となった。

 

徐々に西へ路線を延ばしていったが、資金難から別会社の玉南電気鉄道を立ち上げて資金集めを行うなどして、ようやく1925(大正14)年に、東八王子駅(現・京王八王子駅)まで到達している。御陵線の開業はその後になる。京王御陵線の開業時の概要を見ておきたい。

 

路線京王電気軌道御陵線・北野駅〜御陵前駅(後に多摩御陵前駅と改称)6.3km
路線の開業1931(昭和6)年3月20日。途中駅は片倉駅(現・京王片倉駅)、山田駅、横山駅(後に武蔵横山駅と改名)の3駅
廃止不要不急線の指定をうけ1945(昭和20)年1月21日に休止、1964(昭和39)年11月26日、山田駅〜多摩御陵前駅間が正式に廃止となる

 

京王電気軌道だが、太平洋戦争中に京王という名称の会社は一度消滅している。1938(昭和13)年に陸上交通事業調整法が施行され、国の手で交通事業者の整理統合を行った。交通事業が完全に国の統制下に置かれたのである。そして1944(昭和19)年に、京王電気軌道は東京急行電鉄(後の東急電鉄)の一員になっている。そのため不要不急線に指定された時の路線名は東京急行電鉄御陵線だった。

 

余談ながら、京王井の頭線は戦前、帝都電鉄という会社が運営していた。この帝都電鉄は、1940(昭和15)年に小田原急行電鉄(現・小田急電鉄)と合併。その後に、小田急も東京急行電鉄と合併している。戦後に東京急行電鉄から京王と、小田急が分かれるが、井の頭線は京王線とともに、京王帝都電鉄(1948・昭和23年に創立)の路線に組み込まれ、京王井の頭線となった。1998(平成10)年に京王帝都電鉄は、京王電鉄という現在の社名を変更されている。

 

太平洋戦争前後の東京急行電鉄を巡る会社間の移り変わりは非常に複雑だが、歴史に“もし”があれば、井の頭線は小田急電鉄の路線だったのかも知れない。

 

さて、京王御陵線の話に戻そう。御陵線は不要不急線として、終戦の年の1月21日に休止となった。多摩御陵への参拝路線ということもあり、政府も休止を命じるのをためらったのだろうか。終戦まであと7か月という時の決定だった。休止されたものの、その後に復活されることはなく、山田駅〜多摩御陵前駅間が廃止となった。

 

その後に京王線の北野駅と山田駅間は、高尾線の敷設に役立てられ、1967(昭和42)年10月1日に高尾線の北野駅〜高尾山口駅間が開業している。

 

【京王御陵線③】旧線を復活させた山田駅から歩き出した

↑山田駅を発車した高尾山口駅行電車。この山田駅までは以前の京王御陵線の路線を使って高尾線は造られた

 

以前は御陵線の途中駅だった山田駅に降り立った。御陵線の旧路線をたどるために、駅から西へ向かう。しばらくは線路沿いを歩いた。途中から線路沿いの道が途切れるため、線路を離れて西へ向かう。山田地区は低地となっているが、行く手に、やや高台があった。この高台には現在、高尾線のめじろ台駅がある。駅の前に広がる高台の住宅地は「めじろ台」となっている。

 

古い地図を見ると、現在の山田駅とめじろ台駅の間で、路線は北へ向かっていた。下の写真のあたりで進行方向が変わっていたのだ。この写真を見てもわかるように、手前はめじろ台の高台で、山田駅方面は、それよりも一段、標高が低い地形となっている。

↑めじろ台駅側から山田駅側を見ると、写真のように高低差があることが分かる。御陵線はこの手前で向きを変えて北側へ向かって走った

 

京王御陵線は、現在の高尾線の路線から北へ向きを変えて走った。そしてめじろ台の高台へのぼっていく。そんな上り坂が下の写真。以前は、線路が敷かれていたであろう、なだらかなスロープが残っている。植えられた草花がちょうど見ごろを迎えていた。

↑現在の高尾線の路線からめじろ台へは適度な上り坂となっている。古い路線らしき箇所に緩やかなスロープが残っていた

 

【京王御陵線④】元線路跡は山田町並木線となり京王バスが走る

さて、めじろ台へ上ってきた御陵線。現在、線路は残っていないが、同区間を走っていたことが推測できる。線路が通っていたらしき通りは道幅が広い。中央に街路樹が植えられ、北西に向かって延びていた。古い地図で確認しても、この通りが旧路線とぴったりと重なることが分かる。現在の通りの名前は「山田町並木線」となっていた。

↑元御陵線の路線は現在の山田町並木線という通りとなっている。この通りを走るのは京王バス。付近のバス停(左上)の名前はめじろ台一丁目

 

ケヤキ、イチョウといった木々が見事に育った並木道ではあるものの、気になったので、御陵線という名称が通り沿いに残っていないかを探してみた。ところが、何も残っていない。京王御陵線との関連があるとすれば、京王バスが走っていることぐらいのものだった。

↑山田町並木線を北西へ向かう。途中には「関東武士ゆかりの地散歩なる碑」(左下)が設けられていたが、さて……

 

御陵線の元路線跡を示すものはなかったが、「関東武士ゆかりの地散歩」という碑があった。これは「ふだん通る道を歩いて、歴史の痕跡や新しい魅力を発見して欲しい」と、東京都生活文化局が設定したコースの一部ということだった。筆者は歴史好きを自認しているものの、関東武士とはいっても、鎌倉時代や戦国時代に表舞台に立った人物が東京西部に少ないこともあり、資料を読んだものの、ぴんとこなかった。

 

【京王御陵線⑤】中央本線の先にあった横山駅。路面電車も走った

街路樹が茂る山田町並木線をめじろ台から歩く。ゆるやかな坂道を下ると、先にJR中央本線の線路が見えてくる。京王御陵線は、この中央本線を高架で越えていた。現在の、山田町並木線の通りはアンダーパスでJR中央本線の下をくぐる。そんな写真を撮ろうとカメラを構えていたら。あれっ! 見慣れない列車が通過していく。なんと『TRAIN SUITE四季島』ではないか。通るのならば、この近くで構えておくのだったと残念に思った。

↑京王御陵線はJR中央本線の線路を高架で越えていた。現在、道路は下をくぐる。中央本線を通過するのは『TRAIN SUITE四季島』

 

JR中央本線を越えたあたりに横山駅(休止時は武蔵横山駅)があった。現在の甲州街道(国道20号)と山田町並木線が交差する並木町交差点付近である。御陵線は高架化され、駅も橋上駅だった。実は京王御陵線が正式に廃止の手続きが取られたのは1964(昭和39)年11月26日のこと。それまでは、高架施設が残っていたそうだ。この廃止を機に、高架施設は取り除かれ、旧横山駅がどこにあったのかも、今は推測するしかない状態になっている。

↑甲州街道と山田町並木線が交差する並木町交差点。角に交番があるが、このあたりに旧横山駅があったと推測される

 

↑旧路線は甲州街道(左)を横切り北へ向かった。不自然な向きのマンションがあり、この前あたりに路線が通ったことが推測できる

 

旧横山駅から北は、現在の山田町並木線が延びる方向とは、やや異なるところを線路は通っていた。並木町交差点の北側から、旧ルートがどこを通っていたのか判別が難しくなる。ひとつのヒントとしては、並木町交差点の北側にある建物と、マンションが甲州街道に対して、やや斜めに建っていること。土地の所有権が、ここで分かれていたということを示す一つの証だろう。

 

通り抜ける甲州街道で触れておきたいことがある。甲州街道には前述した古い地図にあるように、武蔵中央電車が走っていた。運行していたのは武蔵中央電気鉄道という会社で、路線は東八王子駅前停留場(現・京王八王子駅前付近)と高尾停留場(現・高尾山口駅付近)間を結んでいた。甲州街道を走る路面電車で、京王御陵線の横山駅の最寄りには横山駅前(後の武蔵横山駅前)停留場があった。

 

この路面電車の開業は1929(昭和4)年12月23日のこと。ところが1931(昭和6)年に京王御陵線が開通したことにより、客足が伸び悩む。そこで武蔵中央電気鉄道は京王電気軌道へ路線を売却。1938(昭和13)年6月1日のことだった。翌年の6月30日は運転休止に、そして12月1日は廃止となった。開業してわずか10年で消えた短命な鉄道路線だった。買い取った京王としては、うまみがあったのだろうか。線路が高く売れたことで得た利益を、その後の新車導入に役立てたという逸話が残っている。

 

【京王御陵線⑥】南浅川を渡った先に唯一の御陵線の遺構が残る

ちょっと歩くだけでも古い鉄道の逸話が出てくるものである。さて、甲州街道から旧線路跡をたどって歩く。甲州街道から北側は、路線跡が消えているために、南浅川に沿って平行した道を歩いて行くと、河畔に桜並木が続き、市民の憩いの場となっている。山田町並木線は横山橋で南浅川を越えている。この橋の西側に京王御陵線の高架橋が架かっていたが、今は何もない。

↑横山橋の上からみた南浅川。この先に京王御陵線の高架橋が架かっていた。今はその名残はない

 

横山橋を渡り河畔の道をやや西へ。100mほど先に住宅地へ入る細い道がある。ここに京王御陵線で唯一の遺構として、古びたコンクリートの柱状のものが2本ほど立っている。京王御陵線の高架線の橋脚だったものだ。今は橋脚が民家の塀として活かされている。1960年代に大半の鉄道施設は除去されたが、この橋脚だけは、すでに住宅の一部になっていたようで、取り壊されなかった。鉄道の橋脚が景色に溶け込んでいるようでおもしろい。この場所は某テレビ番組でも紹介されていたので、ご存知の方も多いのではないだろうか。

↑民家の塀の一部に使われている京王御陵線の橋脚。前後の2本のみが残っているというのが興味深い

 

残る橋脚を見つつ、先を目指す。南浅川の河畔に広がる住宅地の北西側には、長房町の高台が広がる。この高台へ抜けるために、京王御陵線は甲州街道と南浅川を高架橋で渡ったのだろう。

 

【京王御陵線⑦】路線は高台へ上り終点の御陵前駅を目指した

南浅川沿いの住宅地から長房町の高台にのぼる石段がある。上ると西へ向かって舗装路が続いていた。高架橋を走ってきた御陵線の電車は、この長房町で西へカーブして終点の御陵前駅へ向けて走った。

↑南浅川河畔に広がる住宅地から、長房町の高台へあがる石段。このあたりを線路が走っていたようだ

 

長房町の高台には都営住宅が立ち並ぶ。すっかり整備されていて、どこを線路が走っていたのか推測が難しかった。ちょうど線路が通っていたあたりの北側に、船田古墳という7世紀に造られた古墳跡があった。南浅川周辺は古代、有力な豪族が治め、地盤としていた証なのだろう。

↑長房町の団地内にある船田古墳跡。団地造成の際に発見された。円墳で、現在は埋め戻され公園となり案内板(右上)も立つ

 

地図で見ると、長房町を御陵甲の原線という道が東西に通り抜けている。この南側を京王御陵線は走っていたようだ。民家の間を抜ける細い道が数本、御陵甲の原線と平行して設けられている。

 

今は何も残っていないが、終点の御陵前駅は、この裏道に設けられていたようだ。古い駅舎の絵葉書を見ると、妻入と呼ぶのだろうか、神社のような立派な造りの建物だった。終戦間際に空襲で焼けてしまい、不要不急線として休止されていたこともあり、戦後に再建されることはなかった。

 

この御陵前駅のすぐ目の前には、ケヤキに包まれた多摩御陵参道が設けられていた。多摩御陵参道は、甲州街道方面と多摩御陵(現・武蔵陵墓地)を結ぶ参拝道路である。現在も立派な道が残っており、きれいに清掃されていてとてもすがすがしく感じる。

↑多摩御陵参道をはさみ向いに御陵前駅があった。立派な造りの駅舎があったが、空襲で焼け落ちたと記録される

 

多摩御陵は大正天皇の陵として1927(昭和2)年に築造された。面積は2500平方メートルにも及ぶ。陵が設けられるにあたり、参道が整備された。その参道が今も多摩御陵参道として残る。陵へ向かう多摩御陵参道には、約160本のケヤキが植えられ、今ではその高さが20mにも及ぶ。

 

旧御陵前駅から多摩御陵の入口まで参道が500mにわたり続く。厳かな気持ちになるような並木道。御陵をお参りする人で、戦前はさぞや賑わったことだろう。

 

【京王御陵線⑧】御陵の造営にあわせ整備された道や橋を歩く

多摩御陵参道を多摩御陵(現・武蔵陵墓地)まで歩き、御陵を参拝した後に道を引き返した。多摩御陵参道は、立派としか形容しようがない素晴らしい道だった。武蔵陵墓地から甲州街道方面へ約1kmの多摩御陵参道が延びる。京王御陵線の御陵前駅の前を通り過ぎ、参道はゆるやかな下りとなり南浅川へ至る。

↑多摩御陵参道は、旧東浅川駅から約1kmの通りだ。両側にケヤキの並木が続き、新緑時期など歩くだけでも厳かな気持ちになる

 

南浅川を渡る橋は、その名も南浅川橋。御陵造成当初の絵葉書を見ると簡素な橋だったが、1936(昭和11)年に写真のように立派なコンクリートアーチ式の橋に架け替えられている。

↑多摩御陵参道が渡る南浅川橋。1936(昭和11)年に架け替えられ、明かりが灯る立派な灯籠が両側に複数設けられる

 

太平洋戦争に突入するまでの昭和10年代は、現代人の冷静な目で振り返るとかなり不思議に感じる。多摩御陵が造営された当時、参道の南浅川橋は、簡素な印象の橋だった。ところが、その後に立派な橋に架け替えられた。多摩御陵参道の起点となる甲州街道を渡ると、中央本線の線路が見えてくる。

 

中央本線のこの付近には東浅川駅が設けられていた。1927(昭和2)2月7日に設けられた駅で、一般の旅客用ではなく、皇族が多摩御陵へ参拝する乗降施設として設けられたのである。

↑東浅川駅へ大正天皇の棺を載せた霊柩車が到着したことを伝える絵葉書。絵葉書は筆者所蔵

 

東浅川駅は社殿造の玄関を持つ立派な駅だった。多摩御陵参道、南浅川橋、東浅川駅といった施設は、かなりのお金をかけて造成された。

↑旧東浅川駅の跡地には、1964年の東京五輪で、自転車競技の会場となったことを記念する碑が立つ

 

東浅川駅は1960(昭和35)年に廃止となり、立派な駅舎はすでにない。旧駅舎跡には石碑が立っていて、五輪マークと1964、そして「オリンピック東京大会 自転車競技この地で行わる」とあった。1964(昭和39)年開催の東京五輪の自転車競技のロードレースがここを拠点に開かれ、平和な国として復興したことを内外に知らせる良いきっかけとなった。

 

昭和から太平洋戦争へ、そして戦後の物不足の時代、1964年の東京五輪と、この京王御陵線の廃線跡をたどるだけでも、世の中が大きく変わったことが良く分かった。