「ここではない世界に行ってみたい」と人は誰しも一度は思うだろう。それを実行に移すのは少数派かもしれないが、私は20数年前、ある日突然に日本を脱出して欧州に向かった。本書を手にしたのはタイトルをみて懐かしい気持ちになったからだが、著者がわかるとますます興味津々となった。塩谷 舞さんといえば「バスライター」の異名をとる現代のオピニオンリーダーだ。
『ここじゃない世界に行きたかった』(塩谷 舞・著/文藝春秋・刊)は、インターネットの世界で情報を発信し続けてきた彼女の初の紙媒体。”静かな声が届くよう、静かな空間でゆっくり話をしてみたかった。”という塩谷さんの願いが込められたエッセイ集なのだ。
バズライターが自分を取り戻すためにはじめたnote
塩谷さんがインターネットを使って世に放った記事は十中八九バズっていた。が、しかし、悩みもあったようだ。
インターネットの大波に揉まれて記事を量産していると、自分が書いているのか、大衆が求めるものを書かされているのか、もしくはアルゴリズムのマリオネットになっているのかさえもわからなくなってくるものだ。そこで数年前から、noteで『視点』という定期購読マガジンをはじめた。(中略)誰かのインタビューでもなく、何かの宣伝でもなく、ただ自分が考えていることだけを夜通し書き綴っていく行為は、インターネットに疲れた自分自身へ施すセラピーのようでもあった。
(『ここじゃない世界に行きたかった』から引用)
本書は、そのnoteの『視点』、そして塩谷さんがひっそりと運営しているというWEBメディア「milieu」などから記事を抜粋し、加筆と修正を加えて出来上がった一冊。バズライターの本音が聞ける本といえるだろう。
ニューヨークに移住
塩谷さんにとっての「ここではない世界」はニューヨークだった。2017年秋、アート研究家のご主人が現代アートの中心地であるニューヨークに移住を決め、彼女もついて行くことになった。憧れの地での暮らしは、最初からバラ色ではないのが常のようで、ニューヨーク到着と同時に淡い期待を床に投げつけるような散々な日々がはじまった、と記している。住まいは快適ではなく、日本から送った大切な荷物は盗まれる。物価は高く、競争は激しく、治安は悪く、寒すぎる……などなど。
海外旅行経験すら少なかった私には、想定外のことばかりだった。(中略)どこか遠くへいきたいな……と、脳内お花畑でのこのこついてきた自分こそが大馬鹿野郎なのだ。せめて愚痴でもこぼそうかとTwitterを開けば、「塩谷舞は自分の意志で渡米した訳じゃないから、やっぱり全然覚悟が足りない」だなんて書かれて泣けてくる。図星だからこそ泣けのるだ。
(『ここじゃない世界に行きたかった』から引用)
けれども、塩谷さんはその状況に留まることはなかった。Instagramを徘徊して、お気に入りの店を見つけたり、人との出会いを求めて行動を開始。しだいに塩谷さんの視野はグンと広がり、五感はみずみずしく冴え、その結果、世界の諸問題に対する視点も、ますますするどくなっていったのだ。
先に答えを知ると本質に辿り着きにくい
塩谷さんは、何事に対しても、〔感じる→考える→知る→考える→文章にする〕という順番を大切にしているそうだ。それは、最初から頭に情報を与えてしまうと、何を見ても情報との答え合わせになって、自由に空想する時間が失われてしまうからだ。
そうして心ゆくまで勘違いしたのち、解説文を読んだり、関連書籍に手を出したりするのだけれど。でもすでに、自分の脳内に勝手な物語をこしらえているもんだから、そこに書かれている「正解」は、共感と裏切りの連続だ。合っていても間違っていても、知れば知るほど感極まる。そして今度は、正解にイチャモンを付けたりしてみる。(中略)どれほどの偉人相手でも、脳内で議論するのは自由なもんだ。
(『ここじゃない世界に行きたかった』から引用)
彼女が綴る文章が新鮮なのは、そういう過程を経てから言葉を紡いでいくからなのだろう。
コロナ禍で変わった日常
ところで、現在の長引くコロナ禍は塩谷さん夫妻の生活も変えてしまったようだ。アートを生業にするご主人は仕事が相次いで中止になる事態に。ない袖は振れないと、家賃の予算を下げ、ニューヨーク州の隣のニュージャージー州に引っ越しをした。自然に囲まれてはいるが、徒歩で行ける商業施設は大型スーパーとスターバックスコーヒーというありふれた郊外の風景。マンハッタンは近くて遠い場所になった。
最近の私といえば、外からの刺激は月に一度でも多すぎるくらいなのだ。あとは家の中でもぐらのように過ごし、あれやこれやと悩みながら、文章を書くくらいがちょうどいい。刺激は自分の内側にも満ちていて、そっちを追いかけているほうがうんと高揚感に包まれることに気づいてからは、何かを求めて都会に出る回数も減っていった。
(『ここじゃない世界に行きたかった』から引用)
「ここじゃない世界」は今いる場所にもある
塩谷さんの故郷は、大阪千里のニュータウン。退屈でつまらない町だと飛び出してきたものの、「ここには何もない」と諦め、つまらなくしていたのは自分自身だったと、ここにきて気づいたのだそうだ。
世界のどこに行ったって、自分のために用意された理想郷は存在しない。だったら自分でやるしかない。内側の声に、そして地域の声に耳を傾け、自らの手で小さな理想郷をこしらえていく。それが一番まっとうで、真面目で、美しい在り方なんだろう。そうしてできたものをインターネットに乗せてあげれば、「ここじゃない世界」はあちらから、いまいる場所までやってきてくれるのかもしれない。
(『ここじゃない世界に行きたかった』から引用)
コロナ禍の最中、どこにも行けない、何も出来ないと嘆いている人には塩谷さんの言葉が響くはずだ。
本書には、ニューヨークで見つけた美しいもの、愉快な人々との出会いなどワクワクする話、さらには、BLM問題、アジア系アメリカ人にまつわる深い話、大統領選で見えてきた青と赤のあわいにある色たちの話など、読み応えのある内容ばかりだ。
【書籍紹介】
ここじゃない世界に行きたかった
著者:塩谷 舞
発行:文藝春秋
あたりまえに生きるための言葉を取り戻す。出会うべき誰かと強く惹かれあうためにー。世界の諸問題への視点と生活への美意識が胸を打つ、“多様性の時代を象徴する”新世代エッセイ集!
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