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2021/4/21 20:00

“不要不急”の名のもと戦禍に消えた「旧五日市鉄道」廃線区間を歩く

不要不急線を歩く01 〜〜 旧五日市鉄道立川駅〜拝島駅間 〜〜

 

「不要不急」という言葉を聞くと「不要不急の外出を控えて」と、条件反射のように決まり文句が出てくるご時世。だが、今から80年近く前に生きた人々にとって不要不急といえば、「不要不急線」という言葉が頭に浮かんだのではないだろうか。

 

戦時下に廃止された鉄道路線には、この不要不急線が多い。なぜ廃止されなければならなかったのか、その後にどうなっているのか、明らかにしていきたい。今回は東京都下で気になった不要不急線を歩いてみた。

 

【不要不急線とは】鉄の供出のため強制的に廃止された鉄道路線

戦争というのは罪なもので、平常時ならばありえない政策が何でもまかり通る状態となる。不要不急線も、平和な時代ならばあり得ない“理不尽な政策”の犠牲であった。何しろ、多くの人が利用してきた鉄道路線が突然、廃止および休業させられてしまったのだから。

 

不要不急線という問答無用の路線廃止が行われた背景を簡単に触れておこう。昭和初期、日本は満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと泥沼の大戦へと突入していく。戦争遂行のためには、鉄などの戦略物資が大量に必要となる。もともと資源の乏しい日本。どこからか捻出しなければならない。まずは国民に、ありとあらゆる鉄が含まれる品物を供出させた。

 

鉄道路線には多くの鉄資源が使われている。そこで、重要度が低いとされた路線を廃止もしくは休止させて、レールなどを軍事用に転用、もしくは重要度が高い幹線用に転用するべく、政府から命令が出された。命令の内容は「勅令(改正陸運統制令および金属類回収令)」であり、拒否はできなかった。廃止により運行スタッフの職が奪われようと、政府は我関せずだったわけだ。

 

そして全国の国鉄(当時は鉄道省)と私鉄の路線が1943(昭和18)年から1945(昭和20)年にかけて廃止されていった。その数は90路線近くにのぼる。多数の鉄路が国を守るという美名のもとに消えていった。一部は戦後に復活した路線もあったが、そのまま消えていった路線も多かった。今回はそんな路線の一つ、五日市鉄道(現在のJR五日市線)の立川駅〜拝島駅間に注目した。

 

【五日市鉄道①】昭和初期発行の五日市鉄道・沿線案内を見ると

↑昭和初期発行の五日市鉄道の沿線案内。立川駅〜拝島駅間には今はない駅名が。右下は運賃表だが途中、多くの駅があったことが分かる

 

筆者の手元に昭和初期に発行された五日市鉄道の秋川渓谷の案内がある。五日市鉄道とは、現在のJR五日市線を運行していた旧鉄道会社名だ。この鳥瞰図を使った沿線案内をよく見ると、立川駅から拝島駅の間に、南中神駅と南拝島駅という現在は存在しない駅名が記されている。さらに裏面の運賃表を見ると、立川駅〜拝島駅間には多くの駅が表示されている。

 

一方、この沿線案内には、青梅線や八高線が拝島駅を通っていない。なぜなのだろう? 不思議になって調べ、図としたのが下記のマップだ。

 

現在の青梅線の南側に、旧五日市鉄道の立川駅〜拝島駅間があった。青梅線の立川駅〜拝島駅間がほぼ直線区間なのに対して、旧五日市鉄道の路線は多摩川側に大きくそれている。途中から多摩川の河原に向けて砂利採取用の貨物支線が敷かれていた。

 

なぜ、この路線が不要不急とされたのか。また、なぜ国鉄路線に組み込まれたのか、その歴史を含めてひも解いていこう。

 

【五日市鉄道②】今も青梅支線として活かされる立川駅側の一部

まずは五日市鉄道の概要を見ておきたい。

 

路線五日市鉄道(現・JR五日市線)/立川駅〜武蔵岩井駅(現在の五日市線の終点は武蔵五日市駅)
開業1925(大正14)年4月21日、五日市鉄道により拝島仮停留場〜五日市駅間10.62kmが開業、1930(昭和5)年7月13日、立川駅〜拝島駅間8.1kmが開業
合併と国有化1940(昭和15)年10月、南武鉄道(現・JR南武線)と合併。1943(昭和18)年9月、青梅電気鉄道、奥多摩電気鉄道(ともに現・JR青梅線となる)と合併契約を結ぶ。1944(昭和19)年4月1日、国有化され五日市線に。
運転休止不要不急線の指定をうけ1944(昭和19)年10月11日、立川駅〜拝島駅間8.1kmと貨物支線3.0kmが休止、そのまま廃止に。

 

五日市鉄道は五日市地区(現在のあきる野市)で採掘される石灰石の輸送用に計画された。鉄道敷設には浅野セメントが大きく関わっている。当時、すでに青梅鉄道により、奥多摩地区の石灰石の輸送が活発になりつつあった。奥多摩で採掘された石灰石は、セメント工場や輸送設備があった川崎へ向け、南武鉄道経由で運ばれた。中継駅だった立川駅の構内は貨物列車により飽和状態となっており、五日市鉄道の開通により、さらに過密状態となった。

↑中央線から青梅線へ乗り入れる下り電車が青梅短絡線を走る。同路線は1931(昭和6)年に五日市鉄道と南武鉄道により開業した

 

そこで五日市鉄道の拝島駅〜立川駅間が計画され、路線が敷設された(実際の同線の建設には南武鉄道が大きく関わっている)。この路線により、五日市鉄道からは、鉄道省の路線(省線)を通ることなく、南武鉄道と結ばれることになった。当時の青梅電気鉄道の西立川駅からも、この路線への線路が敷かれ、五日市鉄道・青梅電気鉄道←→南武鉄道という石灰石流通ルートができあがった。省線の線路を使うことなく、行き来できるようになったことが3社にとっては大きかった。この“短絡線”の開業により鉄道省へ通過料を支払う必要がなくなったのである。

 

その後、歴史は目まぐるしく動く。特に太平洋戦争中は動きが活発になる。セメントも重要な軍事物資であり、戦争遂行のために欠かせなかった。戦時下に五日市鉄道など3社が合併をし、さらに1944(昭和19)年には国有化された。元々、省線の線路を使わず走ることが大前提として誕生した五日市鉄道の立川駅〜拝島駅間であり、国有化されたからには必要のない路線とされたのだった。国有化からわずかに半年あまり。不要不急線となり休止、そのまま廃止に追いやられた。

 

戦後、旧五日市鉄道などの路線が民間へ戻されることはなかった。五日市鉄道、南武鉄道、青梅電気鉄道の経営には浅野財閥が資本参加していた。戦争への道を突き進んだのは財閥の影響が大きいと見たGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が行った、財閥解体の影響だったとされる。

 

後世の人からは、まるで図ったように国有化され、立川駅〜拝島駅間は廃止されていったように見える。ただし、立川駅から西立川駅間の一部区間は、青梅短絡線として今も残る。中央線から青梅線へ直通運転される下り列車にとって欠かせない路線であり、青梅線〜南武線間を走る貨物列車(在日米軍基地・横田基地への石油輸送がある)が通過する。今も五日市鉄道の開業に関わった青梅短絡線を使って、青梅線と南武線を行き来しているわけだ。五日市鉄道が残した路線跡は、今も一部のみだが生き続けている。

↑拝島駅と横浜市の安善駅を結ぶ石油輸送列車。青梅線を走ってきた列車は西立川駅付近から青梅短絡線を使い南武線へ向かう

 

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