人は自分の将来に夢を持ち、それに向かって突き進むものだろう。特に若いころは自分の未来は明るいと信じ、夢の実現のために、その身を捧げる。しかし、現実には夢を手にする者はごくわずか……。多くの人々が志半ばで挫折し、苦い思いをかみしめながら、それでも毎日を生きていかねばならない。
すべてに恵まれて
夢の実現をはばむもの……。それは、才能の欠如、良い指導者を得られなかったこと、さらには周囲の無理解、体力の限界、努力が足りないなど、様々な理由があるだろう。
しかし、豊かな才能を持ち、最高の指導者を得て、周囲のサポートも万全、本人も必死の努力を続けていても、夢をあきらめざるをえない場合もある。『熾火』(別府育郎・著/ベースボール・マガジン社・刊)は、そんなどうしようもない不運に見舞われた一人のボクサーと、彼を支えたトレーナーの人生を描いた物語だ。
主人公の名は田辺 清。今から60年前に、ローマオリンピックで銅メダルを獲得したボクサーだ。この時のメダルは、ボクシング界で日本人が初めて獲得したメダルとなった。栄光に輝いた田辺はまだ大学2年生の若さ……。伸びしろは十分で、当然プロ入りが期待された。しかし、彼はプロボクサーの道を選ばず、大学卒業後に新聞記者になった。両親が強く反対したため、逆らわなかったのだ。
たとえオリンピック・メダリストであっても、新聞記者としてはビギナーだ。最初からすべてがうまくいったわけではない。ストレス過多のため、胃けいれんで1週間入院したりもしている。しかし、持ち前の粘り強さを武器に努力を重ね、やがて一人前の記者として認められるようになっていった。しかし……。
夢は熾火のように
新聞記者としての生活を続けていた田辺だったが、次第にボクシングのチャンピオンになるという夢をあきらめることができない自分に気づいた。家族から再び反対を受けたが、今回は自分の道を行くと決断し、トレーニングを再開した。ブランクがあったにもかかわらず、その年の12月には早くもプロとしてのデビュー戦を行っている。
熾火のように静かに燃えていた夢は、とうとう現実のものとなったのだ。デビュー後、田辺は順調に勝ち進み、ひとつの引き分けを挟んで21連勝を重ねた。そして、とうとう世界タイトルに手が届くところまできた。夢は実現間近だった。
夢の実現に、助っ人現れる
幸運に恵まれ、田辺の夢を自分の夢として協力してくれる人物も現れた。名トレーナーとして名を馳せていたアメリカ人、エディ・タウンゼントの指導を受けることになったのだ。二人の初対面のシーンは、興味深い。ジムにふらりと現れたエディは、田辺にいきなりこう言った。
「タナーベ、背中、ゴミあるよ」
生涯を通じて、互いに深い愛情を持ち続けた二人の最初の会話である。エディは田辺のウィークポイントを「背中のゴミ」と表現した。自分では気づかないところをトレーナーとして指導しようという意味だ。
田辺も不思議な日本語の真意を理解した。そして、二人は世界チャンピオンに向けて一緒に走り出したのだ。
田辺vsアカバロ戦
エディの指導のもと、田辺は自分の弱点を見つめ直しハードな練習を続けた。その甲斐あって、ついに世界王者・アカバロと対戦するチャンスを得た。
アカバロは当時32歳。フライ級の絶対王者として君臨する存在だ。ノンタイトル戦とはいえ、ここを乗り切れば世界タイトルに挑戦できる。昭和42年2月20日、東京・水道橋の後楽園ホールが決戦の舞台となった。
田辺は1ラウンドから王者・アカバロを圧倒した。その後も順調に、田辺はパンチを繰り出し、試合をリードする。1ラウンドから3ランドまで、田辺のリードが続いた。4ラウンド、偶然のバッティングでアカバロの額が切れ、激しい出血となった。それでも、アカバロはあきらめず、試合を再開したものの、5ラウンドに入ると、アカバロの出血はひどくなっていた。そして、迎えた6ラウンドで再び偶然のバッティングがあり、結局、試合続行不可能との判断がくだされた。アカバロの出血はひどいものだった。
結果、田辺はTKOでアカバロに勝った。TKOとはいえ、完勝である。新聞社を辞めてまで挑戦したボクシングの世界で、いよいよチャンピオンになる一歩手前まできたのだ。次の試合は、アカバロを相手にアルゼンチンで行われることが決まった。
めぐってきたチャンスを前に田辺は奮い立った。世界王者のタイトルを奪取するという夢の実現のため、伊豆でキャンプを張り練習に打ち込んだ。
世界タイトルまであともう一歩。田辺は気力・体力共に充実していた。準備は万端だったのだ。ところが……。
残酷な試練
神様は時々、残酷なことをなさる。そんな、あんまりだというような悲劇が田辺を襲った。それも突然に。まるで襲いかかるように……。
キャンプの最終日、25日のことだ。
荷物の整理も済ませてホテルのロビーでくつろいでいた。部屋の隅には大きな水槽があり、金魚が泳いでいた。窓の外には、紺碧の空に富士山の雄姿がくっきりと輪郭を刻んでいた。裾野は緑のじゅうたんを敷き詰めたように萌え広がっていた。
そんなのどかな光景が一変した。
蝶々の羽根のような黒い影がパッと右目に咲いた。シャッターが下りるように視野が遮断され、灰色の世界がそこにあった。
(『熾火』より抜粋)
網膜剥離だ。当時のボクサーにとって、それは即引退を意味し、死刑宣告に等しい病気だった。それでも、田辺はあきらめずに手術を受け、つらい入院にも耐えた。
ボクサーとして復帰したいという願いを果たすため、必死の戦いを試みたのだ。今まで戦ってきたリングの上ではなくベッドの上での格闘となったが、何よりつらい試合だったろう。必死の努力の甲斐なく、視力は戻らなかった。手術は成功したものの、目の周囲に侵出物がたまり、視力を取り戻すことは出来なかったのだ。
田辺は無念さをかみしめながら、プロとして22戦21勝1引き分けの記録を残し、引退した。
無敗のままの引退となった。
マイベストボクサー
田辺のトレーナーであったエディ・タウンゼントは、その後もボクサーの指導を続け、多くの素晴らしいボクサーを育て上げた。藤 猛、カシアス内藤、ガッツ石松、柴田国明、村田英次郎、赤井英和、井岡弘樹など、そうそうたるメンバーが並ぶ。しかし、多くの有名ボクサーのトレーナーをつとめたエディ・タウンゼントが「マイベストボクサー」と呼んだのは、田辺 清だけだった。
エディは田辺の才能を誰よりも認めており、網膜剥離による引退に心を痛めていた。チャンピオンに手が届きながら、それを手放さざるを得なかった田辺は、その後の人生を数々の職を転々としながら生きていく。
『熾火』は、ボクシング・ファンはもちろん、ボクシングの試合を観たことがない人にも、深い思いを残す作品である。とりわけ、あなたが夢を追いながらも苦難の多い厳しい毎日を送っているとしたら、何よりの励ましとなるに違いない。
【書籍紹介】
熾火
著者:別府育郎
発行:ベースボール・マガジン社
田辺 清。ローマ五輪銅でボクシング界初の日本人メダリストとなり、プロ転向後は22戦21勝1分。世界王者アカバロとのタイトル戦を前に、網膜剥離で引退を余儀なくされた伝説のボクサーだ。彼と、短期間ながらトレーナーを務めたエディ・タウンゼントの出会いは、その後も様々な形で縁(えにし)となってつながり、今なお日本ボクシング界に脈づいているー無敗で引退した悲運のボクサーと名トレーナーの物語。