井上ひさしさんがこの世を去ってから10年、大の野球ファンだった彼の名作がこの秋、文庫本で復刊した。
『野球盲導犬チビの告白』(井上ひさし・著/実業之日本社・刊)は昭和54年のプロ野球界を舞台に描かれたフィクションだが、巨人の長嶋監督、王選手、江川選手、そして横浜大洋ホエールズの別当監督など、当時の野球界を牽引した人々が実名で登場する奇想に満ちた作品なのだ。
現在の野球界へのメッセージ
復刊した本書の帯には、現在シアトル・マリナーズで活躍中の菊池雄星選手の言葉でこうある。
「これは井上ひさしさんが残した野球界へのメッセージであり予言だ。」
菊池選手は、日本を代表する文豪の本であり、しかもはじめての本の解説に大きなプレッシャーを抱きつつページを開いたそうだ。しかし、読み始めて数ページでその不安は消えたという。
リズミカルでユーモアがあり、かつ優しい言葉で訴える井上節。著者の調べ上げた膨大な資料から来る根拠のある数字の数々。特に野球ボールの回転数や変化球に対する考察は、現代になって浸透してきたものであり、それを数十年前に文章として残していたことに驚いた。
(『野球盲導犬チビの告白』解説から引用)
また、菊池選手は著者が残したメッセージは現代に通じるものが多いと感じたそうだ。中でも一番大切なこととして、
「ここぞというときに腹の底から意見を言え。(中略)人々はおまえの意見をきくはずだ」
(『野球盲導犬チビの告白』から引用)
という一文が残ったという。顔も名前もわからないSNS上の匿名コメントが溢れる現在だが、それらは公衆トイレの落書きと同じだ、と。そして言葉はその人の人生に乗っかってこそ輝く、と菊池選手は結んでいる。
主人公は盲目の天才打者
さて、物語の主人公は盲目の天才打者・田中一郎と、彼の目となって活躍する雑種のチビだ。チビは、そもそもは千葉県習志野市の植木屋の飼い犬だった。が、プロ野球公式野球審判テストに落ちてばかりのその家の次男坊から虐待を受け続け、ある日、思いつめて出奔。行く当てもないまま彷徨っていると、照明灯も点いていない市川市営球場からシュッ、シュッという音が聞こえてきた。近づいていくと、そのシュッはボールが空気を切り裂きつつ飛来していく音だった。チビは野球審判員志願者の飼い犬だったから、野球に詳しいという設定だ。
チビは土手にのめり込んだボールを掘り出し、咥えて投手板まで運んでいった。
「おっ、市川にも利口な犬がいるぜ」投手板の男は市川在住の犬族が聞いたら腹を立てそうなことを言い頭を撫でてくれました。(中略)「野球を職業にしている人じゃないかな」という考えが浮かびましたが、ラーメンの匂いがぷんぷんしている。どうも正体が掴めない。(中略)打席の男は一米八十糎以上はありましたろう。(中略)この素晴らしい肉体の持主は盲目でした。ボールを打つ際、顔を伏せ、右耳を投手板に向けていたのは、目が不自由だったからなんですね。
(『野球盲導犬チビの告白』から引用)
これがチビと田中一郎、そして彼を育てた元野球選手でラーメン屋の店主・永井コーチとの出会いだった。物語は全編を通して犬のチビの目線で描かれているのがとても新鮮だ。
野球協約第83条とは?
訓練を重ね、十分にプロとしてやっていける実力を見につけた主人公はコーチとチビと共に入団テストを受けに行く。最初に多摩川の巨人軍グラウンドを訪ねたが、そこではテストさえ受けさせてもらえずけんもほろろに断られる。そして、ふたりと一匹は横浜大洋ホエールズの本拠地、横浜スタジアムに向かった。5分間だけほしいと永井コーチは別当監督を説得し、田中一郎は盲人であることを伏せたままバッターボックスに入った。打撃投手の投げたボールはすべてホームランで、しかも左右へと打ち分けられた。実力をしっかりと見せつけた後で、「田中一郎は盲人なのです」と打ち明けたのだ。
ぼくはうれしかった。だって別当監督がわが田中一郎さんを気に入ってくれていることが、その仕草や顔色からもはっきりわかりましたから。
(『野球盲導犬チビの告白』から引用)
問題は、野球協約第83条に触れるかどうか?
第八十三条 不適格選手。球団は左に揚げるものを支配下選手とすることはできない。
(1)医学上男子でないもの。
(2)不適当な身体または形態をもつもの。
(3)連盟会長が野球の権威と利益を確保するため不適当と認めたもの。
さらに、犬がグラウンドに入っていいのか? もネックになったが、永井コーチは啖呵を切った。
「ここに若者がひとりいる。そいつは野球の才能に恵まれ、自分でも野球で身を立てようとしている。ただしその若者が自分の実力を発揮するには犬コロが一匹必要だが、どうして犬コロを連れてグラウンドに出ちゃいけねえんだよ。その犬は野球を知っている。だからゲームの進行を妨げやしねえ。(中略)王 貞治に匹敵するような素質の持主が、どうして自分のなりたいものになれねえんだい。つまりあんたらは、盲人は野球をやっちゃいけねえといいてえんだな。」
(『野球盲導犬チビの告白』から引用)
こうしてチームは野球界に挑戦状を投げつけるべく、田中一郎と契約を交わすことになったのだ。
野球盲導犬が必要な理由
田中一郎は球場にすでにあるもの、ベースや投手板や内外野やフェンスなどにまごつくことはない。また、ボールをはじめ動くものに対しては、異常なほどに鋭い聴覚力や動物的な勘が働いて万全に、迅速に反応できる。
が、しかし、不意に置かれた動かないものに対しては即座の対応は不可能で、もしも、走るコース上にグラヴやヘルメットを置かれたら、踏んで転ぶ。それを防ぎ、助けるのがチビの役目なのだ。
チビはリードの端を主人のユニフォームのベルトに結わえつけられ、グラウンドに立つ。野球を知っているというチビが球種のサインを覗いたり、走者になったときは、牽制球への対処や盗塁の先導を、啼き分け、唸り分けでするシーンなどは、フィクションならではのおもしろさがある。
さて、デビュー後の田中一郎とチビの活躍はネタバレになってしまうので書けないが、とにかく痛快だ。
本書はすべての野球ファン、そして犬好きにもおすすめしたい。
【書籍紹介】
野球盲導犬チビの告白
著者:井上ひさし
発行:実業之日本社
盲目の天才打者、横浜大洋ホエールズの田中一郎選手。盲導犬に先導され、“耳”で球種を捉える驚異の打法で、昭和54年度は本塁打56本、打率4割7分4厘を記録。とくに対巨人戦での活躍はめざましかった。壮大な「予告ホームラン」でも物議をかもす田中の謎につつまれた生い立ち、球界が狼狽える様を、一匹の“野球盲導犬”が語る、奇想に満ちた物語。