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2020/10/4 18:30

なぜ?どうして?「近鉄田原本線」−−とっても気になる11の不思議

おもしろローカル線の旅66 〜〜近畿日本鉄道・田原本線(奈良県)〜〜

 

日本各地には、ちょっと不思議で、乗ってみたいと思わせる路線があるもの。筆者はついそうした路線を見つけると、行ってみたくなる。近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)の田原本線(たわらもとせん)もそうした路線だ。

 

起終点駅ともに近鉄の駅が間近にありながら、駅は異なり線路が結ばれていない。ほかにも疑問が多数出現する“おもしろい路線”なのだ。そんな不思議な路線に乗車しようと奈良県の王寺駅へ向かった。

*取材撮影日:2020年1月31日、2月2日、9月21日

 

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【田原本線の不思議①】大手私鉄では珍しい“孤立路線”の一つ

↑田原本線の佐味田川駅〜池部駅間を走る8400系。沿線に住宅街が多い路線だが、こうした緑の中を走る区間もある

 

初めに、近鉄田原本線の概要を見ておきたい。

路線と距離近畿日本鉄道・田原本線/新王寺駅〜西田原本駅10.1km *全線単線・1500V直流電化
開業1918(大正7)年4月26日、大和鉄道により新王寺駅〜田原本駅(現在の西田原本駅)間が開業
駅数8駅(起終点駅を含む)

 

まずは、この路線の不思議なところは、起点駅の新王寺駅と、終点駅の西田原本駅(にしたわらもとえき)の両駅とも、近くに近鉄の駅がありながら、駅が異なっているということ。しかも隣接する駅とは線路が結びついていない。詳しい駅の造りは、後述するとして、新王寺駅は、近鉄生駒線の王寺駅と130m(徒歩2分弱)ほど離れている。西田原本駅は、近鉄橿原線(かしはらせん)の田原本駅と60m弱離れている。ここで名前をあげた3路線すべて、線路幅が1435mmと同一であるのにもかかわらずである。

 

こうした大手私鉄の路線網で自社他線との接続がない路線を“孤立路線”と呼ぶことがある。田原本線は隣接して走る橿原線と連絡線があり、回送電車がこの連絡線を通って行き来するものの、直通電車は走っていない。起終点の駅の同一会社同士の駅の離れ方は、他に例を見ない微妙な“孤立ぶり”である。

 

なぜ、孤立路線となったのだろう。それこそ同路線の微妙な歴史が隠されていたのだった。

 

【田原本線の不思議②】最盛期には桜井まで路線が延びていた

下の写真は昭和初期の鉄道路線図である。王寺駅と桜井駅との間を「大和鉄道」という鉄道が走っていたことが分かる。当時の路線図には南海はあるが、近鉄の名前は載っていない。なぜ載っていないのだろう……。

↑東京日日新聞の1928(昭和3)年元旦発行版の付録「全国鐵道地圖」には「大和鉄道」という路線名で田原本線が掲載されている

 

田原本線は大和鉄道という会社により1918(大正7)年4月26日に、現在の路線区間が開業した。その後に、路線は1928(昭和3)年に桜井駅まで延伸している(旧田原本駅〜桜井駅間は1958年に廃止)。この路線図は延伸当時のものだ。開業当時の線路幅は1067mmで、蒸気機関車が牽引する列車が往復した。

 

大正・昭和初期は、奈良県内の鉄道路線網が大きく変っていった時代でもある。大阪電気軌道(上記図内にあり)が、大阪線や、畝傍線(うねびせん/後の近鉄橿原線)を開業させたことから、大和鉄道は経営が悪化していく。大阪電気軌道こそ、近鉄の前身となった会社だ。大阪電気軌道はその後に関西急行鉄道となり、さらに太平洋戦争中の1944(昭和19)年に近畿日本鉄道と名前を改めた。南海電気鉄道(当時は南海鉄道)を含め関西圏のいくつかの鉄道会社が合併して生まれた。戦時下という特殊事情のなか、一時期にせよ近鉄の名のもとに大同団結している。

 

大和鉄道は大阪電気軌道の傘下に加わっていたものの、この時代、創業当時の会社のままで終戦を迎えている。

 

大和鉄道を取り巻く状勢が変化したのは、戦後しばらくたってから。現在の近鉄生駒線を運営していた信貴生駒電鉄(しぎいこまでんてつ)が1961(昭和36)年10月1日に大和鉄道を合併した。さらに1964(昭和39)年10月1日に信貴生駒電鉄が近鉄に吸収合併された。そして現在に至る。大和鉄道時代に、すでに近鉄の前身にあたる会社の傘下にありながら、戦時下に合併されることなしに、戦後まで会社が存続していたこともちょっと不思議に感じる。

 

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