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2021/6/3 20:00

東急の礎を築いた「五島慶太」−−“なあに”の精神を貫いた男の生涯【前編】

 〜〜鉄道痛快列伝その3 東急グループ創始者・五島慶太〜〜

 

大都市の私鉄の路線網は大正から昭和にかけて、一握りの辣腕経営者によって生み出された。数多く設けられた路線は次第にまとめられ、使いやすいように整備されていったのだ。そうした鉄道の恩恵を日々、私たちは受けて暮らしている。

 

今回は、東急電鉄の路線網を造り上げた五島慶太の人生を振り返ってみたい。

*絵葉書・路線図、写真は筆者所蔵および撮影

 

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【五島慶太の生涯①】長野県の山村で生まれ紆余曲折の半生をおくる

五島慶太の生涯はドラマに満ちている。なかなか波乱万丈である。77歳で亡くなったが、そのうち鉄道会社の経営に精力をかたむけた期間はちょうど半分でしかない。短い期間で精力的に動き、東急電鉄の路線網を造り上げたのだ。そんな五島慶太の痛快な生き様を見ていきたい。

 

五島慶太は1882(明治15)年4月18日、長野県小県郡青木村(旧・殿都村)で、小林菊右衛門の次男・小林慶太として生まれた。生家は農家で、集落の中では最も資産家だったとされるものの、父親が事業に失敗するなどして、経済的な余裕がなかった。山村で育った慶太は小さいころ、とにかくワンパクで、仲間を引き連れて歩く典型的な“お山の大将”だった。学歴に触れておこう。

 

1889(明治22)年 青木村小学校尋常科へ入学

1893(明治26)年 浦里小学校高等科へ転校

1895(明治28)年 長野県尋常中学校上田支校に入学

1898(明治31)年 長野県尋常中学校松本本校へ移る

1900(明治33)年 長野県尋常中学校松本本校を卒業。青木村小学校の代用教員となる

 

今の年齢でいえば、高校卒業したばかりで代用教員となったわけである。代用教員となった理由は、都会へ出て勉強をしたかったため。そのためにまずは学費を貯めるべく仕事についた。ガキ大将だったものの、頭は良く、まずは将来のために勉強を、と考えていた。

↑五島慶太の故郷、青木村へは上田電鉄の上田原駅(駅は上田市内)が最も近い。駅前から青木村へ路線バスが出ている(左上)

 

お金を貯めて東京へ出た慶太は、その後に次のような過程を経る。

 

1902(明治35)年 東京高等師範学校(現・筑波大学)英文科に入学

1906(明治39)年 東京高等師範学校を卒業。四日市市立商業学校の英語教師として赴任

 

教師を育てるために当時は師範学校が設けられていた。慶太が学んだ時の東京高等師範学校の校長は嘉納治五郎だった。嘉納治五郎といえば柔道家として著名だが、通算25年にわたり東京高等師範学校の校長を務めていた。慶太は嘉納の言葉に感銘を受ける。

 

『人間として何が一番大事か。それは「なあに」という精神である』

(東急・五島慶太の生涯/北原遼三郎著・現代書館)

 

要は、どんなにつらいことがあっても「なあに」このぐらいはと、はねのける、いわば不屈の精神が大切だということを、慶太は学んだのだった。

 

さて、師範学校を卒業し、英語教師として三重県の四日市の学校へ赴任するもすぐに辞めてしまう。教師という仕事が肌に合わないと感じたのだった。早く見切りをつけて次の道へ進む。この転身の早さは慶太の特長だったようだ。そして東京帝国大学を目指して撰科に入学。撰科とは正科に欠員が出た時に補充する、いわば予備校的なクラスだった。その後に超難関だった試験に受かり正科に転学している。

 

1907(明治40)年 東京帝国大学政治学科撰科に入学、後に法科大学本科に転学

1911(明治44)年 東京帝国大学を卒業、農商務省に入る

 

↑上田電鉄の城下駅で公開された元東急5200系。五島慶太最晩年に東急車両製造で造られた日本初のステンレス鋼製電車だった

 

農商務省へ入省したのが29歳の時で、一般の若者に比べ、だいぶ遅れて官僚の仲間入りを果たした。しかも、当初は鉄道に縁のない農商務省だったわけで、ここでもだいぶ“寄り道”をしていたわけだ。

 

本原稿も少し寄り道してみたい。慶太の出身地・青木村の近くを走る上田電鉄の別所線。今では東急グループの一員となっている。

 

さらに保存されている元東急5200系電車は、不定期で展示イベントが開かれる名物車両となっている。この電車は慶太が立ち上げた東急車輌製造(現・総合車両製作所)が新造した車両で、日本初のステンレス鋼製の電車だ。テスト的な意味合いの強い車両で5両しか製造されなかった。

 

東急車輌製造は、その後の日本の電車のステンレス化に大きく貢献した企業で、この会社がなかったら、ここまでステンレス車両化が進まなかったといっても良い。常に人々に役立つことを念頭に事業を展開させた、五島慶太が生み出した会社らしい異色の車両でもあった。

 

上田電鉄に残される5200系電車は東急車輌製造で造られた5両のうちの1両だ。さらに不思議な縁がある。この電車が製造されたのが1958(昭和33)年から1959(昭和34)年にかけてで、実はこの車両の製造が終了した1959(昭和34)年に、五島慶太はちょうど亡くなったのである。つまり五島慶太が亡くなったころに生まれて、今も故郷近くで保存されているというわけだ。

 

【五島慶太の生涯②】阪急の創始者、小林一三に見いだされて

東京帝国大学を卒業した慶太は、まず官僚への道を歩む。ところが、大学を卒業したのが30歳近くとあって、官僚となったものの、周りに比べればかなり遅いスタートとなった。そのため出世の道はほぼ断たれていた。

 

1913(大正2)年 鉄道院へ移る

1918(大正7)年 鉄道院総務課長心得に就任

 

そのためもあってか、農商務省へ入省したものの、2年で鉄道院へ移った。この鉄道院へ移ったことが、その後の人生を決めたといっても良いだろう。プライベートな話題としては、

 

1912(明治45)年 建築家・久米民之助の長女、万千代と結婚

 

同年に五島に改称している。義父から五島の家を継いで欲しいという申し出があったからだという。明治から昭和に至るまで、名家の名前を殘すために夫婦どちらかが養子となり、その姓を名乗るケースがあった。妻となった万千代は10歳年下で、一目ぼれだったらしい。妻との間に2男2女をもうけている。

 

さて、鉄道院に移った慶太は鉄道院総務課長心得として務める。だが“心得”が気にくわないと、書類の心得は消して提出したと言う。堅苦しい役人生活は性に合わなかったのであろう。役人として風変わりな存在でもあった。

↑田園調布駅の復元駅舎。田園調布の住宅地造りには渋沢栄一、小林一三らそうそうたるメンバーがかかわっていた

 

慶太が鉄道院総務課長心得となった年に、その後に大きく関わることになる事業が始められた。

 

今年の大河ドラマの主人公、渋沢栄一が晩年に起こした事業である。それは田園調布を開発し、住宅地化しようという試みだった。そのために1918(大正7)年に田園都市株式会社という開発会社が設けられた。発起人であり相談役として渋沢栄一が就任する。渋沢は田園都市の開発には鉄道が必要として、阪急を生み出した小林一三を引き込もうとした。

 

とはいえ小林一三は、自社の経営で忙しい。さらに今の時代ならば、可能かもしれないが、当時は関西と東京を移動すること自体も大変だった。誰か代わりが務められる人材がいないだろうか、と探していた時に“おもしろい男がいる”ということで引き込まれたのが五島慶太だった。慶太は1920(大正9)年に鉄道院を退官、武蔵電気鉄道の常務取締役に就任していた。

 

1922(大正11)年9月2日に田園都市開発株式会社の傘下の荏原鉄道が、目黒蒲田電鉄と改称した。この日が東急電鉄の創立記念日となっている。そして五島慶太は10月2日に目黒蒲田電鉄の専務取締役に就任した。

 

五島慶太は、まず武蔵電気鉄道という会社に関わっている。この武蔵電気鉄道はその後に東京横浜電鉄の大元になる会社なのだが、当時はほとんどペーパーカンパニーで、内容が伴っていなかった。武蔵電気鉄道に関わったのが30歳代の終わり、そして目黒蒲田電鉄という鉄道会社の専務となったのが、40歳という年齢だった。ここから鉄道事業に携わる慶太の半生が始まった。

 

不幸なことに最愛の妻、万千代を1922(大正11)年に亡くしている。わずか31歳だった。こうした心の痛手を埋めるかのように慶太は事業に没頭し、妻の死後は一生、独り身を通した。

 

【五島慶太の生涯③】無人の荒野を行くかごとくの東京の郊外開発

渋沢栄一が構想を練り、そして小林一三まで巻き込み、五島慶太が実質的な開発責任者となった田園調布の開発計画だったが、そのころの東京城西、城南地区の状況はどのようなものだったのだろうか。

 

一枚の絵葉書がある。これは、大正中ごろの玉川電車沿線の様子だ。玉川電車とは、“玉電”の名前で親しまれ、現在の国道246号上を走った路面電車だ。現在、東急世田谷線として、一部区間が残っている。中央本線の路線の南西部で、最も早く設けられた鉄道路線だった。玉川電気鉄道により1907(明治40)年、渋谷〜玉川間が全通している。

 

玉川電気鉄道は、路線開業前の会社名が玉川砂利電気鉄道だった。要は乗客を運ぶよりも、多摩川の河原の砂利を東京の都市部へ運ぶことを主目的に造られた路線だった。

↑大正中ごろの玉川電気鉄道の路線風景。現在の二子玉川駅近くか、駒沢大学駅付近か、沿線には広大な田畑が広がっていた

 

大正中ごろの玉川電車の絵葉書を見ても、線路の周りは田畑のみで、ここがどこなのか今となっては分からない。まさに隔世の感がある、玉川電気鉄道の路線は、現在の東急田園都市線の渋谷駅〜二子玉川駅間にあたるが、沿線はほとんどが住宅地となり、畑地などほとんどない。

 

城西・城南地区で他の私鉄路線といえば、旧東海道の沿線に路線を設けた京浜電気鉄道の一部区間が1901(明治34)年に開業したぐらいのものだった。

 

五島慶太が電鉄会社を設けたころは、東京の城西・城南は玉川電気鉄道の沿線と同じような状況で、こんなところに鉄道路線を設けること自体、よほどの物好きと考えるのが普通だったわけである。まさに無人の荒野を行くがごとくの郊外開発だった。

 

【五島慶太の生涯④】まずは目蒲線から路線づくりを始めた

何もないところに住宅地を造り、移動手段として鉄道を敷設する。今となれば、最初に考えた渋沢栄一には先見の明があったことが分かる。しかし当時、不毛の台地に鉄道を敷こうなんてことは、破天荒過ぎる考えだった。そんな鉄道路線づくりを、五島慶太は始めたわけである。

 

まずは目蒲線(現・目黒線と東急多摩川線)の路線づくりから手を付け始めた。

 

1923(大正12)年3月11日 目黒蒲田電鉄が目黒線・目黒駅〜丸子駅(現・東急多摩川線沼部駅)間8.3kmが開業

11月1日 丸子駅〜蒲田駅間4.9kmが開業、目蒲線に改称、同線が全通する。当初9月開業予定だったが関東大震災の影響で11月にずれた

 

この年の9月1日に関東大震災が起ったことにより、目蒲線の開業は計画よりも遅くなった。工事現場も被害を受け、慶太自ら現場に出て、作業員らと一緒に復旧作業を行うなど苦闘した。関東大震災の後に下町から山手に住まいを移す人も出てくるようになった。山手線沿線に住む人は増えたものの、城西・城南の郊外へ住まいを移す人はそれほど多くはなかった。

↑目蒲線開業直後に旧丸子駅で写した目黒蒲田電鉄重役一同。左端が五島慶太、右から5人目が小林一三(昭和18年刊『東京横浜電鉄沿革史』)

 

↑現在の東急蒲田駅。右上は大正末期の蒲田駅(昭和18年刊『東京横浜電鉄沿革史』)。駅周辺は閑散としていたことが良く分かる

 

目蒲線が開業してから間もなく、次は東横線の開業を目指した。まずはペーパーカンパニーだった武蔵野電気鉄道の社名を、1924(大正13)年に東京横浜電鉄と変更した。五島慶太が専務に就任、小林一三が監査役となっている。そして、

 

1926(大正15)年2月14日 東京横浜電鉄が神奈川線・丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間14.8kmを開業、目蒲線からの直通運転を開始

1927(昭和2)年8月28日 渋谷駅〜丸子多摩川駅間9.0kmが開業。路線名を東横線とする

 

渋谷駅と神奈川駅間の全通が遅れたのは、多摩川の架橋工事に手間取ったからだった。この架橋工事でも慶太は陣頭指揮をとったと記録されている。

↑東横線の開業当時、横浜側の終着駅は神奈川駅(廃駅)だった。路線跡は東横フラワー緑道として整備され、線路のモニュメントも設置されている

 

【五島慶太の生涯⑤】東横線の路線を横浜まで延ばしたものの

大正から昭和初期にかけて設けられた目蒲線と東横線だったが、当初は利用者も少なく苦戦続きだったが、徐々に乗客が増えていき、路線延伸が続けられた。

 

1927(昭和2)年7月6日 大井町線、大井町駅〜大岡山駅間4.8kmが開業

1928(昭和3)年5月18日 東横線、神奈川駅〜高島駅間1.2kmが開業

1929(昭和4)年11月1日 二子玉川線、自由ヶ丘駅(現・自由が丘駅)〜二子玉川間4.1kmが開業、12月25日 二子玉川線、大岡山駅〜自由ヶ丘駅間1.5kmが開業。大井町駅〜二子玉川駅間が全通し、大井町線となる。

1932(昭和7)年3月31日 東横線、高島町駅〜桜木町駅間1.3kmが開業

 

現在まで続く、東横線、目蒲線(目黒線と東急多摩川線)、大井町線の路線網が、昭和初期でほぼ造り上げられた。

 

年号や開業日だけを見ると、いかにも路線の開業、延伸が上手く進んだように見えるが、すべて上手くいったわけではなかった。

 

1927(昭和2)年に起きた金融恐慌の影響、さらに世界恐慌。銀行は連鎖倒産、中小企業の倒産、労働争議も各地で起き、工場閉鎖が相次いだ。そして失業者が町にあふれた。現在、コロナ禍とはいえ、大卒の就職内定率は90%近くになる。ところが当時は大卒で就職できたのは30%だった。どん底の不況が日本を襲った。

↑1935(昭和10)年ごろの東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄の路線図。前年に池上線も同社の路線となり拡大路線は順調に進んだ

 

慶太も新線建設のための資金ばかりか、従業員の給料にと、銀行を駆けずり回るが、資金調達が断たれてしまうこともしばしばだった。資金繰りに苦しみ、わずかばかりの借金で保険会社にも頭をさげて回ったと伝わる。

 

「松の枝がみな首つり用に見えて仕方がなかった」

(日本経済新聞社刊『私の履歴書』より)

 

豪毅な五島慶太でさえ、この時ばかりは死を覚悟したようである。とはいえ、こんな絶体絶命な時にも、嘉納治五郎の教え、“なあに”の気持ちで踏ん張った。この時の経験は五島慶太の『予算即決算主義』の経営哲学の確立に役立ったとされる。

 

当時の東横線のチラシには「ガラ空き電車を御利用下さい」の文句すらある。なかば居直りにも感じられるセールストークである。このガラ空き電車の文句には前例があった。事業の師でもあった阪急創始者・小林一三氏も同じ文言を使っていたのである。

 

小林一三は、神戸線開業時に自ら次の広告文を書いている。「綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車」とした。小林一三も、五島慶太も、どのように大変な時でも、茶目っ気を忘れなかったようである。

 

金融恐慌、世界恐慌の不景気に震撼した日本経済だったが、転機が訪れた。1931(昭和6)年9月18日に起きた満州事変だった。中国の満州で起きた紛争により、その後、関東軍は満州の占領を進める。この軍需景気により、日本の経済は復活し、湧いたのである。

 

【五島慶太の生涯⑥】吸収合併を繰り返して“強盗慶太”と揶揄された

五島慶太はこの機を活かして拡大政策にうって出る。まずは1934(昭和9)年に東京高速鉄道の常務に就任。地下鉄路線の経営に勝機ありと見てのことだった。

 

さらに10月1日に池上電気鉄道(五反田駅〜蒲田駅間)の吸収合併を行う。現在の池上線は池上電気鉄道という会社が、1922(大正11)年に蒲田駅〜池上駅間1.8kmを開業させたことに始まる。徐々に延伸させていき、1928(昭和3)年に五反田駅まで全通させた。

 

慶太が率いた目黒蒲田電鉄と、ほぼ同じ時期に路線づくりを始めた会社だった。その会社を吸収合併という形で飲み込んだのである。

 

1934(昭和9)年は五島慶太が最初の勝負に乗り出した年だった。だが、好事魔多し。10月18日になんと贈賄容疑で逮捕されてしまったのである。東京市長選の立候補者に対して多額な選挙資金を提供したという疑いがかけられた。約半年後の182日目に釈放されたものの、市ヶ谷刑務所に半年にわたり収容されている。裁判の結果は第一審が有罪、第二審が無罪、大審院では上告棄却され、無罪となっている。

↑1938(昭和13)年、玉川電気鉄道合併後の路線図。同線は渋谷以東にも路線を持っていたが、合併後すぐに東京市電気局の路線となった

 

収監中は読書ざんまいの生活をおくったとされる。「人間として最低の生活」と後に振り返るものの、事業ばかりの自分の半生を冷静に省みることもできた。無罪となった五島慶太はさらに事業の拡大を推し進めていく。

 

1936(昭和11)年 東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄取締役社長に就任

1938(昭和13)年4月1日、玉川電気鉄道を合併する(後の東急玉川線)

 

同年に江ノ島電気鉄道を買収、取締役社長に就任。ほかタクシー会社、運送会社など複数の企業を立ち上げて社長に就任した。

 

1939(昭和14)年10月1日 目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を吸収合併、名称を東京横浜電鉄に。

1942(昭和17)年5月1日 京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併、東京急行電鉄株式会社に商号を変更

 

↑小田原急行鉄道と呼ばれた当時の小田原駅。親会社は鬼怒川水力電気という電力会社だった。1942(昭和17)年に東京急行電鉄に統合された

 

太平洋戦争に突入した1942(昭和17)年に五島慶太は京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、さらに1944(昭和19)年には京王電気軌道を合併している。この時代は東急最大最長の路線網を誇ったころで、後にこの時代の東急を「大東急」と呼んだ。当時は資金力にものを言わせて、他社の鉄道を飲み込んだと世間的には見られており、五島慶太は“強盗慶太”と揶揄された。

 

ただ、大同団結した時代の背景も見ておかなければいけないだろう。まずは当時の鉄道会社の多くが、電力会社の副業という側面があった。ところが、1938(昭和13)年4月に国が電力管理法を施行したことにより局面が変わる。この法律によって、電力の国家統制が始まった。それまで中小電力会社が乱立していたが、様々な圧力もあり日本発送電にまとめられてしまう。

 

鉄道業務が副業だった電力会社は追いつめられた。小田急電鉄がその一例にあたる。小田急電鉄は鬼怒川水力電気という電力会社の子会社で、その電力業務を国に取り上げられたことで窮地に追い込まれた。そんな時に救いの手を差し伸べたのが五島慶太だ。

 

また1938(昭和13)年に4月2日に陸上交通業調整法が公布、8月1日に施行されたことも大きい。こちらも国家統制で、乱立気味だった交通事業者の整理統合を正当化する法律でもあった。こうした時代背景が生み出した“大東急”だったのである。

 

【五島慶太の生涯⑦】渋谷を大きく繁栄させた東横百貨店の誕生

東急を生み出した五島慶太だったが、鉄道事業以外も精力的に推し進めた。そうした多角化が、その後の東急の文化的な側面のイメージアップにつながったことは間違いない。もちろん電鉄の利用者を増やす目的もあったのだが。

 

最初の動きとしては1929(昭和4)年の7月に慶応義塾大学の日吉台への誘致が挙げられるだろう。大学に無料で7万2000坪の土地を提供している。当時、世界恐慌による不況の影響を受けていたのにも関わらずである。名のある大学を誘致すれば、路線のイメージアップにつながり、もちろん学生に電車に乗ってもらえる。とはいっても会社ができて間もない時期であり、ライバル会社との綱引きもあり、広大な土地の無償提供はかなり思い切った策だった。その後には、

 

1934(昭和9)年11月1日 渋谷駅東口に東横百貨店(東館)が開業

1938(昭和13)年6月に東映映画株式会社を設立、7月に株式会社日吉ゴルフクラブを設立、12月に玉電ビルが完成、東横百貨店西館が開業する

1939(昭和14)年 東横商業女学校を私費で設立

 

デパート、映画興行、さらにゴルフ施設、そして学校の設立も行っている。東横商業女学校は、贈収賄事件で収監された五島慶太へ当時の株主総会で感謝金として出された5万円に、私財をプラスして設立させた。「この金をもらうわけにはいかず」と話したとされるように、お金に執着するわけでなく、将来のための人づくりのために活かしたわけだ。東横商業女学校は、その後に東横学園中学校・高等学校となり、また建学された武蔵工業大学と、東横学園女子短期大学が統合され、現在は東京都市大学と改称している。これらの学校は学校法人五島育英会が運営を行う。五島慶太の思いがこうして花開いていくわけである。

 

五島慶太が生前は“強盗慶太”と称されたものの、没後にその生涯が認められたのは、鉄道事業以外に、多くの社会貢献にあたる事業を進めたことも大きいだろう。

↑東横百貨店の開業は渋谷の町の発展に大きく貢献した。写真の東急百貨店東横店は2020年3月31日で閉店している

 

太平洋戦争中には事業ばかりでなく、政治の世界にも乗り出した。

 

1943(昭和18)年 内閣顧問に就任

1944(昭和19)年2月19日、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任

 

大臣に就任したことから東京急行電鉄社長を辞任。この時、61歳。電鉄の誕生に関わり、順調に成長させ、多くの路線網を傘下におさめた。まさに絶頂期だったのかもしれない。

 

ところが、大臣に就任してわずか5か月後の7月18日、東條英機内閣は解散してしまう。五島慶太は運輸通信大臣を辞任後、12月28日に東京急行電鉄会長に就任した。

 

さて五島慶太の今回の紹介はここまで。次回は太平洋戦争後の話を中心に進めたい。戦後は、箱根と伊豆でライバルとなる人物が現れ、壮絶な戦いを繰り広げることになる。

 

東急を率いるにあたって追い込まれることも多くなっていくが、常に〝なあに〟の思いを強め、乗り切っていったのである。

 

*参考資料:「東急・五島慶太の生涯」北原遼三郎著/現代書館、「ビッグボーイの生涯」城山三郎著/講談社、「私の履歴書‐昭和の経営者群像〈1〉」日経新聞社、「東京横浜電鉄沿革史」東京急行電鉄株式会社