本・書籍
2020/8/3 21:45

本の中で19世紀末のパリを歩くと、そこにゴッホがいた−−『たゆたえども沈まず』

たゆたえども沈まず』(原田マハ・著/幻冬舎・刊)文庫版の帯には女優・北川景子さんの言葉が書かれていた。

 

この本と旅をしました。そこには会えるはずのないゴッホがいました。

 

表紙カバーはフィンセント・ファン・ゴッホの「星月夜」。ゴッホのファンの私はすぐさま本書を手にし、夢中で読み始めた。コロナ禍で海外旅行が叶わない今だが、本を開くと瞬く間に19世紀末のパリにタイムスリップできる。そして本当にあのゴッホ兄弟に会えたような感覚を覚え、いい旅が出来たなという気分浸れる一冊だったのだ。

 

 

パリでの空白の2年間が生んだフィクション

フィンセントは弟のテオにたくさんの手紙を書いていたので、アルルやサン・レミでの出来事は克明にわかっている。が、その前、パリでの2年間はゴッホ兄弟は同居していたので、どんな暮らしぶりだったのか、どんな出来事があったのかは記録に残されていない。そこを突いて生まれのが、このアート・フィクションだ。

 

著者の原田さんは作家であると共に、美術史を学んだキュレーターでもあり、描かれた絵画や歴史的事実を検証した上でストーリーを組み立てているので、フィクションとはいえ、話には真実味があるのだ。

 

読み進めるたびに「ありえる」、「きっとそうだったはず」と呟いてしまい、登場するゴッホや印象派の画家たち、そして絵の中の人物でしかなかったタンギー爺さんまでもが、鮮やかにイキイキと蘇ってくるのだ。

 

 

もうひとりの主人公は画商・林 忠正

19世紀末のパリの美術界で活躍していた日本人がいたのをご存じだろうか? その人の名は、林 忠正、富山県高岡市出身の美術商だ。林は流暢なフランス語を操り、パリを本拠地として日本美術を売り捌いていた。

 

また、フランスの作家エドモン・ド・ゴングールとも親しく、彼の晩年の著作である『歌麿』『北斎』は林の協力によって刊行された。また、林は当時はまだ酷評されていた印象派の画家たちとも親しくし、援助などもしていたという。そのころのパリは空前の浮世絵ブーム。印象派の画家たちも浮世絵に魅了され、コレクターになっていった。しかし彼らはまだ売れない画家で貧しかったため、林 忠正の手元には浮世絵の代金代わりに受け取った彼らの作品がたまっていったのだそうだ。

 

ゴッホと林に交流があったという記録は残されていない。が、ゴッホも浮世絵に魅せられた一人で、ジャポネズリーの「花魁」「梅の開花」「雨の橋」など模写作品を残しているから、知り合いだった可能性は高い。

 

本書では、林とゴッホ兄弟の奇跡の出会いが、のちにフィンセントが世界を変える一枚の絵を生むという展開で進んでいく。

 

 

パリの画材屋 ジュリアン・タンギー

この物語で私が個人的にいちばん好きなのが、フィンセントが「タンギー爺さん」を描くシーンだ。現在、パリのロダン美術館に所蔵されているこの名画は、きっとこんな風にして生まれたに違いないと思えてくるのだ。

 

ジュリアン・フランソワ・タンギーはパリで画材屋を営んでいて、絵の具代を支払えない若い画家たちを理解し、絵画での支払いを認めていた。そのため、店内は絵画でいっぱいだったそうだ。

 

フィンセントも画材代金として、タンギーの肖像画を描くことになる、本書では林 忠正が背景の絵として浮世絵を貸し出したことになっている。

 

「さあ、どうぞ親父さん。その浮世絵の壁の前にある椅子へ」

テオに促されて、タンギーは粗末なスツールに腰掛けた。その背景には六点の浮世絵が貼り出されていた。歌川豊国、歌川広重、そして渓斎英泉。風景画と美人画。はっきりと明瞭な色面、大胆な構図。どれもが一級品の浮世絵である。

「まるで日本のミカドのようだな」

浮世絵に囲まれて鎮座するタンギーを眺めて、ひと言、フィンセントが言った。タンギーもテオも楽しげに笑った。

(『たゆたえども沈まず』から引用)

 

 

「たゆたえども沈まず」とは?

作者の原田さんは、そもそもこの小説は林 忠正にスポットを当てて書き始めたのだそうだ。世界中から富と人と文化が集まってくるパリで闘う日本人の姿を描こうとしたのだ。小説には架空の人物としてやはりパリに憧れ、パリを目指した重吉という日本人を挿入している。

 

題名の「たゆたえども沈まず」がどうしてつけられたのかも冒頭に出てくる。東京でまだ学生だった林と重吉の会話だ。

 

「たゆたえども沈まず−−って、知ってるか?」

突然のことで、今度は重吉が目を輝かせた。忠正は、ふっと笑みを口もとに浮かべた。

「パリのことだよ」

「……パリ?」

「そう。……たゆたえども、パリは沈まず」

花の都、パリ。

(『たゆたえども沈まず』から引用)

 

パリの中心を流れるセーヌ川は、何度も氾濫し、住む人々を苦しめてきた。けれども、流れに逆らわず、激流に身を委ね、決して沈まず、やがて立ち上がる。パリはそのような街なのだ。

 

 

ゴッホが描きたかったのはセーヌ川?

ゴッホは2年間もパリに暮らしながらセーヌ川を描いていない。そこをこのアート・フィクションでは突いている。林とゴッホのやりとりを引用しておこう。

 

−−いちばん描きたいものを、私は、永遠に描くことができません。

不思議に思った忠正は、それは何かと尋ねた。フィンセントは、すぐには答えようとしなかったが、やがて打ち明けた。

−−セーヌです。

(『たゆたえども沈まず』から引用)

 

忠正はフィンセントにアドバイスする。あなたは舟になって嵐が過ぎるのを待てばいい、たゆたえども沈まずに。そして、いつか私をはっとさせる一枚を描き上げてほしいとフィンセントに言うのだ。

 

物語では、この一枚がのちにゴッホの代表作となり、現在はニューヨーク近代美術館の永久コレクションとなっている「星月夜」だったと結んでいる。

 

サン・レミの病院で療養中に描かれた風景画だが、実際の風景ではなくゴッホのインスピレーションで描かれたものだ。よくよく眺めていると、ブルーの夜空は、渦巻くセーヌの流れのようにも見えはしないか……?

 

本書は、ゴッホが好きな人、美術に興味のある人、パリが好きな人、そして何より19世紀末に異国で闘っていた日本人のビジネスマンがいたことを知るためにも、是非読んでほしい一冊だ。

 

 

【書籍紹介】

 

たゆたえども沈まず

著者:原田マハ
発行:幻冬舎

19世紀後半、栄華を極めるパリの美術界。画商・林 忠正は助手の重吉と共に流暢な仏語で浮世絵を売り込んでいた。野心溢れる彼らの前に現れたのは日本に憧れる無名画家ゴッホと、兄を献身的に支える画商のテオ。その奇跡の出会いが“世界を変える一枚”を生んだ。読み始めたら止まらない、孤高の男たちの矜持と愛が深く胸を打つアート・フィクション。

楽天koboで詳しく見る
楽天ブックスで詳しく見る
Amazonで詳しく見る