おもしろローカル線の旅44 〜〜箱根登山鉄道鉄道線(神奈川県)〜〜
神奈川県の小田原駅と強羅駅を結ぶ箱根登山鉄道鉄道線。国内唯一の本格的な登山電車としての道を歩んできた。
ちょうどこの季節は沿線のあじさいが美しい季節。さらに7月で旧型車両が消えるという気になる情報もある。険しい箱根の地を走る登山鉄道らしい苦難の歴史も交え、箱根登山鉄道鉄道線の魅力に迫ってみた。
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【箱根登山電車の秘密①】自然破壊を避けたい当時の人々の思い
箱根登山鉄道の路線の概要を見ておこう。その前に確認を一つ。箱根登山鉄道はご存知のように会社名であって、小田原駅〜強羅駅間の路線は箱根登山鉄道鉄道線と呼ばれる。箱根登山鉄道では鋼索線、つまりケーブルカーも運行していて、こちらの強羅駅〜早雲山駅間の名称は箱根登山鉄道鋼索線となる。
今回は、箱根登山鉄道鉄道線の紹介となる。ややこしいので今回は同社のホームページなどの表現に従い、「箱根登山電車」と略して紹介しよう。
路線と距離 | 箱根登山鉄道鉄道線/小田原駅〜強羅駅15.0km |
開業 | 1900(明治33)年3月21日、小田原電気鉄道が国府津駅〜小田原駅〜湯本駅間の電気鉄道の営業を開始、1919(大正8)年6月1日に箱根湯本駅〜強羅駅間の登山鉄道線の営業を開始 |
駅数 | 11駅(起終点を含む) |
比較的、平坦だった小田原駅〜箱根湯本駅間は、明治期にすでに開業していた。大変だったのは箱根湯本駅からで、今からちょうど100年前に路線が造られた。つまり本格的な登山電車の区間である箱根湯本駅〜強羅駅間は、誕生してちょうど100周年を迎えたというわけである。
建設技術、そして鉄道車両の技術が発達した今でも大変そうな道のり。さぞかし難工事だったろう。登山鉄道用の車両を造ることにも苦労したことだろう。
箱根湯本駅からの路線は、当初、今とは異なりラックレール(アプト)方式。つまり線路の中間に歯の付いたレールを敷き、車両が持つ歯車とかみ合わせて走る方法が検討された。
路線も現在とは異なるルートが計画された。しかし県を含め、地元自治体、そして社内からも「箱根の自然景観を大事にしてほしい」という声が強く持ち上がった。そのため当初の計画が大きく変更された。
トンネルを多く掘り、山肌に沿うように、多くの急カーブを描く路線が造られた。
開業計画は延び延びになり、さらに工事費も大幅に上回った。工事着手から4年の歳月を経て、標高差445m、箱根湯本駅〜強羅駅間8.9kmの路線が開業された。
一世紀前すでに、自然破壊を防ぐ路線計画という発想があったことに驚かされる。さらに資金が多くかかろうとも、将来のために、箱根の自然と残すのだ、という思いを多くの人が持っていたことに尊敬の念を抱かざるを得ない。
ところが、開業してわずか、箱根登山電車を悲劇が襲うのである。
【箱根登山電車の秘密②】開業わずか4年で関東大震災が起こる
1923(大正12)年9月1日、相模湾を震源とするマグニチュード7.9、最大震度6の大地震が発生。いわゆる「関東大震災」である。首都東京そして南関東一円、に大きな被害をもたらした。とりわけ震源域に近い小田原、箱根の被害は甚大だった。
箱根登山電車の路線への影響も甚大で、線路の多くの箇所で崩壊、橋はほとんどが破壊され、多くのトンネルが損傷した。車両も脱線転覆、さらに土砂に巻き込まれ埋没したとされる。
しかし、幸いなことに同鉄道の最大の建造物でもあった早川橋梁(出山の鉄橋=詳細後述)の損傷は軽微だった。
甚大な被害を被った箱根登山電車だが、復旧への歩みは早かった。関東大震災が起きた年は、復旧への調査・計画にあてられ、翌年初めから復旧工事を開始する。そして同年の12月24日には運行を再開させたのだった。
震災から1年とちょっとで、復旧させてしまったわけである。路線の距離はそれほど長くはないとは言え、箱根は非常な険路だ。機材も現在のように整っていない。そうした路線をこの期間で直してしまう、その凄みには「恐れ入りました」と言うしかない。