おもしろローカル線の旅72 〜〜近江鉄道本線(滋賀県)その1〜〜
古めの西武電車が好きな筆者にとって、近江鉄道への旅は“聖地巡礼”のようなものである。すでに何度となく訪ねたが、今回は違う側面から見たら面白いのでは。例えば歴史探訪とか。そうした思いつきから沿線を訪ねてみた。
すると予想以上に古い歴史スポットが発見できた。これまで何度も訪ねた駅にさえ、新たな発見があり新鮮に感じられたのだった。
*取材撮影日:2016年10月9日、2019年12月14日、2020年11月3日ほか
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【お宝発見その①】鳥居本駅そばに中山道の宿場町があった
近江鉄道本線は、JR東海道新幹線・東海道線、北陸線との接続駅、米原駅を起点にJR草津線の貴生川駅(きぶかわえき)まで走る路線だ。今回は特に印象的な発見があった駅の話から始めてみよう。
鉄道ファンがそのレトロな駅舎に魅かれて、訪れることが多いのが鳥居本駅(とりいもとえき)だ。米原駅から2つめの駅である。1931(昭和6)年に建てられた洋風の小さな駅舎が残っていて、2013(平成25)年には国の有形文化財に登録されている。
筆者も何度か訪れている“お気に入り”の駅だ。これまでの探訪では駅舎を見て、また駅の周りをぶらぶらして時間をつぶして次の電車に乗って帰るのみだった。ホームそして駅舎内に周辺の観光施設など、案内がなかったせいもあったのだろう。ある意味、利用者には素っ気がない造りの駅でもあった。
しかし、駅前に国道8号(中山道/なかせんどう)が横切っている。ということは江戸時代の五街道の一つ、中山道の宿場町がどこか近くにあるのかな、と思って調べると。すぐ東側の細い通りが古い中山道にあたり、このあたりは中山道六十九次、江戸・日本橋から数えて63番目の宿場町、鳥居本宿(とりいもとじゅく)そのものだった。
まさに“灯台下暗し”そのもの。お宝が近くにあったのである。何度か来ていたのにもかかわらず、気が付かないとはなんともうかつだった。
現在の鳥居本宿は、観光地化されておらず、訪れる人もあまりいない。逆に観光地になっていない分、素朴なたたずまいが、旧中山道沿いに残り、のんびり歩くのにぴったりだった。
ちなみに、宿場には旅人に合羽(かっぱ)を商う15軒の合羽所があったという。この先の旅路で越える木曽地方は雨が多い地域で、旅人はこの先の備えとして、この宿場町で合羽を購入し、旅支度をしたそうである。
【お宝発見その②】彦根は城跡よりも佐和山の方が気にかかる
近江本線の鳥居本駅と彦根駅の間には、小さな尾根がそびえていて、その下をトンネルが通っている。そのトンネルの名前は「佐和山トンネル」。歴史好きならば、佐和山と聞けば、ピンと来る方も多いことだろう。そう、豊臣政権を支えた石田三成の居城があったところである。彦根市の佐和山の上に建っていたとされる佐和山城がそのお城だ。
ということで彦根駅を降りてまずはJRの駅にあった彦根市内の案内図を見る。有名な井伊家の居城、彦根城の案内はあるのだが、佐和山城という名称は、地図内にない。あれれ?
彦根駅の東西自由通路から見える山がある。実はこの山こそが佐和山であり、この山に佐和山城趾があったのだ。何度か下車していながら、筆者はこのことをうかつにも気付かなかった。
佐和山城の歴史を調べるとかなり古い。12世紀には近江守護職を務める佐々木家が築城し、その後に六角氏、浅井氏、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴と城主が変っていく。戦国時代の歴史書には必ず名前が出てくるそうそうたるメンバーである。そして1591年には石田三成が城主となった。近江を治め、また東海中部方面へにらみをきかせるのにうってつけの場所だったのだろう。
その後に石田三成は関ヶ原の戦いで敗れたことにより、佐和山城には徳川四天王の1人、井伊家が入城する。すでに乱世の時代が終わっていたことから、井伊家は山を降りる形で彦根城を築城、そこが井伊家の居城となった。その時に佐和山城は廃城となり、残っていた建造物は跡形もなく取り壊され、城は姿を消した。よって、いま山を登っても何もなく、麓には石田三成の屋敷があったとされるが、こちらも石碑のみとなっている。
筆者はつい判官びいきをしがちな性格である。よって彦根城趾と、佐和山の現在の差を見ると何とも偲びがたい。彦根駅で見た地図のように佐和山城がほぼ忘れ去られているようにも感じられ、寂しさを覚えた。そんな佐和山の下を近江鉄道本線がくぐって走っていようとは。それを気付き、また興味深く感じた。