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2021/8/14 17:45

吉田初三郎の熱意に引き込まれる!大正&昭和初期の「鉄道鳥瞰図」の世界

 〜〜大正・昭和初期の鉄道路線図・鳥瞰図を読み解くNo.1〜〜

 

家で楽しめる鉄道趣味の世界。今回は大正期から昭和初期に“異常なほど”にブームとなった鉄道鳥瞰図を見ていきたい。吉田初三郎というひとりの天才絵師の登場により、その後、彼を追うように優れた作家たちが数多く生まれ、一大ブームとなったのだ。

 

彼らがつくる鳥瞰図は今みても、“えっ!そこまで描くか!”という構図が多く、強く引き込まれる魅力を放つ。当時の沿線模様が楽しめる約100年前の世界にタイムスリップしてみよう。

 

*緊急事態宣言および、まん延防止措置が引き続き一部地域に宣言・発令されています。不要不急の外出を控えていただき、宣言解除後に鉄道の旅をお楽しみください。

 

【はじめに】デジタル化された現代とは異なる超アナログの世界

鳥瞰図(ちょうかんず)とは、上空から陸地を斜めに見下ろすように作られた地図のこと。鳥のように空を飛び上空から眺めたところを図にしたものだ。下の図は筆者が作ったもの。ある出版社のガイドブックを編集制作した時に、立山黒部アルペンルートを上空から見るというテーマで作った。

↑ガイド誌に掲載した立山黒部アルペンルート(筆者作)。現在は地図作りがある程度できれば、そう時間がかからずに作図できる

 

現在では、カシミールという地図を3Dに加工するソフトと作図用ソフトを使えば、それほど難しくなく鳥瞰図を作ることができる。また、こうした出版用の鳥瞰図でなくとも、現代人は3Dビューの地図、つまり鳥瞰図に簡単に接することができ、敷居の高い世界ではなくなっている。

 

今でこそ簡単に作れ、また接することができる鳥瞰図の世界だが、100年ほど前に作り出していた人たちの苦労は生半可なものでなかったことが想像できる。

 

時は明治末期から大正、そして第二次世界大戦までの平和な時期。1912(明治45)年にジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社、現在のJTB)が創設され、国内外に観光ブームが巻き起こった時期でもあった。そんな時期に生まれた鳥瞰図を見て多くの人が触発され、旅を楽しむようになっていった。鳥瞰図はまさに観光ブームの火付け役ともなったのである。

 

【鳥瞰図の世界①】広げれば路線全体が一望できる神秘的な世界

大正から昭和初期に巻き起こった観光ブームの中で作られた鳥瞰図の装丁をまず見てみよう。多くの鳥瞰図は、国や府県、都市などの自治体、鉄道省(国鉄の前身)、旅館組合がお金を出して、絵師に依頼し、作図してもらった。民間の鉄道会社も例に漏れず、鳥瞰図を多く発注している。下の写真はそんな鉄道会社が発注した鳥瞰図の例である。

 

その多くは厚地の表裏カバーが付き、中には鳥瞰図が折り畳まれている。開くと左右80cmにもおよぶ大きな地図が広がる仕組みだ。タテは18cmほどなので、かなり横長だった。

↑吉田初三郎という絵師が描いた鉄道鳥瞰図の例。表裏のあるカバーの中に左側のような横長の鳥瞰図が折り込まれていた

 

広げると、それこそ鳥が飛んだ時に見えるような風景がそこに表現されていた。当時の人にはさぞや新鮮に見えたことだろう。大半の人が飛行機には乗る機会がなかっただろうし(日本初飛行は明治末期のこと)、航空写真やドローンなどで撮った映像などを見ることができなかった時代だからこそ、より鮮烈に受け取ったと思われる。

 

絵師たちはどのように鳥瞰図を作ったのだろうか。

 

参考になるのは平面的な地図のみで、今ほど細かい情報は書き込まれていない。鳥瞰図を作るとなると、その情報量の少ない地図を持って、描く場所をくまなく歩いて情報を得なければならなかった。カメラも持ち歩けるようなものは少なく、また筆記用具も今のようにコンパクトではない。クルマも容易に使えるものではない。鉄道を使って近くまで行き、あとは歩くしかない。ネット時代とは大きく異なり調査はかなりハードだったはずである。

 

そうした鳥瞰図の世界でスターとも呼べる人物が登場し、その人気が沸騰していく。今回は、そのブームを生んだ吉田初三郎作の鳥瞰図を中心に話を進めていこう。

 

【鳥瞰図の世界②】吉田初三郎が生みだした新世界。初期の作例

鳥瞰図の中で最も素晴らしい作品を生み出した絵師が吉田初三郎とされる。初三郎は1884(明治17)年、京都に生まれた。10歳の時に代表的な染色技法「友禅」の図案師の元に丁稚奉公に出され、その後に洋画家に師事。さらに師の薦めで商業美術の世界に歩を進めた。

 

鳥瞰図を作りはじめたのは30歳前後のことで、1914(大正3)年に「京阪電車御案内」という京阪電気鉄道の案内を制作したのが最初とされる。この鳥瞰図がその後の初三郎の運命を決めた。ちょうど皇太子時代の昭和天皇が「京阪電車御案内」をご覧になり「これはきれいで分かりやすい」と賞賛されたのである。

 

当時の、このお言葉の影響度は計り知れない。初三郎は途端に鳥瞰図の世界でスターダムにのし上がったのだった。その後には「大正の広重」とも称されるほど大物になっていく。初三郎が生みだした鳥瞰図は果たしてどのようなものだったのか、具体例を見ながら紹介していこう。今回例にあげたものは、みな脂がのったころのものだ。初三郎ワールドが全開となっている。

*鳥瞰図および絵葉書は筆者所蔵。禁無断転載

 

◆1922(大正11)年発行・秩父鉄道「沿線名所圖繪」

↑秩父鉄道が羽生駅〜武甲駅(貨物駅)間だった時代の鳥瞰図。先の三峰口までは未完成で予定線として描かれる。図内に電車の絵も見える

 

まずは秩父鉄道の「沿線名所圖繪」と名付けられた鳥瞰図から。初三郎が鳥瞰図を作り出して8年ほどの作品である。後期の作に比べると、極端なデフォルメはなされていないものの、秩父鉄道沿線を流れる荒川が東京湾まで流れ出る構図となっていて、遠く東京には明治神宮や、浅草観音寺などの文字が読み取れる。

 

今回、横に長い鳥瞰図は見やすいように2分割して右面、左面に分けた。また文字や絵が読み取れるように一部を拡大、古い絵葉書、現在の写真などを組み込んでみた。

 

この図で紹介された秩父鉄道は、1901(明治34)年に熊谷駅〜寄居駅間の路線開業によりその歴史が始まる(当時は上武鉄道という会社名)。少しずつ路線が延伸され、1917(大正6)年に影森駅まで、また翌年には武甲駅(ぶこうえき/貨物駅)まで延伸された。鳥瞰図は羽生駅〜武甲駅間の路線が敷かれた後のもの。ちょうど鳥瞰図の発行年に熊谷駅〜影森駅間が電化された。そんな背景があり、鳥瞰図内には電車の絵が描かれている。

 

ちなみに鳥瞰図の発行翌年、1923(大正12)年には宝登山駅(ほどさんえき)が現在の長瀞駅に駅名を改めている。翌年の変更ながら情報が伝わらなかったのか、新しい駅名に変更できなかったことが分かる。

↑秩父鉄道の荒川橋梁は観光ポイントでもあり絵葉書も残る。こちらは昭和初期の貨物列車。有蓋貨車をひく様子が見て取れる

 

↑現在の影森駅から先の引込線の様子。この先に採掘場があり貨物列車が走る。初三郎の鳥瞰図でもカーブする路線が描かれている

 

初三郎の鳥瞰図は地図上、極端なデフォルメが行われているところが特長だ。秩父鉄道の鳥瞰図も、後に作られた図ほどではないが、実際には見えるかどうか微妙な、遠く東京の街まで描いている。加えて単なる路線紹介でなく、路線を線路に見立てて、そこに電車や列車を実際に走るように描いているのが特長となっている。鳥瞰図を単なる案内として仕立てるだけでなく、路線に電車を走らせて楽しくアレンジし、さらに遠くには、こんな町があるということを知らせている。見る人を引き込む要素をしっかり入れ込んでいるところがおもしろい。

 

秩父地方のシンボルでもある武甲山は図の中央にそびえさせているが、当時の武甲山は石灰石の採掘もそれほど進んでいなかった様子が窺える(現在は採掘により、かなり山容が変わっている)。色彩として平地はクリーム色、山地は緑色と変化をつけている。これ以降に制作したものよりも、やや暗めの彩色となっている。この後、初三郎の色付けは明るめなものに変化していく。

 

【鳥瞰図の世界③】ややコンパクト版の鉄道図だとこのように

◆発行年不明 1928(昭和3)年以降?・長野電鉄「沿線御案内」

↑長野電鉄のやや小さめの鳥瞰図。長野電鉄の諸施設をしっかり入れ込んでいるところがポイント。右上に「初三郎」のサインがある

 

先の秩父の鳥瞰図はカバーが付き、やや大きく“かさばる”サイズで、持ち歩くにはあまり便利とは言えない。一方で、コンパクトなサイズの鳥瞰図も制作された。ここで紹介するのは長野電鉄の「沿線御案内」で、鳥瞰図の大きさはヨコ35cm、タテ15.6cmと、長かったものに比べると半分以下となる。折り畳むとヨコ9cm(タテは15.6cmで同じ)までになり、これならば、旅先でも見ることができて便利なサイズだ。

 

この大きさでも要素はしっかり入れ込んである。沿線の観光地はもちろんのこと、長野電鉄第一・第二発電所といった電鉄の設備も入れ込んでいる。何より、長野電鉄が営業する温泉旅館「仙壽閣」が付近の観光施設の中で格段に大きく描かれているのだ。旅館の建物はもちろん、大浴場、温泉プールなども入る。これは発注したクライアントとして大喜びだったことだろう。

↑前述した長野電鉄沿線案内図には屋代線も描かれている。写真は屋代線の松代駅で、2012(平成24)年4月1日に廃止となった

 

つまり初三郎はデザインセンスもさることながら、こうした営業面での配慮も怠らなかった。発注主の受けがよいせいか、生涯1600点以上、また弟子の制作物まで含めると3000点という鳥瞰図を生み出したとされる。

 

一方で、“遊び心”も忘れていない。地図の端には遠く北は青森、函館。西は下関、門司、釜山まで地名が書き込まれている。

 

同鳥瞰図の発行年は明記されていないが、路線の描かれ方で予測ができる。同鉄道では路線網が大正末期から昭和初期にかけて広がっていった。1925(大正14)年に河東鉄道の屋代駅〜木島駅間が開業、翌年には河東鉄道は長野電気鉄道を合併して長野電鉄に社名変更をしている。1926(大正15)年には権堂駅〜須坂駅間が、1927(昭和2)年には信州中野駅〜湯田中駅間、1928(昭和3)年には権堂駅〜長野駅間を延ばして、長野電鉄の路線網を完成させている。鳥瞰図は1928(昭和3)年の路線網完成後のもので、いわば長野電鉄最盛期のものだった。たぶん、路線網完成後に依頼したものなのだろう。

 

当時、それぞれの路線名が明確ではなかったこともあり、鳥瞰図では明記されていないところも興味深い。

 

【鳥瞰図の世界④】すべて手づくりの鳥瞰図の難しさが垣間みえる

◆1927(昭和2)年発行・伊予鉄道電氣「松山道後名所圖繪」

↑伊予鉄道の昭和初期の鳥瞰図。路線が走る松山を中心に、左右に瀬戸内海を広げて描いている。駅名などが小さく見づらいのが難だ

 

初三郎の鳥瞰図の中で地形図の素晴らしさが味わえるのが瀬戸内海がらみのものだと思われる。その特長がいかんなく発揮されているのが伊予鉄道電氣「松山道後名所圖繪」で、松山を中心に、左右に瀬戸内海を幅広く描き、浮かぶ島々と、入江、そして港湾などが美しく描かれている。伊予鉄道の路線網とともに、松山のシンボルでもある松山城、道後温泉本館などの施設が大きく描かれ、思わず行ってみたくなる構図だ。

 

配色も巧みで、平野と山の色具合も、微妙な色が使われ、見ていて気持ちの良さが感じられる。そしてお得意のデフォルメで遠くには琉球、台湾まで記述されている。

 

下記はちょうど昭和初期の松山市内線の絵葉書で、札ノ辻(現在の本町三丁目)の停留場名が鳥瞰図内の路線図内に確認できる。

↑昭和初期の松山市内線、札ノ辻付近(現在の本町三丁目停留場付近)。日本家屋とともに洋館が建ち並ぶ様子が見える

 

さて、この伊予鉄道の鳥瞰図でやや気になることがあった。下記のような路線の追加訂正を記した紙が貼られていたのである。鳥瞰図が発行された1927(昭和2)年とされているが、この年の3月11日に松山駅が松山市駅と改称されている。この情報は鳥瞰図には盛り込まれている。しかし、同年11月1日に開業した高浜線の衣山駅、山西駅の記載がない。ほかいくつかの変更事項が、追加訂正の薄紙に印刷されている。

 

鳥瞰図の停留場、施設名などの記載が全体的に小さいようにも感じた。実物でも良く読めない。たぶん、当時見ている人からの指摘もあったはずだ。初三郎自身がこの鳥瞰図作りにどのぐらい関わっていたかは分からないが、入れている文字まで手書きだったせいか、修正などが簡単ではなく、総じて融通が効かないというのが、大正・昭和初期の鳥瞰図の弱点だったようだ。

↑カバーの裏には松山の観光写真が掲載されていた。その横には追加訂正の紙が貼られ、鳥瞰図の変更点などを補足していた

 

松山市を走る伊予鉄道を乗りに行ったことがある方も多いかと思う。伊予鉄道といえば、高浜線の大手町駅前にある、市内電車との平面交差区間が名高い。先の鳥瞰図を見ると、当時、大手町駅は江戸町駅(えどちょうえき)を名乗っていた。交差する市内電車の大手町線はまだ未開通で、1936(昭和11)年に大手町線の江戸町駅前の停留場が誕生している。よって、ここに平面交差区間ができたのも、鳥瞰図が作られた以降ということが分かった。

↑高浜線の大手町駅前の平面交差区間を走る坊っちゃん列車。同列車は伊予鉄道開業時に走っていた列車をモチーフにして生まれた

 

【鳥瞰図の世界⑤】初三郎の世界100%全開のパノラマワールド

◆1928(昭和3)年発行・富士身延鉄道「沿線名所圖繪」

↑富士身延鉄道全通した年に造られた鳥瞰図。非常に分かりやすくつくられている。遠くサンフランシスコまで描いていることに驚かされる

 

4枚目は富士身延鉄道の「沿線名所圖繪」を紹介したい。富士身延鉄道は現在のJR身延線を開業させた前身となる鉄道会社で、会社創設は1912(明治45)年のことだった。大正初期に東海道本線と接続する富士駅側から路線の延伸を始め、1920(大正9)年に身延駅が開業。1928(昭和3)年に甲府駅までの延伸を果たしている。鳥瞰図は全線開業時に造られたものである。

 

この鳥瞰図は伊予鉄道のものとは異なり、駅名や観光名所の紹介文字が大きめで、また大小の文字を使っていて分かりやすい。何よりも、構図が大胆で巧みである。右に富士山、左側に沿線の観光ポイントである身延山が対となるように描かれている。間に富士川が流れ、富士川沿いを突っ切るように、直線で、富士駅〜甲府駅間を走る富士身延鉄道の路線が描かれる。駅間には、無数のトンネルが描かれ、この路線の険しさが印象づけられている。もちろん、身延線は、この図のように直線ということはなく、カーブ路線が続く。それを直線で描いてしまうこと自体にも豪胆さが感じられる。

↑富士身延鉄道時代の下部駅(現・下部温泉駅)の絵葉書。当時の茶色の電車が停まる様子が見える。同駅は1927(昭和2)年の開業

 

初三郎は大正名所図絵社(後の観光社)という会社を作り、多くのスタッフが手伝い鳥瞰図を作っていた。そのために、素人目に見ても出来不出来が散見される。ただし、手作りだからこその良さも見えてくる。

 

この鳥瞰図でおもしろいのは、起点となる富士駅の東海道本線とその延長上に続く地名や地形の描き方だ。

 

雲状のデザインを配置し、そのデザインで近いところと、遠いところを区切っている。この図では東海道線に沿って見ていくと、西は大阪、神戸、さらに山陽本線が直線状に描かれ、下関まで記載されている。さらに遠くには釜山、朝鮮、金剛山、さらに台湾まで記述されている。逆には富士山越しに東京近辺を描き、遠くに筑波山と房総半島が見える。

 

愉快なのは伊豆半島の下田の先に、何とハワイ、サンフランシスコの名称が記述されているところ。今でこそ、国際宇宙ステーションにでも乗っていれば同一画面上に見えるかもしれないが、これこそ初三郎が持っていた “遊び心”の一面をよく表している。

↑身延線はアップダウンに加えてカーブの多い路線だ。初三郎はこの路線全線を直線に描き、分かりやすい鳥瞰図に仕立てた

 

吉田初三郎は、鳥瞰図を描く絵師ながら、地方を歩き、情報を仕入れ、それを絵として残す、いわば現代のジャーナリズムにも通じる視点を持っている。もちろん社員がその一部を分担したとしてもだ。そして大胆なデフォルメを施しつつも、それは見る人が分かりやすいように、意図的に変更し、デフォルメしたのである。決して間違った情報は入れ込んではいない。この鳥瞰図を見て、果たして目的地に間違いなく行けるかは疑問であるが、駅と目的地の位置関係などはすぐに分かる。非常に高度に作り出されたものである。

 

しかし、初三郎の鳥瞰図はその分かりやすさゆえにマイナス要素も生みだした。

 

昭和10年代前半まで初三郎の活躍が続いたが、太平洋戦争の前後、ぱったりと初三郎の作品が世に出なくなってしまう。その理由は港湾などの施設が緻密に描かれすぎているからだ。地図などの情報は、当時、軍事機密とされた。たしかに初三郎の鳥瞰図を敵方が見たら、良い情報源になったであろう。飛行機を操縦していたとしたら、コクピットから実際に見えたであろう情景がそこに描かれていたのだから。鳥瞰図は平和時だからできたものだったのである。

 

そのため太平洋戦争下では不遇の時代を送っている。戦時下にどのような暮らしをしていたのかは伝わっていないが、仕事がなくなったのだからつらかったことだろう。その思いが戦後の仕事に向かっている。1946(昭和21)年に広島へ足を運び、5か月にわたり、被爆地・広島の“取材”を続けた。数百名に証言を得て描いたとされる「廣島原爆八連図」を残した。なかでも原爆が爆発した時のものされる鳥瞰図は鬼気迫る凄みが感じられる。

 

初三郎はその後、原因不明の病に冒され1955(昭和30)年8月16日死去、享年71歳だった。その業績は近年になって見直され、再評価されるようになってきている。しかし、「廣島原爆八連図」にしても元となる肉筆画が見つかっておらず、未知の部分が多い絵師でもある。亡くなって60年以上の年月がたつものの、作品づくりに向かう真摯な姿勢には学ぶべきところが多い。